ひとりよがりのものさし
6,380円(税込)
発売日:2003/11/22
- 書籍
白洲正子が最後に惚れた、知る人ぞ知る骨董界のカリスマの「眼」を初紹介。
あなたは自分のモノサシを持っていますか? 使い古した雑巾やイヌイットのお守り、板きれ等、誰も気にとめなかった物に美を見出し、当代一の目利きをも唸らせた「選択眼」を豪華オールカラーでお見せします。著者自ら選んだ生地に特染めした布貼り、函入。「芸術新潮」読者アンケートで第一位を獲得した人気連載の単行本化。
書誌情報
読み仮名 | ヒトリヨガリノモノサシ |
---|---|
雑誌から生まれた本 | 芸術新潮から生まれた本 |
発行形態 | 書籍 |
判型 | A4判変型 |
頁数 | 128ページ |
ISBN | 978-4-10-464401-8 |
C-CODE | 0072 |
ジャンル | エッセー・随筆、アート・建築・デザイン、収集・コレクション |
定価 | 6,380円 |
書評
波 2003年12月号より 利休の「見立て」に通じる「眼」 坂田和實『ひとりよがりのものさし』
たとえば酷寒のパリで見つけたという螺旋階段の手すり。唐草のような透かし模様の細工が何とも言えず美しい。うなぎ取り用の金物とブドウ棚用の針金。ただ同然のものだけど「かたちがきれい」と値段を付けて店で売る。平安時代の経筒とブリキの茶缶。かたや数百万かたや数百円、でも「どっちも好きだなー」と並べてみせる。アフリカの扉あり、李朝の平瓦あり、中世ヨーロッパの聖者像あり、ペルーの大布あり……本書には、坂田和實さんの「選択眼(ものさし)」による“美しいもの”がたくさん出てきます。
私が坂田さんのことを知ったのは、十年ほど前でしょうか。雑誌に載っていた「古道具坂田」の店内の写真を見て、他のどこにもないたたずまいに惹きつけられたのが最初です。その後も白洲正子さんや花人の川瀬敏郎さんと縁のある骨董商ということで、たびたびお名前を耳にしました。本書のもとになった「芸術新潮」の連載もよく読んでいましたし。
坂田さんが提示するのは、理屈や知識、つまり頭で選んでいたのでは決して出てこない、あくまでも自分の「眼」を信じ、自分の感性に正直に、そしていつも心を柔らかくしていないとひっかかってこないものばかり。螺旋階段の手すりなんて、私が好きな東大寺法華堂・不空羂索観音の光背の透かしに似ています。でももし自分がパリで同じ螺旋階段を見ても、気が付かないでしょうね。
茶の湯の「見立て」とは本来こういうものではなかったか、とつくづく思います。千利休は、中国から伝わった青磁や胡銅が珍重された時代に、漁師が使っていた魚籠や自然に生えている竹を切って作った筒を器に見立て、花を入れていました。茶室という空間があって、床に掛ける軸、その下に置く花入、手元で使う水指、釜、茶碗、茶杓等々をどう取り合わせていくか。モノとモノとの相性、それぞれが出会ったときにどういう空気を醸し出すのか。結果としてどういう空間になるか。利休は約束事にとらわれず、自分の「眼」で道具を選び、見立て、そして取り合わせて、絶妙な美の世界を創り出しました。けれども当時、利休の茶会といえば豊臣秀吉がいるような公の場です。一歩間違えば何を考えてるんだということになる。命懸けです。現に最後は切腹させられたわけですが。
いまでは外国土産のサラダボウル等に塗蓋を付けて水指に用いたりすることを「見立て」と言っていますが、そうした行為はもはや一種の紋切り型になってしまっています。坂田さんは店をやっておられることもあるけれど、自分の眼できちっと評価をつけ、周りもそれを認める。説得力があるゆえに価値が生まれるのです。決して「ひとりよがり」ではありません。だから三十年間「古道具坂田」が続いているのでしょうし、また物の美しさとは何かを真剣に追い求めるからこそ、商売を離れ、ご自身が扱ったものを展示するための空間「美術館as it is」をお作りになったのではないでしょうか。私から見ると、まさしくその場所は彼にとっての茶室です。
お茶の世界では幾重にも桐箱に入り由緒を書き付けた「名物」と言われる道具が今なお尊ばれています。もとは箱などなかったものでも、茶人が美を見出し取り上げ大事にしていく過程で、愛情表現として箱書を付けたのでしょう。一度そういうのを取っ払って、道具そのものとまっすぐ向かい合ってみたい。いいものなのに粗末な箱に入っている場合もあるかもしれない。また大きな疵のある器をお茶の世界では嫌う場合があるけれど、坂田さんのように疵のあるなしにこだわらずに見ることで、まだまだ新しいものを見いだせていけるのではないか――。
本書のなかで坂田さんは、中世ロマネスク時代の作品が好きだとおっしゃっている。金持ちのパトロン(他人)のためではなく、神のためにつくったものです。でも神のためにというのは、もっというと自分自身のため。自分が妥協せず納得のいくまでつくるということでしょう。自分には嘘がつけない。坂田さんも自分のためにものを選んでいるんだと思います。ものを通して自分を見つめていらっしゃるのかもしれません。だからこそ、その「眼」にかなったものは、たとえボロボロであってもどこか緊張感のある、凜とした姿をしているのです。(談)
私が坂田さんのことを知ったのは、十年ほど前でしょうか。雑誌に載っていた「古道具坂田」の店内の写真を見て、他のどこにもないたたずまいに惹きつけられたのが最初です。その後も白洲正子さんや花人の川瀬敏郎さんと縁のある骨董商ということで、たびたびお名前を耳にしました。本書のもとになった「芸術新潮」の連載もよく読んでいましたし。
坂田さんが提示するのは、理屈や知識、つまり頭で選んでいたのでは決して出てこない、あくまでも自分の「眼」を信じ、自分の感性に正直に、そしていつも心を柔らかくしていないとひっかかってこないものばかり。螺旋階段の手すりなんて、私が好きな東大寺法華堂・不空羂索観音の光背の透かしに似ています。でももし自分がパリで同じ螺旋階段を見ても、気が付かないでしょうね。
茶の湯の「見立て」とは本来こういうものではなかったか、とつくづく思います。千利休は、中国から伝わった青磁や胡銅が珍重された時代に、漁師が使っていた魚籠や自然に生えている竹を切って作った筒を器に見立て、花を入れていました。茶室という空間があって、床に掛ける軸、その下に置く花入、手元で使う水指、釜、茶碗、茶杓等々をどう取り合わせていくか。モノとモノとの相性、それぞれが出会ったときにどういう空気を醸し出すのか。結果としてどういう空間になるか。利休は約束事にとらわれず、自分の「眼」で道具を選び、見立て、そして取り合わせて、絶妙な美の世界を創り出しました。けれども当時、利休の茶会といえば豊臣秀吉がいるような公の場です。一歩間違えば何を考えてるんだということになる。命懸けです。現に最後は切腹させられたわけですが。
いまでは外国土産のサラダボウル等に塗蓋を付けて水指に用いたりすることを「見立て」と言っていますが、そうした行為はもはや一種の紋切り型になってしまっています。坂田さんは店をやっておられることもあるけれど、自分の眼できちっと評価をつけ、周りもそれを認める。説得力があるゆえに価値が生まれるのです。決して「ひとりよがり」ではありません。だから三十年間「古道具坂田」が続いているのでしょうし、また物の美しさとは何かを真剣に追い求めるからこそ、商売を離れ、ご自身が扱ったものを展示するための空間「美術館as it is」をお作りになったのではないでしょうか。私から見ると、まさしくその場所は彼にとっての茶室です。
お茶の世界では幾重にも桐箱に入り由緒を書き付けた「名物」と言われる道具が今なお尊ばれています。もとは箱などなかったものでも、茶人が美を見出し取り上げ大事にしていく過程で、愛情表現として箱書を付けたのでしょう。一度そういうのを取っ払って、道具そのものとまっすぐ向かい合ってみたい。いいものなのに粗末な箱に入っている場合もあるかもしれない。また大きな疵のある器をお茶の世界では嫌う場合があるけれど、坂田さんのように疵のあるなしにこだわらずに見ることで、まだまだ新しいものを見いだせていけるのではないか――。
本書のなかで坂田さんは、中世ロマネスク時代の作品が好きだとおっしゃっている。金持ちのパトロン(他人)のためではなく、神のためにつくったものです。でも神のためにというのは、もっというと自分自身のため。自分が妥協せず納得のいくまでつくるということでしょう。自分には嘘がつけない。坂田さんも自分のためにものを選んでいるんだと思います。ものを通して自分を見つめていらっしゃるのかもしれません。だからこそ、その「眼」にかなったものは、たとえボロボロであってもどこか緊張感のある、凜とした姿をしているのです。(談)
(せん・そうおく 武者小路千家家元後嗣)
著者プロフィール
坂田和實
サカタ・カズミ
1945年、福岡県生れ。上智大学卒業後、商社勤務を経て、1973年、東京・目白に古道具屋を開く。以来年に数回、海外へ仕入の旅に出かけ、ヨーロッパ、アフリカ、朝鮮、日本、南米など、さまざまな国の品物を扱う。1994年、千葉県長生郡長南町に美術館as it is(設計=中村好文)を開館。主著に『ひとりよがりのものさし』(2003年、新潮社)、〈とんぼの本シリーズ〉に、『骨董の眼利きがえらぶ ふだんづかいの器』(共著、2002年、新潮社)がある。現在、「古道具坂田」主人。
この本へのご意見・ご感想をお待ちしております。
感想を送る