
ある一日
1,320円(税込)
発売日:2012/02/29
- 書籍
こんどこそ生まれてきてくれる――。赤ん坊の誕生という紛れもない奇跡。
書評
波 2012年3月号より ある一日の創世記
舞台は京都。慎二は妻の園子とともに産院の検診へ出かける。十月のその日は出産予定日である。四十代のふたりにとって、これが最初で最後の出産かもしれない。
『ある一日』には、彼らのこの出産が描かれている。
産院から出て、ふたりは錦市場ではもをもとめる。歩きなれた道に突如あらわれるきのこの森。幼魚のうちは性別の定まらないうなぎ。まぼろしの猫、岩のなかのかえる、さまざまな生きものがどこからかぬうっと姿をあらわし、彼らのそばにそこはかとなく漂う。
「夢の世界に隠れて生きるようになった」というまつたけをふたりが食べる場面では、読みながら、こちらの身のうちにも夢をみるまつたけが菌糸を伸ばしてくるのを感じた。
京都の町を流れる鴨川は、かつて訪れた八重山諸島の海につながり、溺れかけたことのあるニューヨークのハドソン川にいざなう。それらの波間を泳ぐのは、彼らが鍋にして食べているはもである。
慎二と園子のからだから、ゆらりと泳ぎだした純白のはもが、カプリ、カプリと時間をのみながら、闇のトンネルをのたくり、黒島沖にあらわれて慎二を救った、ということはあり得ない話ではない。
いよいよ、園子に陣痛がやってくる。慎二もまた、ひたひたと寄せてくる何かの気配を感じつづけている。
痛みに叫び声を上げる園子。慎二も彼女によりそい、一緒に叫ぶ。助産師は、だいじょうぶ、おりてきてるよ、という。園子は、思う。
「おりてくる」のは重力によるのでなく、なにか別の、そんな物理法則など突破し、この世に浮上してくる、矛盾にみちたエネルギーが発露するためだ。
生と死を同時に有する、まさに命は矛盾そのものである。生まれる前の子を亡くした経験のある園子は、命がはじめから死をはらんだものであるのを身にしみて知っているのだろう。新しい命の誕生は、新しい死の誕生でもある。
やがて小さな「いきもの」が目をあける。それのいるところは、すべての命のはじまりでもあり、終わりともいえる場所のようである。そこには、生まれてこなかった、彼らの最初の子もいる。純白のはもが泳いだ闇のトンネルのようでもある。
矛盾にみちた不断の連なりの、ほんのわずかな結び目に、園子と慎二、そして「いきもの」はいる。
一日に、人類の歴史のすべてが込められている、いしい氏ならではの神妙な語りに目が開かれる。人の誕生の不可思議さ、おもしろさ、おかしささえも存分に味わえる小説だった。まるで神話の世界に遊んだかのような読後感だった。
園子と慎二と「いきもの」は、「同じ夢のなかでつながり、折り重なっていった」という。おそらくこの夢を、かつて私たち全員がみたにちがいないし、たった今も、みつづけているのだろう。そもそも私たちは日々、歴史を生きているのではなかったか。
出産に立ちあっただけでは、このようなものは書かれないはずだ。いしい氏は、園子さんと共に、身をもって子を産みおとしたのだと思う。
この小説を読みながら、一昨年に経験した初産を思い出した。あれほど自身が消えたことはなかった。おのれが消えるとき、はじめて神話は語られるのかもしれない。
『ある一日』には、彼らのこの出産が描かれている。
産院から出て、ふたりは錦市場ではもをもとめる。歩きなれた道に突如あらわれるきのこの森。幼魚のうちは性別の定まらないうなぎ。まぼろしの猫、岩のなかのかえる、さまざまな生きものがどこからかぬうっと姿をあらわし、彼らのそばにそこはかとなく漂う。
「夢の世界に隠れて生きるようになった」というまつたけをふたりが食べる場面では、読みながら、こちらの身のうちにも夢をみるまつたけが菌糸を伸ばしてくるのを感じた。
京都の町を流れる鴨川は、かつて訪れた八重山諸島の海につながり、溺れかけたことのあるニューヨークのハドソン川にいざなう。それらの波間を泳ぐのは、彼らが鍋にして食べているはもである。
慎二と園子のからだから、ゆらりと泳ぎだした純白のはもが、カプリ、カプリと時間をのみながら、闇のトンネルをのたくり、黒島沖にあらわれて慎二を救った、ということはあり得ない話ではない。
いよいよ、園子に陣痛がやってくる。慎二もまた、ひたひたと寄せてくる何かの気配を感じつづけている。
痛みに叫び声を上げる園子。慎二も彼女によりそい、一緒に叫ぶ。助産師は、だいじょうぶ、おりてきてるよ、という。園子は、思う。
「おりてくる」のは重力によるのでなく、なにか別の、そんな物理法則など突破し、この世に浮上してくる、矛盾にみちたエネルギーが発露するためだ。
生と死を同時に有する、まさに命は矛盾そのものである。生まれる前の子を亡くした経験のある園子は、命がはじめから死をはらんだものであるのを身にしみて知っているのだろう。新しい命の誕生は、新しい死の誕生でもある。
やがて小さな「いきもの」が目をあける。それのいるところは、すべての命のはじまりでもあり、終わりともいえる場所のようである。そこには、生まれてこなかった、彼らの最初の子もいる。純白のはもが泳いだ闇のトンネルのようでもある。
矛盾にみちた不断の連なりの、ほんのわずかな結び目に、園子と慎二、そして「いきもの」はいる。
一日に、人類の歴史のすべてが込められている、いしい氏ならではの神妙な語りに目が開かれる。人の誕生の不可思議さ、おもしろさ、おかしささえも存分に味わえる小説だった。まるで神話の世界に遊んだかのような読後感だった。
園子と慎二と「いきもの」は、「同じ夢のなかでつながり、折り重なっていった」という。おそらくこの夢を、かつて私たち全員がみたにちがいないし、たった今も、みつづけているのだろう。そもそも私たちは日々、歴史を生きているのではなかったか。
出産に立ちあっただけでは、このようなものは書かれないはずだ。いしい氏は、園子さんと共に、身をもって子を産みおとしたのだと思う。
この小説を読みながら、一昨年に経験した初産を思い出した。あれほど自身が消えたことはなかった。おのれが消えるとき、はじめて神話は語られるのかもしれない。
(くりた・ゆき 作家)
著者プロフィール
いしいしんじ
イシイ・シンジ
1966(昭和41)年大阪生れ。京都大学文学部仏文学科卒。1996(平成8)年、短篇集『とーきょーいしいあるき』刊行(のち『東京夜話』に改題して文庫化)。2000年、初の長篇『ぶらんこ乗り』刊行。2003年『麦ふみクーツェ』で坪田譲治文学賞、2012年『ある一日』で織田作之助賞、2016年『悪声』で河合隼雄物語賞を受賞。その他の小説に『トリツカレ男』『プラネタリウムのふたご』『ポーの話』『みずうみ』『四とそれ以上の国』『よはひ』『海と山のピアノ』、エッセイに『京都ごはん日記』『且坐喫茶』『毎日が一日だ』など。2018年12月現在、京都在住。
判型違い(文庫)
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