ホーム > 書籍詳細:チェロ湖

チェロ湖

いしいしんじ/著

5,500円(税込)

発売日:2025/10/30

  • 書籍

竿に括られた蓄音器の針が百年の物語を釣りあげてゆく──。心震わせる圧倒的大長篇!

弦楽器のかたちの湖にボートで漕ぎだす若い男。竿の先に括られた蓄音器のまっすぐな針が、一族四代、百年にわたる「ものがたり」を釣りあげる。野人めいたタフな祖父、蓄音器に魅せられた祖母、チェリストの母、神出鬼没の建築家の父、風の音、鳥のさえずり、レコード、オーケストラ、いくつもの歌……心震わせる圧倒的大長篇!

目次

i
1 まっすぐな釣り針
2 一九二四年のドジョウのみ大会
3 声の配達人
4 こんばん、釣りにもってこいです
5 虎落モガリブエ
6 オヤジのエリ
7 赤黒い風
8 「うみ」の底へ
9 ガオーの世界
10 スモウ、とりゃんすか

ii
11 遠くからきた少年
12 一九五〇年にひびくチェロソナタ
13 一九三九年の感謝状
14 ほんとうの哀しみ
15 円盤襲来
16 うらびゃうしの時間
17 一九四五年の野鳥組曲
18 母たちは眠る

iii
19 まわり馬に乗って
20 「うつわ」と「けんざい」
21 ヤッチャンのハカ
22 橋をかける
23 まる、まっすぐ、まる、まっすぐ

iv
24 鴨鍋さわぎ
25 一九五四年のおはなし釣り
26 イキテイル
27 旅するチェロ
28 ダルマストーブによるただしいこと
29 一九六八年の「素敵な四人ファビュラス・フォー
30 とんきょうな、鳥のだいくよ

v
31 作家イムヤ・アンナクスト
32 ねむりの茶室
33 「けんざい」もしくはみずうみの夢
34 ミステリー茶会
35 ひとつの夜をねむるもの
36 ガイライシュ
37 めざめ
38 ルッランテ
39 貝やぐらの底で
40 アニマート

書誌情報

読み仮名 チェロコ
装幀 100%ORANGE/題字・装画、新潮社装幀室/装幀
雑誌から生まれた本 新潮から生まれた本
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 912ページ
ISBN 978-4-10-436305-6
C-CODE 0093
ジャンル 文芸作品
定価 5,500円

書評

命そのものの再現

武田裕藝

 かつて寺田寅彦は随筆「地図をながめて」に記した。
〈地形図の中の任意の一寸角をとって、その中に盛り込まれただけのあらゆる知識をわれらの「日本語」に翻訳しなければならないとなったらそれはたいへんである〉
 地形図だけではない。目の前に確かにあるものを言葉で表すのはいかに難しいことだろう。「新潮」で約4年半連載した大河小説『チェロ湖』で著者が試みたのは、結果的にはチェロに似た形をした湖の全体像を自身の文章で可視化することだった、と言えそうである。それは無数の命が織りなすこの世界、言い換えれば命そのものの再現だったかもしれない。
 およそ100年にわたり琵琶湖と思しき〈うみ〉のほとりに暮らす一家4代の歴史を描く。4代目の〈若い男〉が1900年代、10年代、20年代……と年代別に整理された蓄音器の針のコレクションから1本を選び、釣り針代わりに湖に垂らす。あたかも1枚のレコード盤のごとく湖は往時の一家の挿話を語り出し、折々に奏でられる古今東西の歌曲が架け橋となって時代を繫ぐ。なぜ〈若い男〉は湖に先祖の物語を求めるのか。小さかった謎が次第に膨らみを増し、同時に喪失の気配がひっそりと物語を包み始める。
 まさに野人の2代目〈四人ヨツト〉、蓄音器の音楽に憑かれた幼なじみの妻〈千〉、天賦の才を持つチェリストの娘〈千四子〉。3人が物語の軸である。寓話的な四人の冒険譚が語られたかと思えば、千四子が都会で遭った空襲の様子が迫真の筆で描かれる。戦後、妖精めいた建築家の先導で人々がヨシの大橋を架けるくだりは一見おとぎ話のようでいて、この国がひたすら経済成長と開発に明け暮れ、数多の命を奪いながらコンクリートの構造物を乱立させた愚かさを逆説的に浮き彫りにする。
 リアリズム一辺倒では語り尽くせず、時に幻想の力を借り、時にユーモラスなホラ話を語り、時に魔術的な怪奇譚へと脱線しながら、諧謔や文明批評の精神も漲らせ、著者は〈うみ〉こそが命そのものだと綴ってゆく。謂ってみれば本作は幻想と現実がせめぎ合う、色とりどりの物語のるつぼである。近現代の叙事詩と呼ぶべき壮大な構えで、その混沌ぶりは固有種も〈ガイライシュ〉も分け隔てなく、あらゆる命を育み、呑み込む〈うみ〉そのものとオーバーラップする。水辺を舞台に生き物の種や空間、そして生と死の境までもが溶解する神秘的世界が広がる点は、『みずうみ』『海と山のピアノ』といった過去作に通ずる。
 命を奪うことでできあがる料理の描写にたびたび行数が費やされる一方で、我が子を慈しむ母の思いも叙情的に奏でられる。形あるものは皆壊れ、個々の命はいつか果てる。終盤思いがけないカタストロフが訪れるが、それゆえにこそ命そのものがそこにあったと感じさせる力業で本作は幕を閉じた。酷薄であり残酷であり、そして優しくも美しくもある命の営み──。〈若い男〉にまつわる謎が解き明かされる時、清冽な湖水の奥底から鳴り響く、再生の序曲が確かに聞こえた。
 冒頭の引用に話を転じれば、いかなる瞬間にも命は厳然としてここにあり、無数の命が絡み合い、溶け合いながら世界は成り立つ。しかしかつて命そのものを捉え得た文章はあったろうか。誕生の瞬間を描く。死を見つめて逆照射する。食物連鎖の意味を説く。青春の輝きや老いの残照をもって語らしめる。いずれも命とは何かとの問いに一定の答えを与えはしても、今この瞬間、世界をかたちづくる命のシンフォニーを言葉に置き換えることはほぼ不可能に映る。そこに永遠を感じ、著者は900頁以上の紙幅を割いて一大事業に挑んだのではなかろうか。音楽的な心地よさを秘めながらも1枚の絵を思わせる静謐な佇まいは、おそらく若き日の著者が画家を志したことと無関係ではない。
 喪失の悲しみを幾重にも塗り込めた初の長編小説『ぶらんこ乗り』を発表してから25年。さながら日本アルプスから遠く離れた孤独な峰を登攀するごとく、著者は日本文学の系譜から切り離された独自の道を歩んできた。それは『麦ふみクーツェ』で坪田譲治文学賞、『ある一日』で織田作之助賞、『悪声』で河合隼雄物語賞という受賞歴からも窺われる。命とこの世界への哀惜は四半世紀前そのままに、小利口に世界を解釈することなく、独り世界と対峙して築き上げた文学である。徒に標高のみを競うのでなく、どっしりと裾野を広げ人々を受け止める雄大な独立峰として、いしい文学はそびえる。その頂で今、『チェロ湖』はあなたが辿り着く時を待っている。
 作中の〈若い男〉の〈ものがたり釣り〉は、蓄音器でレコードの音楽を奏でた痕跡のない針ではうまくいかない。人は人生というレコード盤を自らの心の針で刻み、喜怒哀楽の表情は別として自分だけの音色を奏でながら生きている。蓋しその人がこれまで奏でた曲の数だけ、あるいはその幅の広さだけ、〈ものがたり釣り〉は複雑な光を放ち、翳りを帯びる。『チェロ湖』を開いて〈ものがたり釣り〉をする時、どんな音色があなたの心の反響板を揺らすだろうか。圧倒的かつ肯定的な調べであることは、ほとんど疑う余地がない。

(たけだ・ひろまさ 文芸記者)

波 2025年11月号より
単行本刊行時掲載

インタビュー/対談/エッセイ

三枚の黒い円盤

『チェロ湖』をめぐって

いしいしんじ

 はじめに「かたち」が浮かんだ。
 三つの黒い円盤が、上、中、下、と宙に浮いている。それぞれが湖で、水面は、同じ向き、反時計まわりに回転をつづけている。上から順に、主人公の時間、主人公の父母の世代の時間、主人公の祖父母の世代の時間をあらわす。
 主人公は、自分の時間の湖に小舟をだし、まわりつづける水面のまんなかで釣り糸をたらす。糸の先には、まっすぐな蓄音器用のレコード針が結びつけられている。深々とおりてゆく針は、父母の水面へ、さらに祖父母の水面へと沈み、その時代、その水辺に響いていた「ものがたり」を釣りあげる。
 書き出しでもストーリーでもなく、いきなり小説ぜんたいの「かたち」が明確にみえるのはこれがはじめてだった。蓄音器は、2009年に音楽の師匠に勧められて購入し、自宅でメインのオーディオ装置として日常でつかっていた。また、ほぼ同じ時期に地元の先輩に誘われ、早朝の琵琶湖でのコアユ釣りにもなじんでいた。「釣り」と「音楽」、ひいては「ものがたり」が、「針」というありふれたものでつながれる。
 こうした「かたち」が、ぼくは、とても自然だと感じた。この「かたち」を踏まえてさえいれば、どんな「ものがたり」が釣れようが、不自然なことにはならない、とも思った。
「新潮」での連載はとてもおだやかにはじまった。タイトルは「琵琶」湖にちなんで、同じ弦楽器の「チェロ」湖とした。
 ものがたりの釣り針は、1920年代から2020年代のあいだをランダムに行き来する。湖周をまわりつづける野生の馬たち。風に乗って響きわたる楽器の音。岸辺に流れつく無数の耳たぶ。下卑たようでいて清廉な精神をもちあわせる湖岸のひとびと。
 乗馬、旅、建築、音楽にお茶。日常の暮らしで触れたことが、小説にはいりこんだかと思うと、小説に書いたことが、日々の暮らしにこつぜんと現れた。小説を生きているのか日常を書いているのか、その境界があいまいになっていった。三枚の円盤は、日常の暮らし、小説の表面、さらにその奥底をあらわしているようにも感じた。ぼく自身、不透明な湖のただなかで、深さのわからないことばにむかって釣り針をたらしていた。
 終盤、湖底にたまった堆積物が、小説のなかに、けしてもとへはもどせない災厄をもたらす。目の前で生じるできごとが、湖岸の暮らしを粉々に壊していくさまを、淡々と書きつづった。ことば以前の「原ものがたり」が、ことばのものがたりをのみこんでいく。そのさまをあらわすのもまた、ことばによってでしかできないのだ。
 ぼく自身も「原ものがたり」にのみこまれていた。何度も湖に落ち、堆積物のなかでことばを失った。
 なんとか最後までたどりついたのは、はじめに浮かんだ「かたち」が救命ブイのようにはたらいたからかもしれない。三枚の円盤は、いまふりかえれば、書き手、小説、読み手の関係にもみえる。書いているぼくの底と読んでくれる読者の底は、まわりつづける「ものがたり」とまっすぐな釣り針をとおし、時と場所をこえて響きあうことができる。
 読者には、小説をこの「かたち」のまま、まるまる引き渡したい、という感覚が、ぼくの水底から湧きあがった。もとのままの文章はほとんど残っていないほど、ゲラ全体に朱を入れた。分量は百ページほど減り、小説ぜんたいの風景は、夏の朝の湖面をみわたすかのように広々とひらけた。
 以前とあるインタビューで、これからどんな小説を書きたいですか、と訊ねられたことがある。反射的に、宇宙のなぞに迫りたいです、とこたえたが、書きあがった「チェロ湖」には、迫るとはいかないまでも、そのあたりのことに、わずかに触れた感触はある。
 自分、というなぞ。こころの不思議。ひとも魚も鳥も虫も、「ガイライシュ」も、みながみな、ひとしなみにもつ、いのちのミステリー。
 さまざまなことがわからないから書きはじめる。いつもそうだし、今回はとくにそうだった。書いているあいだじゅうわからなかった。書きおわったいまも、いったいなんなのかよくわかっていない。
 ただ、なにかは釣りあがった。その手ごたえはいつまでも、背景放射のように、深々と残響している。宇宙とは、まわりつづける三枚の円盤のかたちをしているのかもしれない。

(いしいしんじ)

波 2025年11月号より
単行本刊行時掲載

著者プロフィール

いしいしんじ

イシイ・シンジ

1966年、大阪生まれ。京都大学文学部仏文学科卒。2000年、初の長篇小説『ぶらんこ乗り』刊行。2003年『麦ふみクーツェ』で坪田譲治文学賞、2012年『ある一日』で織田作之助賞、2016年『悪声』で河合隼雄物語賞を受賞。その他の作品にプラネタリウムのふたご』『ポーの話』『みずうみ』『四とそれ以上の国』『マリアさま』『げんじものがたり』『息のかたち』など。2025年秋、『トリツカレ男』が高橋渉監督によりアニメ映画に。京都在住。

この本へのご意見・ご感想をお待ちしております。

感想を送る

新刊お知らせメール

いしいしんじ
登録
文芸作品
登録

書籍の分類