
ロベール・クートラスをめぐる断章群
5,500円(税込)
発売日:2026/09/30
- 書籍
やはり自己の世界に沈潜すべきだったのだ。画家の歩みと試み、その断章群。
フランス各地を転々とし、石工などを経てヒッチハイクでパリへ。一躍、油彩が注目され、画廊の専属になるが、方針の違いから契約を破棄。毎晩、縦十二センチ、横六センチのボール紙に「カルト」を描きつづけ、貧窮のなか急逝したロベール・クートラス。十年にわたって、その足跡と画業を丹念にたどり、紡がれた随想録。
I 花壇に眠る人
II 闇の動線に沿って
III 青灰色の谷へ
IV 石工への道
V 髑髏の闇から抜け出て
VI 右寄りの消失点
VII 黄金の太陽、黄金の闇
VIII 背中のある風景
IX ジョーカーの謎
X 二十年前からいるべきだった場所
XI 震えを生み出す間隔
XII 数年遅れのアジャンダ
XIII ビグダンに隠されたもの
XIV 冥界への護符をたずさえて
《補遺》逃れてきた人を留めるために──ロベール・クートラスとシャルル=フレデリック・ブラン
あとがき
書誌情報
| 読み仮名 | ロベールクートラスヲメグルダンショウグン |
|---|---|
| 装幀 | 《僕の夜》(リザーヴカルト)3点 1967-1981年 約12cm×6cm ボール紙、油彩/カバー、内田芳孝+岡野圭/カバー表撮影、新潮社装幀室/装幀 |
| 雑誌から生まれた本 | 工芸青花から生まれた本 |
| 発行形態 | 書籍 |
| 判型 | A5判変型 |
| 頁数 | 240ページ |
| ISBN | 978-4-10-447107-2 |
| C-CODE | 0095 |
| 定価 | 5,500円 |
書評
闇のなかで、透明で苛烈な火を灯して
夜、ひさしく使っていなかった砥石を出して、たどたどしく、包丁を研ぎはじめる。研磨される音と、その砥石から出てくる砥汁のあおみがかったやわらかくもかんじる灰色をみてみたいためだった。本書を読み終えた心の震えがおさまらず、何かしないと眠れなかった。謎の多い画家ロベール・クートラスの絵と偶然出会い、強く惹かれた著者が、彼が遺したカルトと呼ばれる小さな絵を慎重に並べるように一本の線でひけるような評伝には決してせず、約十年ほどかけて取り組んだ断章形式の作品で、筆致は澄み切り、苛烈さもあって、気持ちがこみあがってきて、どうしていいかわからず、深夜の台所の蛍光灯の下で、ざりざり乱暴な音をさせながらなまくら包丁を研ぐことしかできない。
カルトの色を表現していることばを思い出しながら包丁を研いでいると、水に濡れた手に、刃に、砥石に、灰色がついてくる。砥汁は曇天にもみえると思っていた。手を黙々と動かしていると、読んでいた文章のいくつもの光景が思い浮かぶ。クートラスは、困窮しながらも、身の回りにあるボール紙などの素材で、小さな厚みのある陶器のようにもトランプにもみえる、ふしぎなカルトをつくりつづけた。
ユーモアと哀しみが同居した細長いカルトは、ぱっとみるといつの時代に作成されたものなのかわからず、1930年生まれの画家なのに、彼がつくったものは、パリのクリュニー美術館にある中世の道具のひとつにもみえる。
カルトをみていると、一人の人が生み出す芸術のなかに、無数の、かつて生きていた人の痕跡を同時にみる。直接手にしたひとにしかわからない「骨と骨があたってこつんと響くような、固められた灰の手応えがある」という、音。わたしは著者のことばでしか手触りをしらないのに、カルトを持った記憶があるような気がしてくる。
著者は、はじめは透明な探偵のように墓石を探して訪ねる。案内所でたずねても、クートラスの国籍もしられておらず、職員が「サンドイッチを半分残したまま重い腰をあげ」て、少し面倒くさそうに探しはじめる。墓石からして辿るのが難しく、彼自身の人生には虚実のはざまの空白が多い。そのとき謎の多い人物を知るための補助線として、著者はたくさんの書物の引用をする。その文章の全てが地文と滑らかにつづく。引用文はとうぜんクートラスについて言及されているわけではないのに、それでも、その引用しかありえないというくらいに、ぴたっと彼のすがたと呼応して並置される。本書「IX ジョーカーの謎」では、著者が、クートラスの今後の制作につながる公募の賞がじっさいにあるのかを調べるために古書目録などをみながら「ル・ジョリー・ジョケール」というカード愛好家雑誌を探していて「現物に出会うまで気長に待つしかなかった。そして、なんの成果も得られないまま五年近くの時が流れた」と、著者の時間もさらりと五年も過ぎていたりして、おそろしい。
何度も思い出してしまうのはクートラスの第二次世界大戦中のドイツでの生活の話で、家の働き手の男が収容所に移送され、母と子で生きねばならず兵士が家に入ってきて「少年は見なくてもいいものを早くから見てしまったことになる」。それが関係しているのかクートラスのカルトで描かれる滑稽なまでに突き出された女の臀部のカルト、ギロチンの生産地だったというティエールの刃物工場の地獄谷の景色、著者自身も愛好し、少年クートラスが夢中で握って木彫りをつくっていたときの安価な刃物のオピネルのナイフ、クートラスは青年時代、砥汁のような色の曇天も多いフランス各地で石工職人として教会修復の仕事にも携わっている。
おぼつかない私の研ぎ方でも、同じ動きを繰り返すことで、刃先がだんだんと鋭く光ってくる。幼少期があたたかなものではなかったからこそ彼はつくることに熱中する。
「一見明るい光を放っているカルトの束にはじめて触れたとき私が感じたのは、中世の塔のような奥深い「闇」から伝わってくる心の微動だった」
クートラスはそのような心の塔に閉じこもって描いた作品群を《僕の夜》と呼んだ。クートラスにとって長らくカルトは「沈んだら沈みっぱなしにならないよう、かならず戻ってくるための護符」だったが、路上に落ちていたサラダ菜を踏んづけて転倒したことをきっかけのひとつに、ぎりぎり保っていた精神の均衡が崩れて、闇に沈んでいってしまう。
「彼の仕事は作品世界を享受する側の心身の状態や内的な成長の深さによって相貌を変える」と著者が書いたように、この本は、じぶんの心の持ちようでいくらでも様相がかわってゆく本だと思う。
「仕事というのは、出会いの瞬間までじっと待ちつづけ、見えない準備を重ねること」というクートラスと著者の澄み切った文章の隙間から漏れてくる火の点ったことばが忘れ難い。著者自身が芸術と孤独に向き合い「共闘」している。本書は、孤独になにかをつくるひとの部屋に置いてあってほしい。この本はよるべない創作の護符になる。
(あさぶき・まりこ 作家)
波 2026年10月号より
単行本刊行時掲載
著者プロフィール
堀江敏幸
ホリエ・トシユキ
1964年、岐阜県生まれ。『郊外へ』で作家デビュー『おぱらばん』で三島由紀夫賞、『熊の敷石』で芥川賞、「スタンス・ドット」で川端康成文学賞、『雪沼とその周辺』で谷崎潤一郎賞と木山捷平文学賞、『河岸忘日抄』及び『正弦曲線』で読売文学賞などの文学賞を、2026年には『二月のつぎに七月が』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。美術評論やエッセイにも定評があり、『定形外郵便』、『仰向けの言葉』、『回送電車』など著書多数。主な訳書にマルグリット・ユルスナール『なにが? 永遠が』ほかがある。

































