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ブリーディング・エッジ

トマス・ピンチョン/著 、佐藤良明/訳 、栩木玲子/訳

4,510円(税込)

発売日:2021/05/26

書誌情報

読み仮名 ブリーディングエッジ
シリーズ名 全集・著作集
全集双書名 トマス・ピンチョン全小説
装幀 EMPIRE 2010 by Matthew Porter(C)Matthew Porter/Photograph、CXA/Photograph、Junpei Niki/Design
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 702ページ
ISBN 978-4-10-537214-9
C-CODE 0097
ジャンル 文学・評論
定価 4,510円

今度のピンチョンは9・11+家族小説!? 76歳にして新境地開拓の超話題作。

ITバブルは弾けたが新世紀の余韻さめやらぬニューヨークで、子育てに奮闘する元不正検査士の女性。知人の仕事を手伝い覗いたネットの深部で見つけたのは、不穏なテロの予兆だった。NYの、そして世界の運命は肝っ玉母さんの手に――オタク的こだわりと陰謀論にあふれる、謎に満ちたアメリカ文学の巨人が放つビッグバン。

目次
ブリーディング・エッジ
訳者解説

書評

複雑な物語、8K的描写、長い!……けど面白い!

矢部太郎

世界的巨匠にして謎の作家トマス・ピチョンが、9・11同時多発テロが起こった2001年のニューヨークを描いた超話題作について、ピチョン・ファンのお二人にご寄稿いただきました。

『ブリーディング・エッジ』はピンチョンが76歳の時に発表された作品です。
 76歳といえば縁側で日向ぼっこするおじいさん、庭に来る小鳥を愛でたり、かんたんスマホで撮った寒椿の写真を孫に見せて微妙な反応をされたり……と、いわゆる「静」のイメージを想像してしまうものですが、『ブリーディング・エッジ』は前記のようなイメージの年齢の方が書いた物とは思えないようなパワフルさに溢れています。
 9・11アメリカ同時多発テロを巡る陰謀の物語を中心として、アメリカ南米支配の闇、ドットコム・バブルの崩壊、アラブとアメリカ企業の怪しい繋がりなど、あまりにも多くの社会、歴史的諸要素がそこに絡み、謎が謎を呼び続けて複雑化し続ける物語。
 その物語を彩る登場人物も、過多で個性もドギツい。ロシアンラップに傾倒するコンビのIT産業テロリスト、ナードコア・バンドのボーカルを務める、ジェニファー・アニストンに憧れるハッカー少女、敏感な鼻で臭気を分析し事件を解決する能力者軍団、インチキ臭いオリエンタル系精神セラピスト、超甘党のおっかないロシアンマフィアの老親分……などなど一見すると同じ物語に納まらないと思える顔ぶればかり。
 こうした本筋とは別にアニメ、ロック、映画などカルチャーへの言及まで……頭がクラクラしてきます。もう勘弁してくださいと言うほど振り回されて、改めてその年齢からくるイメージと相反する「動」的なピンチョンのパワフルさに圧倒され、半ば呆れながら(笑)心底作品を楽しみました。
 特に作品内で個人的にピンチョンらしさが際立ってるなあという感じで印象に残ったのが、マキシーンが天才ハッカーであるエリックの捜索のためストリップ・クラブに踊り子として潜入するシーンです。
 マキシーンの心理の微妙な移り変わりの表現の巧みさ、途中でさりげなく挟まれる、ウエットティッシュでポールを除菌しつつ踊るみたいなギャグ、背後に流れる音楽のセンスの良さ(作品の時代設定からの懐メロのチョイスとして実に絶妙)……。そうした要素が独特(毒特?)の色彩感覚で描かれるこのシーンにはピンチョンの魅力が集約されていると思うんです。まるで映画の上質な長回しのワンシーンを観るような満足感と緊張感を味わいました。
 またこのシーンに初登場するエリックの容姿の描写も秀逸です。
 彼の飲んでいる20オンスの特大カップ(蛍光ストロー付き)に注がれた赤色のアルコール度数の高すぎる得体の知れないドリンク、約7行を費やして表現される超圏外ファッション(?)に身を包んだ姿の描写から、一瞬でヤッピー的洗練とは無縁のアウトローハッカーである彼の属性が示されます。
 ここだけに限らず、ピンチョンは服装を含めた容姿や持ち物から登場人物を一瞬にしてキャラ立ちさせるのが本当に上手いなあと思います。
 ギャグや情報量の多さに隠れがちではありますが、解像度の高い全ての箇所にピントが合った映像を脳内に思い浮かばせるような、8K的とも言える細かな描写もピンチョンの魅力のひとつだと思います。でもそのため文章が長くなって読むのに疲れるんだと思いますが……いや! 素晴らしい作家なんです!
 だからこそ、ギャグの無いシーンが時々あったりすると、その剥き身になった見事な描写に胸を抉られるような戦慄を覚えさせられるのです。
 例えば、9・11直後のニューヨークの街のリアルな姿をルポルタージュのように表現しているシーン。不穏な噂の伝播、人種間の緊張、愛国警察たちの扇動、有事によって浮き彫りにされるアメリカ社会の分断がたった3ページに過不足無く圧縮されています。
 先の二つのシーンのようにピンチョン作品の特徴として、普段はギャグに溢れながらも時々真面目な一面がみられるという点がよく指摘されますが、そうした真面目さ、明るさという単純な二面性でピンチョン作品を語るのには違和感もあります。
『ブリーディング・エッジ』の中には、9・11後のニューヨークの場面のようなリアルなルポもある一方、同事件にまつわる根も葉もない噂話、オカルトじみた眉唾な逸話や陰謀論なども同時に描かれます。
 ピンチョンの凄いところはそういった真偽性によって情報を分け隔てしないと言うか差別をしていない点だと僕は思っています。
 そうした総てを平等に作品内に詰め込んで世界の新たな輪郭を描き出す作家なんじゃないかと思うんです。
 とりもなおさずそれは登場人物の多彩さにも反映されていて、善も悪もファシストもリベラリストも総て詰め込んで作品を作る。作品内で人物や事象に対する好悪の評価は見え隠れしますが、実は嫌いなものに対しても描き方はなおざりでなく、誰をも平等にギャグにするし真面目にも描く姿勢を貫いていると思います。カルチャーにしても分け隔てなく取り入れるのも同じ理由からではないでしょうか。
 9・11当時のアメリカをピンチョンの知る総てを詰め込んで描いたこの作品……だから長くて……いや、本当に素晴らしい作品です!

(やべ・たろう 芸人・漫画家)
波 2021年6月号より
単行本刊行時掲載

世界はゲームだぜ

池澤夏樹

世界的巨匠にして謎の作家トマス・ピチョンが、9・11同時多発テロが起こった2001年のニューヨークを描いた超話題作について、ピチョン・ファンのお二人にご寄稿いただきました。

 ピンチョンなんて知らないよ、という人のために書こう。
 この作家にはオタク的なファンが多くてぼくもその一人だが、今はその身分を棄てよう。
 さ、みなさん、中に入って! ずっと奥へ奥へ!
 スタートは探偵小説だ。探偵がいて、そこへ依頼人が来て、何か謎を提示する。シャーロック・ホームズ・シリーズの「赤毛連盟」はジェイベズ・ウィルソンという赤毛の紳士が訪ねてくるところから始まる。ロス・マクドナルドの『ウィチャリー家の女』では……いや、これ以上の列挙は不要だろう。
 この話の探偵はマキシーン、元公認不正検査士。奸計で資格を剥奪され、それで逆に信用が増して顧客が増えた。
 依頼人はレッジ・デスパードで、提示される謎はハッシュスリンガーズというコンピュータ・セキュリティの会社とその経営者たるゲイブリエル・アイスという男。時代は2001年の春からほぼ一年間。つまり9・11を含む。場所はNY。
 盛られた話題は、サイバースペース、インターネットとセキュリティ、ゲーム、プログラミング、IT企業と金融とその裏社会と何かの密輸、とどこまでも広がり、そのぜんたいをファッションやフードやポップ・カルチャーがびっしりと覆う。この展開に連れて登場人物の数も数十名に及ぶ。
 登場人物の名。ピンチョンは命名に凝る。特に姓の方。初期の長篇『V.』の二人の主人公はプロフェイン(非信徒)とステンシル(型紙)だった。今回もヒロインのマキシーン・ターノウという名、Tarnowは「タール」と「今」から成っているように読める(実はポーランドの町の名とか)。マキシーンの方は、これはけっこう珍しい名だからついポップスがらみでジャズ・シンガーのMaxine Sullivanを思い出す。依頼人のデスパードDespardはdesperate(必死)ではないか。調査対象のアイスはもちろん氷。しかしウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』の「ICE 侵入対抗電子機器」がちらつく。隠れた寓意がいつも気になるのがピンチョンなのだ(と、オタクを隠しきれないボク)。
 コメディーであり、文章によるコミックである、それもけっこう日本風の。だからナラティブの主体はもっぱら会話で、そこにマキシーンの内部の声と作者の地の声が加わる。フキダシと背景説明と時おりの大齣。風景と光景とアップ。
 画風は綿密だが、それでも『AKIRA』ほどではない。
 そして、会話のほとんどは実に軽い――
「いや、初めから倒産するのはミエミエだったから。お金ないくせにトラフィックをじゃんじゃん買おうとしてさ。ドットコム系にはよくある話。アッと思ったら、負債抱えて会社は消滅。ヤッピーがまた一かたまり、トイレにボコボコ流れてく」
 このはじけた文体を訳者たちが巧みにたった今の軽いノリの日本語に移している。これもギブスンを訳した黒丸尚か。
 コミックだから長い。七百ページでよく止まったものだ。人物描写がよく言えば二次元的、悪く言えば薄っぺらなのもコミックの特徴だが、しかし奥が深い。若い登場人物の一人が言う――
「今の時代、サーフェス・ウェブを見りゃ、くだらないおしゃべりと、物売りと、スパムと、宣伝と、怠惰な指のパカポコばっかでしょ。それをみんなひっくるめて“経済”っていうんだそうだけど。でもさ、おれたちが探っている深みのどこかに、ここまではコード化できたけれどその先はコード化できないという水平線がきっとあるんじゃないかな。底なしの深淵アビスが」
 主軸はマキシーンとアイスの闘いと見えるけれど、それは話を駆動する仕掛けでしかない。ピンチョンはIT技術に絡め取られた社会相のぜんぶを書こうとしている。長い手を広げ、ごっそり集めてこの話の中にがらがらと放り込む。細部が際立って全体像がぼやける。やっぱりコミックだ。
 未来が透かし見えるところがおかしい。ピンチョンがこれを書いたのは2013年だが、既に悪しき資本家としてドナルド・トランプの名が挙がっている。
 つまり我々はこういう時代に生きている。

(いけざわ・なつき 作家)
波 2021年6月号より
単行本刊行時掲載

著者プロフィール

1963年『V.』でデビュー、26歳でフォークナー賞に輝く。第2作『競売ナンバー49の叫び』(1966)は、カルト的な人気を博すとともに、ポストモダン小説の代表作としての評価を確立、長大な第3作『重力の虹』(1973)は、メルヴィルの『白鯨』やジョイスの『ユリシーズ』に比肩する、英語圏文学の高峰として語られる。1990年、17年に及ぶ沈黙を破って『ヴァインランド』を発表してからも、奇抜な設定と濃密な構成によって文明に挑戦し人間を問い直すような大作・快作を次々と生み出してきた。『メイスン&ディクスン』(1997)、『逆光』(2006)、『LAヴァイス』(2009)、そして『ブリーディング・エッジ』(2013)と、刊行のたび世界的注目を浴びている。

佐藤良明

サトウ・ヨシアキ

1950年生まれ。フリーランス研究者。東京大学名誉教授。専門はアメリカ文化・ポピュラー音楽・英語教育。代表的著書に『ラバーソウルの弾みかた』。訳書にグレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』、ボブ・ディラン『The Lyrics』(全2巻)など。〈トマス・ピンチョン全小説〉では7作品の翻訳に関わっている。

栩木玲子

トチギ・レイコ

1960年生まれ。法政大学教授。専門はアメリカ文学・文化研究。著書に『現代作家ガイド ポール・オースター』『国境を越えるヒューマニズム』(ともに共著)など。訳書にアリス・マンロー『愛の深まり』、トム・マッカーシー『もう一度』、ジョイス・キャロル・オーツ『ジャック・オブ・スペード』、トマス・ピンチョン『LAヴァイス』(共訳)、アンナ・バーンズ『ミルクマン』など。

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