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イラクサ

アリス・マンロー/著 、小竹由美子/訳

2,640円(税込)

発売日:2006/03/30

  • 書籍

「短篇の女王」と賞されるカナダの名匠マンローによる、極上の短篇集!

旅仕事の父に伴われてやってきた少年と、ある町の少女との特別な絆。三十年後に再会した二人が背負う人生の苦さと思い出の甘やかさ(「イラクサ」)。長篇小説のようなずっしりした読後感の残る九つの短篇。チェーホフ、ウェルティらと並び賞される作家の最高傑作。コモンウェルス賞受賞、NYタイムズ「今年の10冊」選出作。

  • 映画化
    アウェイ・フロム・ハー君を想う(2008年5月公開)

書誌情報

読み仮名 イラクサ
シリーズ名 新潮クレスト・ブックス
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 448ページ
ISBN 978-4-10-590053-3
C-CODE 0397
ジャンル 文芸作品、評論・文学研究、文学賞受賞作家
定価 2,640円

書評

波 2006年4月号より あらゆる瞬間が特別だということ アリス・マンロー『イラクサ』 (新潮クレスト・ブックス)

蜂飼耳

 たとえば、だれかを好きになるとき。たとえば、だれかから心が離れるとき。喜びや哀しみに、掴まれるとき。言葉よりも先に感情や感覚が湧き出して、すっぽりと身体を包みこむ。言葉は、いつもほんの少し、遅れるのだ。ほとんど同時に見えるときにもかならず、少し遅れている。
なにかが起きたことを、はっきりとは自覚しないまま、あっというまに、その変化になじんでしまうときもある。変化の波紋は存在の端から端まで素早くひろがり、元にはもどれない。一度なじんでしまうと、変化が生じた地点、そのポイントは、あっさりと視界から脱落していく。忘れること、生きていく上ではそれもまた大事だからだ。感情や感覚の地層はそんなふうにして、刻々と積み重なっていく。生まれたときから、心臓の鼓動が止む瞬間までの、一筆書きの時間の内側で。
アリス・マンローは、「変化のポイント」に魅せられた書き手だといっていい。もちろん、ものを書こうとする人間は、変化・変容に敏感なものだけれど、アリス・マンローの小説では、とくに鮮やかに感じられる。「変化そのもの」というよりは「変化のポイント」が、クローズアップされるのだ。道の真ん中に置かれた石のように、あからさまに、くっきり描き出される。読んでいて、そういう箇所では文章に求められるままに緊張し、それからさっと解き放たれる。
たとえば、表題作「イラクサ」。
ある日、靴屋の入り口の横に立っていた少女の「わたし」は、聞く。マイク、という名が女性の声で呼ばれるのを。それは父親の仕事の都合で去っていった少年と同じ名前だった。いっしょに遊び、愉快な時間を分かち合い、心を寄せてもいた少年の名前。
「わたし」は、店から駆け出す。マイクに会えるのだという思いで胸をいっぱいにして。だが、マイク、と呼んだ声の主らしい女の人が連れていたのは五歳くらいの知らない男の子だった。「わたし」の心に、不在の感覚とさびしさを植えつけて消えた、あのマイクではなかった。人ちがい。「わたしは立ち止まって、信じられない思いで男の子を見つめた。言語道断で非道な魔法が目の前で行なわれたかのようだった」。作者は、場面をきゅっとしぼって、ぱっと放す。ただの勘ちがいであって、魔法でもなんでもないのだが、それでも、確かにその瞬間、何事かが起こったのだ。「わたし」の内側で、はっきりと。ぱっと放されたようになり、読み進める心は一瞬、宙に浮く。
そしてまた、たとえば「記憶に残っていること」。
古くからの知人の老女に会うために、病院へ向かったメリエルは、その日たまたま知り合い、車で病院まで送ってくれた医者のなにげない言葉に、すっと捕らえられる。面会が終わるまで待っている、と医者はいう。「きみさえかまわなければ」と。二人は並んで病院の玄関へ向かう。中庭のような空間にいた人たちに、メリエルは「嬉しそうに挨拶して」しまう。「なにかがメリエルに起きていた」。なにかが、起きる。見えなくても、はっきりと起きて、メリエルという人物の内部に溢れ、その場面をぎりぎりまで満たす。読者はまたぎゅっと握られ、ぱっと放される。
「恋占い」「浮橋」「家に伝わる家具」「クマが山を越えてきた」など、『イラクサ』に収められた九編の短編小説は、いずれも、文章の呼吸とうねりに独特のしなやかさがあり、たっぷりと味わえる。一九三一年、カナダに生まれたアリス・マンローは、日本ではこれまであまり紹介されてこなかった作家のひとりだ。本書と出会い、もっと早く読みたかったな、と思った。
これは、収録されているすべての作品についていえることだけれど、温かさと冷たさ、やさしさと厳しさのバランスが絶妙だ。冷たさ、厳しさを扱えなければ、心を描くことはできないのだとわかる。そして、そのバランスのよさが、安定感を生んで場面を閉ざしてしまうということはなく、むしろ、絶え間のない変化を導きつづけるところが、魅力的。生きているあいだに、きっと、一度は味わうような微妙で貴い瞬間が、『イラクサ』には忍ばせられている。たくさんではなく、ほんの少しずつ。読んだ後、なにかとても大事な体験をしたという気もちにつつまれる。あらゆる瞬間が、特別なものだと、知らせてくれる短編集だ。

(はちかい・みみ 詩人)

短評

▼Hachikai Mimi 蜂飼耳

カナダの街や田舎町を舞台として描かれるのは、たとえば、実家を棄てたい娘の葛藤、夫の遺書に愕然とする妻、ただ一度の情事、痴呆症の妻に嫉妬する夫。アリス・マンローの短篇は、心理の揺らぎに光をあて、生きることの内と外に在るたいせつなものを汲み上げる。答えを急いではならない、なぜなら、いま目の前で起きている出来事のほんとうの意味は、その場で明かされることはないのだからと、物語の底で静かに語る。鋭くもあたたかい目線に貫かれた文章は、心の深部をさらりと撫でて、伝える。毎日のあらゆる瞬間が特別だ、と。


▼Michiko Kakutani ミチコ・カクタニ[ニューヨークタイムズ]

マンローは、チェーホフのように、私たちの知る人々と同様、欠点や感情をもったリアルな登場人物をつくりだす。マンローの物語には、家族アルバムのような親しみが、現実の生活の有機的な手触りがある。


▼Mona Simpson モナ・シンプソン[アトランティック・マンスリー]

マンローは、百年後にも読まれている可能性がもっとも高い現役作家である。


▼Yale Review of Books イェール・レビュー・オブ・ブックス

マンローの文章は人生のもっとも本質的な様相を映しだす――その不整合や皮肉、たえまない変化とないまぜの果てしない反復を。


▼New York Times ニューヨークタイムズ

オコーナーやウェルティに匹敵する機知にとんだ文章、その強靭さがすばらしい。

著者プロフィール

1931年、カナダ・オンタリオ州の田舎町に生まれる。書店経営を経て、1968年、初の短篇集 Dance of the Happy Shades(『ピアノ・レッスン』)がカナダでもっとも権威ある「総督文学賞」を受賞。以後、三度の総督文学賞、W・H・スミス賞、ペン・マラマッド賞、全米批評家協会賞ほか多くの賞を受賞。おもな作品に『イラクサ』『林檎の木の下で』『小説のように』『ディア・ライフ』『善き女の愛』『ジュリエット』など。チェーホフの正統な後継者、「短篇小説の女王」と賞され、2005年にはタイム誌の「世界でもっとも影響力のある100人」に選出。2009年、国際ブッカー賞受賞。2013年、カナダ初のノーベル文学賞受賞。

小竹由美子

コタケ・ユミコ

1954年、東京生まれ。早稲田大学法学部卒。訳書にマギー・オファーレル『ハムネット』、アリス・マンロー『イラクサ』『林檎の木の下で』『小説のように』『ディア・ライフ』『善き女の愛』『ジュリエット』『ピアノ・レッスン』、ジョン・アーヴィング『神秘大通り』、ゼイディー・スミス『ホワイト・ティース』、カリ・ファハルド=アンスタイン『サブリナとコリーナ』、ジュリー・オオツカ『屋根裏の仏さま』(共訳)、ディーマ・アルザヤット『マナートの娘たち』ほか多数。

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