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2,640円(税込)

発売日:2012/10/31

  • 書籍

きっと大丈夫。運命は私たちを脅かすことはあっても本当の不幸からは守ってくれるはずだから。

ワロージャは戦地から、サーシャはモスクワから、初めて結ばれた夏の日の思い出、戦場の過酷な日常、愛しているのに分かりあえない家族について綴った。ワロージャの戦死の知らせを受け取った後も、時代も場所も超えて手紙は続く。二人はそれぞれ別の時代を生きている、再び出会う日まで。ロシア・ブッカー賞作家の最新長編。

書誌情報

読み仮名 テガミ
シリーズ名 新潮クレスト・ブックス
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 432ページ
ISBN 978-4-10-590097-7
C-CODE 0397
ジャンル 文芸作品、評論・文学研究
定価 2,640円

書評

時空を超えて呼び交わす声

沼野充義

 現代ロシアの作家、ミハイル・シーシキンの長編『手紙』は、一見したところ、愛し合う若い男女のほほえましいラブレターのやりとりから成り立った、単純な作品のように思える。男(ワロージャ)は「大好きなサーシャ」の名前を手紙の冒頭に書いただけで、「とても温かくて優しい気持ち」になってしまう。女性(サーシャ)のほうは、「今すぐ、あなたをぎゅって抱きしめたい。なんでもいいから、とってもくだらなくて、とっても大切な話をしたい」と、どこか遠いところに戦争に行ってしまったらしい彼に呼びかける。
 いまは離ればなれだが、この二人には郊外の別荘での大切な思い出がある。彼女はその初めての体験について、こんな風に書く。「その瞬間、突然わかったの。とても簡単なことなんだ。絶対に必要なんだ。ずっと待ち望んでたんだ――って(中略)。ずっと前から心の準備は出来てたし、待ってたけど、ちょっと怖かった」。それに続く描写は(ぜひ本を手に取って読んでいただきたい)、激しいセックスとバイオレンスを易々とグロテスクな意匠に変えてしまう現代のポストモダン小説(たとえばロシアのものだったら、ソローキンの『青い脂』(望月哲男・松下隆志訳、河出書房新社)を読むといい。これは別の意味で天才的な作品ではあるが)には絶対に見られない、清純で、このうえなく繊細な、心の微かな震えと喜びが響いてくるような文章である。
 しかし、読み進めていくうちに、この小説の時空間にはなんだか変なことが起こっていると気づかざるを得ない。戦争に行ってしまった恋人を待ち続ける女性は二〇世紀後半のロシア(まだソ連時代だろうか)に生きているらしいのだが、男のほうは、なんと一九〇〇年、義和団事件の鎮圧のために中国に行っているというのである(そして、出典は示されていないが、実在する従軍記に依拠した生々しい戦争の記述が続く)。しかも、ワロージャは戦死し、死亡通知をサーシャが受け取ったあとも、不思議なことに手紙のやりとりは続く。サーシャのほうは、恋愛と妊娠、家族の不幸といった出来事を経て確実に年をとり、実生活の時間が流れていくのに対して、ワロージャの時間は遥か彼方の戦場で凝固したままだ。
 そうだとしたら、この二人の手紙のやりとりは、どうなっているのだろうか。手紙は相手に届いているのか、疑問になってくる。それともこのすべては架空のやりとりなのだろうか? 宛先に届かない手紙というのは確かに現代的な主題ではあるが、その点に関して登場人物たちの信念は強い。ワロージャはこう言うからだ――届かないのは、書かれなかった手紙だけだ、と。つまり、書かれた手紙は必ず届く、ということだろうか。実際、戦死したはずのワロージャからは、こんな力強い言葉が届く。「サーシャ。どんな存在の証明がいるっていうんだ。僕は幸せなんだ、君がいて、君が僕を好きで、今これを読んでいてくれるだけで」。
 そもそも恋人たちは、この「時の流れが崩壊」した世界で――これはロシア語訳『ハムレット』からの引用だが、フィリップ・K・ディック風に言えば、「時は乱れて」の世界である――再会することができるのだろうか。二人が時間と空間に隔てられ、会えないままでいるのは、まだ「準備ができていない」からだろうか。疑問が深まっていくと同時に、暖かく、力強く、そして心に直接働きかけるような言葉が響いてくる。小説の末尾、ワロージャが正体不明の「彼」なる人物に誘われ、どこかに出発していこうというとき、彼はこういう――人間は「光と温もりの塊」でありつづけるだろう、と。ポストモダン・ロシアの荒野から出現した、啓示のような言葉ではないか。
 この作品以前からシーシキンは、チェーホフ、ブーニン、ナボコフから、ジョイスやフランスのヌーヴォー・ロマンなど、ロシアとヨーロッパ文学の様々な伝統を踏まえ、豊かな語彙と音楽的な文体、繊細な心理描写と、実験的な語りの手法を駆使する現代ロシア散文の最前線の作家として高く評価され、権威ある文学賞を次々に受賞してきた。いまや現代ロシアで最も実力のある作家の一人と言ってもいいだろう。これまで日本では「バックベルトの付いたコート」という自伝的短篇が一つ訳されただけだったが(沼野恭子訳、『新潮』二〇一一年五月)、今回の作品でようやく本格的な紹介が始まった。手紙はきっと恋人たちのもとに届くだろう。そしてこの『手紙』も、日本の読者たちの心に。まるでサーシャになりきったような奈倉有里さんのしなやかな訳文のおかげで。

(ぬまの・みつよし スラブ文学)
波 2012年11月号より

短評

▼Numano Mitsuyoshi 沼野充義

遠くに戦争に行った若者と、残された少女の間で手紙が交わされる。微笑ましい書簡体恋愛小説のようだが、この世界には奇妙な仕掛けがある。恋人たちはまったく違う時代に生きているのだ。歪んだ時空間(クロノトープ)を超えて二人の声が互いを求め、響きあう。しかし「時の関節がはずれた」この世界で二人は出会えるのだろうか? 幸せを渇望して、死を超えていく愛。時の息遣いそのもののように、たゆたい流れる言葉。ポストモダン・ロシアの荒野から現われたこの小説は優しく秘密を囁きかける――人間は光と温もりの塊なんだよ、と。


▼Time Out Москва 『タイムアウト・モスクワ』誌

ロシアの文学賞を総なめにし、一作品ごとにより深みのある作品を世に送りだしてきたミハイル・シーシキンの最新作。本作は、遠く離れた恋人同士が交わす手紙の話だ。(中略)人の死が幾度も登場するが、この本自体は、死についてというよりは生の営みについて書かれた本だといったほうがいいだろう。人は誰かを愛することで生まれ変わる。死は避けられないが、決して悲劇ではない。人が生きていくなかで、愛するがゆえに苦しみ、苦しめてしまった人々への、贈り物なのだ――。


▼Марина Брусникина マリーナ・ブルスニーキナ(舞台版『手紙』監督)

死ねこと、生きること、愛、記憶……そういう単純で難しい、「重たい」問題に、ミハイル・シーシキンはとても真剣な答えをくれた。今生きている人々の心に確かにあるモヤモヤしたものに、驚くほどぴったり合う形を与えてくれた。読んだ人の心が、優しく、楽になるような形を。

著者プロフィール

1961年モスクワ生れ。『皆を一夜が待っている』(1993年)で文芸誌「旗」最優秀デビュー作賞を受賞。『イズマイル陥落』(1999年)で2000年ロシアブッカー賞、『ヴィーナスの毛(ホウライシダ)』(2005年)では、国民的ベストセラー賞とボリシャーヤ・クニーガ賞をダブル受賞。結果的に、現在ロシアにある代表的な文学賞を全て受賞したことになり、これは現代ロシアにおいて他に類を見ない。『手紙』も2011年、ボリシャーヤ・クニーガ賞を受賞。

奈倉有里

ナグラ・ユリ

1982年東京生まれ。早稲田大学講師。専門はロシア詩、現代ロシア文学。訳書にミハイル・シーシキン『手紙』、リュドミラ・ウリツカヤ『陽気なお葬式』(新潮社)、ボリス・アクーニン『トルコ捨駒スパイ事件』(岩波書店)、アンドレイ・シニャフスキー『ソヴィエト文明の基礎』(みすず書房、共訳)など。

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