沼地のある森を抜けて
1,980円(税込)
発売日:2005/08/31
- 書籍
はじまりは「ぬかどこ」だった。先祖伝来のぬか床がうめくのだ――。待望の書下ろし長篇小説。
叔母が死んで、久美は代々伝わるというぬか床を世話することになった。そのぬか床に、得体の知れない卵が出現。いったい何が起こっているの? 久美は酵母研究者の風野さんを伴い、ぬか床由来の故郷の島を訪ねる。増殖する命、連綿と息づく想い……。解き放たれてたったひとりの自分を生き抜く力とは?
書誌情報
読み仮名 | ヌマチノアルモリヲヌケテ |
---|---|
発行形態 | 書籍 |
判型 | 四六判変型 |
頁数 | 416ページ |
ISBN | 978-4-10-429905-8 |
C-CODE | 0093 |
ジャンル | 文芸作品 |
定価 | 1,980円 |
書評
波 2005年9月号より 『沼地のある森を抜けて』刊行記念 〈緑〉の生命観 梨木香歩『沼地のある森を抜けて』
梨木さんの作品を初めて読んだのは、六年ほど前のことだ。当時所属していた研究室の秘書の方に、かの代表作『西の魔女が死んだ』を教えていただいたのである。一読、今の日本の散文学から失われて久しい、豊かな生命世界に驚いた。絶滅危惧種の花を、思いがけなくも市街地で見つけたような喜びだった。
昨今は環境文学と称して、図鑑からの引き写しや、聞き書きによって〈自然〉を盛り込んだかのように見せた作品が、一部でもてはやされている。だがこれらの場合は、自然が作家の側になく、依然として図鑑や、取材相手の側に残されたままにとどまっていることが多い。自然を取り込んだ作品とはなっていないのが実情だ。ところが梨木さんの場合は、作者の側にきちんと自然が取り込まれ、作品の肉となり血と化している。希有と言うべきだろう。
そんな梨木さんの新作を、今回、刊行前に読む機会を得た。何でも光栄なことに、私が四年前に書いた啓蒙書の『植物のこころ』(岩波新書)に触発された箇所も一部あるとのこと。期待半分、不安半分で郵便を受け取り、結果としては、封を開いたその日のうちに、飛ぶように読了してしまった。微笑とともに始まり、読後には思考を誘う。薄明かりの中の平安とともに終わる本書は、今までと違った生命観を読者に与えてくれることだろう。これは、〈緑〉の生命観だ。私は満足して校正刷りを束ね直し、その晩、新しい酒を開けた。
新作『沼地のある森を抜けて』の梗概を少し紹介してみよう。主人公は、その世界の存在をこれまで全く知ることなく、普通に暮らしていた久美である。ちょっと強気で独立独歩タイプの独身OLだ。物語は、梨木作品の多くと共通し、近親者の死をきっかけに始まる。本作品の場合は、叔母の死とそれに伴う形見分けをきっかけとして、久美が、自らの一族がたどってきた生の真の姿を知り始めるという設定だ。代々、ぬか床を守り伝えてきたその一族は、南西諸島とおぼしき、ある島を出自とする人々であった。久美がやがて気づいたことには、その生は、人々が普通に信じているのとは大きく違い、はるかに不定形で、かつ融通のきく生だった……。不定形で融通のきく生――これはいったい何だろう?
人はふだん、その生命を一番大事にしてはいるが、その本質に関しては、よく理解がなされていないように思う。ヒトはつい、生命を、あるいは植物を擬人化する、という過ちを犯しがちだ。だが本当は私たちは、逆に、植物の側をこそ基準としてヒトを見るべきなのである。私が先の新書で伝えようと思ったのも、そうした読者の生命観の変革であった。植物の生命を基準として、ヒトの生を見直してもらおうとしたのである。梨木さんは、その、まさに私が伝えようとしたところを、全く自家薬籠中のものとして、独自に、不思議にやわらかな世界に組んで見せた。専門的な生物学用語も操る梨木さんだけに、本作品を虚心坦懐に読む方々は、理屈からも、またおそらく無意識のうちにも、そのメッセージ、ある種の生命観を取り込むことになるだろう。そっと、するりと、読者の無意識の世界に入り込むあたり、この作品が生命観に大きな影響を与える潜在的な力は、極めて強いのではあるまいか。これは、ヒトの生を、植物を見るようにして見た作品だ。そう、本書は、ヒトの生の本質、真の生命観を教える福音の書なのである。
しかしこんな紹介の仕方で大丈夫だろうか? 変な話だとお思いかもしれない。もちろん、ヘンな物語なのは、折り紙付きだ。だからといって、本誌の読者の皆さんが、愛想笑いしつつ、そっと私たちのそばから後ずさりしていってしまうようでは、紹介者の立場として非常に困る。ここは私を信じていただき、あるいは梨木さんのこれまでの作品の愉しさを思い出していただいて、是非ご一読いただきたい。ただしその結果、生命観と人生観が大きく変わり、人生をやり直すことになっても、責任は取れないのであしからず。
→【刊行記念インタビュー】沼地のある森を抜けて(梨木香歩)
昨今は環境文学と称して、図鑑からの引き写しや、聞き書きによって〈自然〉を盛り込んだかのように見せた作品が、一部でもてはやされている。だがこれらの場合は、自然が作家の側になく、依然として図鑑や、取材相手の側に残されたままにとどまっていることが多い。自然を取り込んだ作品とはなっていないのが実情だ。ところが梨木さんの場合は、作者の側にきちんと自然が取り込まれ、作品の肉となり血と化している。希有と言うべきだろう。
そんな梨木さんの新作を、今回、刊行前に読む機会を得た。何でも光栄なことに、私が四年前に書いた啓蒙書の『植物のこころ』(岩波新書)に触発された箇所も一部あるとのこと。期待半分、不安半分で郵便を受け取り、結果としては、封を開いたその日のうちに、飛ぶように読了してしまった。微笑とともに始まり、読後には思考を誘う。薄明かりの中の平安とともに終わる本書は、今までと違った生命観を読者に与えてくれることだろう。これは、〈緑〉の生命観だ。私は満足して校正刷りを束ね直し、その晩、新しい酒を開けた。
新作『沼地のある森を抜けて』の梗概を少し紹介してみよう。主人公は、その世界の存在をこれまで全く知ることなく、普通に暮らしていた久美である。ちょっと強気で独立独歩タイプの独身OLだ。物語は、梨木作品の多くと共通し、近親者の死をきっかけに始まる。本作品の場合は、叔母の死とそれに伴う形見分けをきっかけとして、久美が、自らの一族がたどってきた生の真の姿を知り始めるという設定だ。代々、ぬか床を守り伝えてきたその一族は、南西諸島とおぼしき、ある島を出自とする人々であった。久美がやがて気づいたことには、その生は、人々が普通に信じているのとは大きく違い、はるかに不定形で、かつ融通のきく生だった……。不定形で融通のきく生――これはいったい何だろう?
人はふだん、その生命を一番大事にしてはいるが、その本質に関しては、よく理解がなされていないように思う。ヒトはつい、生命を、あるいは植物を擬人化する、という過ちを犯しがちだ。だが本当は私たちは、逆に、植物の側をこそ基準としてヒトを見るべきなのである。私が先の新書で伝えようと思ったのも、そうした読者の生命観の変革であった。植物の生命を基準として、ヒトの生を見直してもらおうとしたのである。梨木さんは、その、まさに私が伝えようとしたところを、全く自家薬籠中のものとして、独自に、不思議にやわらかな世界に組んで見せた。専門的な生物学用語も操る梨木さんだけに、本作品を虚心坦懐に読む方々は、理屈からも、またおそらく無意識のうちにも、そのメッセージ、ある種の生命観を取り込むことになるだろう。そっと、するりと、読者の無意識の世界に入り込むあたり、この作品が生命観に大きな影響を与える潜在的な力は、極めて強いのではあるまいか。これは、ヒトの生を、植物を見るようにして見た作品だ。そう、本書は、ヒトの生の本質、真の生命観を教える福音の書なのである。
しかしこんな紹介の仕方で大丈夫だろうか? 変な話だとお思いかもしれない。もちろん、ヘンな物語なのは、折り紙付きだ。だからといって、本誌の読者の皆さんが、愛想笑いしつつ、そっと私たちのそばから後ずさりしていってしまうようでは、紹介者の立場として非常に困る。ここは私を信じていただき、あるいは梨木さんのこれまでの作品の愉しさを思い出していただいて、是非ご一読いただきたい。ただしその結果、生命観と人生観が大きく変わり、人生をやり直すことになっても、責任は取れないのであしからず。
(つかや・ひろかず 植物学者)
→【刊行記念インタビュー】沼地のある森を抜けて(梨木香歩)
著者プロフィール
梨木香歩
ナシキ・カホ
1959(昭和34)年生れ。小説に『丹生都比売 梨木香歩作品集』『西の魔女が死んだ 梨木香歩作品集』『裏庭』『からくりからくさ』『りかさん』『家守綺譚』『村田エフェンディ滞土録』『沼地のある森を抜けて』『ピスタチオ』『僕は、そして僕たちはどう生きるか』『雪と珊瑚と』『冬虫夏草』『海うそ』『岸辺のヤービ』など、またエッセイに『春になったら莓を摘みに』『ぐるりのこと』『渡りの足跡』『不思議な羅針盤』『エストニア紀行』『やがて満ちてくる光の』『炉辺の風おと』『歌わないキビタキ』などがある。
判型違い(文庫)
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