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サブリナとコリーナ

カリ・ファハルド=アンスタイン/著 、小竹由美子/訳

2,310円(税込)

発売日:2020/08/27

  • 書籍

母も、祖母も、その母も、私たちはこの胸の痛みと生きてきた。

黒髪でとびきり美人のサブリナ。あなたはどこで道を間違えたの? コロラド州デンバーのラテン系コミュニティ。女たちは若くして妊娠し、男たちは身勝手に家を飛び出す。従来の移民文学「らしさ」にとらわれず、やるせない日常を逞しく生きる彼女たちの、声なき叫びを掬い上げた鮮烈なデビュー短篇集。全米図書賞最終候補作。

目次
シュガー・ベイビーズ
サブリナとコリーナ
姉妹
治療法
ジュリアン・プラザ
ガラパゴ
チーズマン・パーク
トミ
西へなどとても
彼女の名前をぜんぶ
幽霊病
訳者あとがき

書誌情報

読み仮名 サブリナトコリーナ
シリーズ名 新潮クレスト・ブックス
装幀 Hiromi Chikai/イラストレーション、新潮社装幀室/デザイン
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 288ページ
ISBN 978-4-10-590167-7
C-CODE 0397
ジャンル 文芸作品、評論・文学研究
定価 2,310円

書評

ラティンクスの声に惹かれ、啓かれて

江南亜美子

 情報が高速かつ大量に通信され、衛星が地球上のどのエリアもクリアに映像にとらえるこの時代でありながら、この著者がいなければ、彼ら/彼女らの声を聴くことはできなかったのではないかと感じさせる物語が、ここにはある。知りえなかった彼らの暮らしぶりや去来するよろこびと悲しみが、短編のひとつひとつに息づいている。読むうち、声を聴くうちに、ラティーノ/ラティーナと呼ばれるラテン系の人々に対して、自分たちがいかにてきとうなステレオタイプのイメージをあてはめてきたか、蒙が啓かれるようなフレッシュな驚きを、読者はきっと覚えるはずだ。宗教や言語、文化的な背景、そして肌の色や髪の毛もさまざまに異なるラティンクス(ラティーノ、ラティーナのジェンダーレスな呼称)の、ささやかな、しかしたしかな生の感触を、カリ・ファハルド=アンスタインという女性作家は、このデビュー短編集に十全に書き記した。
 十一の短編は、アメリカの南西部にあるコロラド州の州都デンバーと、ニューメキシコ州へまたがる「サグアリータ」という架空の町を舞台に展開される。土地柄、ラティンクスやアメリカ先住民の人口の割合も高いが、彼らのコミュニティは急速なジェントリフィケーション(地域の再開発による高級化、地代高騰化)のあおりを受け、立ち退きの危機に見舞われもする。女性たちは、総じて出産年齢が低く、若くして子持ちとなる。子の父親の姿はすでになく、彼女たちも両親の離婚によって父の顔を知らないことも多い。あるいは母親が家庭環境から逃げ出し、見捨てられたという悲しみにさいなまれることも。貧困や負債は、将来の展望に深刻な影を落とし、一日をどうしのぐか思案しつつ生活している。楽天的、しかしときどき涙は溢れる。
 そんな中で重要なのが、祖母の存在である。たとえば「治療法」では、アタマジラミがわき、断髪して泣く孫娘たちに、エストレヤおばあちゃんは民間療法を施すのだ。〈ニームと呼ばれるものから作った液で、根っこのような強い悪臭があった〉。祖母にはかつて「不潔の烙印」を押された苦い過去があり、以来清潔さを身上としている。シラミ退治以外にも頭痛をやわらげ口臭を消しもする一家に伝承された数々の治療法は近代医学と相いれないが、その価値観も孫たちは身体で引き受けていくのだ。あるいは別の作品でパーラは、家に押し入った強盗を撃ち殺す(「ガラパゴ」)。人生の大半を過ごした思い出深い家と自分の命を守るためだったが、孫娘の勧めに従って、その家を売却し高齢者施設に入ることも決断する。
 血縁のあるなしにかかわらず、女性同士の連帯は、この地で生き延びるよすがとなる。表題作で、コリーナはいとこで親友のサブリナを思い出している。「生きているお人形さんみたい」と人々にほめそやされるほどの美貌ながら、男と酒におぼれて身を持ち崩してしまったサブリナ。輝かしいはずの二十代にして自死で果てたサブリナのことを、世間は「悲劇の列の新顔」と哀れむが、堅実な生き方を選んだコリーナは、「あの子は価値のある人間になりたかったんだよ」とひとり抗弁し、擁護するのだ。
 1950年代に時代設定された「姉妹」では、白人アングロの男性に付きまとわれた姉妹のうちの姉ドティが、それを拒絶し凄絶な暴力を受けながらも、コミュニティで行方不明となっていた若いフィリピン系女性の発見のニュースに、関心を示す。非白人であるがため社会から見えない存在のように扱われる者同士の、シスターフッドの表れだ。ドティは失明を隠さず、妹の結婚式へ。それは理不尽な要求に身体をはって抵抗した、名誉の傷でもある。
 白人男性との不均衡と差別の歴史に、この地の女たちは何世代もかけて抗い、その都度、闘いの方法を会得しながら、今日この日を生き延びてきた。大文字の歴史には記述されないけれど、たしかにそこにいる市井の人々に、新しい価値観は刻まれていく。人生は甘くはないが、そう悪いものでもないと確信するように、ファハルド=アンスタインの視線は、不器用な暮らしを営む人々を優しく包みこんでいく。ラティンクスに、私たちのエンパシーが自然と発動させられる物語のディテールと筆はこびに、この作家の美質が表れている。

(えなみ・あみこ 書評家)
波 2020年9月号より
単行本刊行時掲載

インタビュー/対談/エッセイ

故郷に生きる女たちを書きたかった

カリ・ファハルド=アンスタイン

女たちは若くして妊娠し、男たちは身勝手に姿をくらます――。コロラド州デンバー、ヒスパニック系コミュニティのやるせない日常を描いた『サブリナとコリーナ』。デビュー作がいきなり全米図書賞の最終候補となった、話題の新人作家のインタビュー。

聞き手:クリスティーナ・アレオラ
翻訳:小竹由美子

 フーリア・アルバレスが自分のデビュー短篇集『サブリナとコリーナ』に推薦文を寄せてくれたと知ったとき、カリ・ファハルド=アンスタインは膝が崩れそうになった。数日後、サンドラ・シスネロスもまた本書を称賛しているとわかって、泣いた。
「読書はずっと好きで、高校でフーリア・アルバレスとサンドラ・シスネロスを読んではじめて、わたしのような人間でも作家になれるかもしれないと本気で思ったんです」とファハルド=アンスタインは語る。
「文学は大好きでしたが、文学の世界がわたしのような南西部出身の混血のチカーナを歓迎してくれるようには思えませんでした」 『サブリナとコリーナ』に収められた十一の短篇で、ファハルド=アンスタインは自分の故郷のチカーナたちへ――コロラドを貫く山脈と同じく打ち砕かれることはなく、そこを囲む不毛の砂漠のように回復力のある女たちへ――のラブレターを綴る。

祖先の頭越しに国境が移動

 ファハルド=アンスタインの育ったデンバーは、人口の三割以上がヒスパニック、ラティンクス、アメリカ先住民とされているが、近年、こうした多様な人種からなるコミュニティの多くの人々が、デンバーの急速な発展の犠牲となっている。デンバーは今や全米でも最低水準の失業率を誇っているが、また一方で地域再開発による高級化(ジェントリフィケーション)がもたらしたヒスパニック系コミュニティの強制退去の規模においても群を抜いている。これは本書の大動脈を流れている痛みだ。
 最後の一篇「幽霊病」で作者は、大学建設のために住んでいた家から立ち退かされた人々の子や孫に授与される奨学金で大学に通う若い女性を描く。これはコロラド大学デンバー校に実在する奨学金がモデルとなっている。発展の名のもとに強いられた犠牲をまざまざと思い出させるこの奨学金は、善意から出たものではあるが、世代にまたがる傷を修復するにはじゅうぶんとは言えない試みだ。
 故郷の街の急速な高級化は、南西部にルーツを辿るのがいちばん手っ取り早い女たち、デンバーとその周辺を故郷と呼んできた一族の女たちの物語を書きたいと作者に思わせた要因のひとつなのだ。
 多くのチカーナがそうであるように、ファハルド=アンスタインは移民第一世代ではないし、移民第二世代ですらない。彼女の一族は何世紀ものあいだアメリカで暮らしてきた――「わたしの祖先の頭越しに国境が移動したんです」と彼女は語る――だから、本書には移民の経験はあえて書かれていない。
「大学での副専攻科目はチカーノ研究だったので、ラティンクスの経験を描いたさまざまな文学に触れました」とデンバー・メトロポリタン州立大学で文学士号を、ワイオミング大学で芸術学修士号を取得したファハルド=アンスタインは語る。「でも、わたしが繰り返し繰り返し読んでいたのは、最近の移民の経験に関する本でした」と作者は言う。「わたしにはそういった作品が必要でしたが、一方で、そういう作品のなかにわたし自身の姿はありませんし、家族の姿もありません。わたしはとにかく、自分たちが登場するような本があればいいのにと思ったんです」

自分にとって自然に書きたい

 自分にとっての本当のところを書こうとして、ファハルド=アンスタインは、多くのラティンクス読者ならすぐさまわかってくれるであろうハードルにぶつかった。自分の文化をじゅうぶんに体現しているとは言えないのではないかという気持ち、そして、自分の実体験からすると嘘くさく感じられる書き方をしろとプレッシャーをかけられている感覚である。
「書き始めたさいしょのころ――つまり、ワークショップとか教室とかで――よく先生から言われたんです。『ここをもっとメキシコっぽくしたら?』『どうしてこの人たちはスペイン語でしゃべらないの?』『あのさ、もっと食べ物のことを書いたら?』わたしの物語にとってはどうでもいいようなことばかり。おかげで自分の作品がちゃんとしたチカーノらしく思えないような方向へいってしまいました。なんだか白人が書いたみたいになってしまって。ところが、事実は複雑で、わたしの登場人物たちはプエブロ族の出身なんです、だから先住民でもあるわけで」
 ファハルド=アンスタインのスペイン語は流暢ではないし、本書はすべて英語で書かれている。なかの一篇――1950年代に時代設定された「姉妹」――で、登場人物たちがいつスペイン語でしゃべり(家にいるときは、たいてい)、いつ英語でしゃべっているか(人前では、常に)、作者は文章で明示している。
「わたしたちの先祖にとってスペイン語で話すのは恥ずかしいことだったのだと思います。そして今わたしは、スペイン語をしゃべれないことが恥ずかしい」とファハルド=アンスタインは言う。「わたしはスペイン語を身につけたい。でもまた同時に、自分がモノリンガルであることを恥ずかしく思わないでいられるようになりたいとも思っています」
 ピュー研究所の2015年調査報告書によると、ラティンクス移民の親の九七パーセントが子供にスペイン語で話しかけるが、第二世代の親になると比率は急激に低下して七一パーセントとなり、第三世代かその後の世代の親では五〇パーセント以下となる。アメリカで暮らすラティンクスの人々の八八パーセントが、次世代がスペイン語を話すことは重要だと思っている一方で、七一パーセントの人々が、スペイン語を話すということはラティンクスと見なすにあたって必要な条件ではないとも考えている。
 このデータが意味することは明らかだ。ラティンクスの家族は、アメリカ暮らしが長くなればなるほど新世代が家庭でスペイン語会話能力を身につける可能性は低くなる。そのため、自分のルーツをラテンアメリカの国に求めるのが簡単ではなかったり、スペイン語や先住民の言葉をしゃべれなかったりすると、自分は本当にラティンクスなのか、というアイデンティティの危機を招く恐れがあるのだ。
「過去のラティンクス文学の大半において、作中にはスペイン語が必要だといった考えが根本にありました、文化のパフォーマンス――わたしはずっとこの言葉を使っているんですが――が必要とされていて、わたしはそれを断固拒否したいんです」と彼女は語る。「以前はもっとスペイン語を入れていました。でもそうすると、スペイン語が流暢な友だちに間違っていないか訊かなくちゃならなくて。わたしはただ、自分にとって自然に感じられるように書きたかったんです」

伝統的治療法が物語に効いた

 過剰だが十分ではないというややこしさが、この短篇集には滲んでいる。言葉のことだけではなく、文化的アイデンティティの他の指標についても。本書の短篇のなかでファハルド=アンスタインが最初に書いたものである「治療法」で、作者はチカーノの家族で何世代にもわたって伝えられてきた伝統的な「レメディオス(治療法)」を読者に紹介する。この物語の登場人物たちは、効目があるとわかっていながら、いつもそれらを使うわけではない――そして結局のところ、彼らの疾患を治療できるのはそういう伝統的治療法だけなのだ。
「わたしはアタマジラミや胃痙攣や口臭を、適した薬草を使って治すことができる」と語り手は言う。「たいていは、市販の薬に頼っている。清潔だし、効目が早いし、子どもには蓋が開けられない容器に入っているし。でもときおり、本当にひどい頭痛が起きてアスピリンを飲んでも治まらなかったりすると、わたしはジャガイモのスライスをこめかみに貼りつけて、悪いものが体から吸い出されることを期待する」
「『治療法』で初めて、『ラティンクス文化』の要素を取り上げながらもべつのタイプの物語へと抜け出すことができました」とファハルド=アンスタインは語る。「『治療法』で、自分の声を発見し、いろんな影響を振り払ったんです。影響をすっかり振り払ってしまうことはできませんけどね。自分のアイデンティティを、自分が実際に生きてきた経験として提示するのではなくそれらしく演じろ、というプレッシャーを振り払えたんです」

写真

 この物語は本書後半に登場する「彼女の名前をぜんぶ」と呼応している。アリシアという名前の女性が地元のボタニカで堕胎用の調合薬を求めるのだ(この場合の生薬は「下剤」の役目を果たすんです、とファハルド=アンスタインは言う)。この出来事の何年もまえに、アリシアは診療所の医師に処方された堕胎薬を飲んで苦しい思いをしていた。彼女はアブエラ(祖母)から「ああいういろんなろくでもないもんのまえは、薬草しかなかったんだよ、ミハ。なんであたしに頼まなかったの?」と言われる。どちらの物語でも、生薬による治療法はこの女たちにとって二番目の選択肢であって一番目ではない。この選択は、彼女たち自身でさえ自分たちの文化がよくわかっていないという、彼女たちの置かれた不確かな立場を物語っている。
 これらの短篇はすべてカリ・ファハルド=アンスタインの独特のアイデンティティ意識から生まれたもので、もっと暗い部分について言えば、女性に対する、とりわけ非白人女性に対する暴力についての作者の経験から生まれている。「チーズマン・パーク」では、語り手は性的暴行を通報するが、たちまち担当の刑事から性的な興味を示される。じつにむかつく瞬間だが、これは作者の実体験に基づいている。
「心のなかでこういう瞬間を収集してきたような気がするんです。『こんなこと言われたのは忘れないからね。いつかこれを作品のなかで使ってやる。そうしたらあんたは世間に顔向けできなくなるんだからね』みたいな感じで」とファハルド=アンスタインは語る。「人間がこんなに醜くなれるってことが、みんなにわかるでしょ」
 人間の醜さがもっともはっきり表れているのが「姉妹」で、あまりに暴力的なので、さいしょに読んでもらった人たちからは本書から外すよう勧められたとファハルド=アンスタインは言う。作者の一族に連なる人物の実話に基づいているこの短篇は、表題になっている姉妹の片方が白人の求婚者から口説かれて拒絶したあとで、酷い暴力に見舞われて終わる。
 姉妹の物語の背景にあるのが、彼女たちの暮らすコミュニティで若いフィリピン系の女性が行方不明になったというニュースだ。ファハルド=アンスタインは、この女性の話をどういう結末にしようか悩んだ。生きて見つかるのだろうか? 家に帰ってくる? 忘れられる? コロラド州における行方不明者の事件を調査すると、憂慮すべき傾向に気がついた。
「スペイン系の苗字を持つ女性たちについてわたしが見つけた未解決事件の数ときたら、嫌になるぐらいです」と彼女は言う。「ただ遺体が見つかるだけで、事件が解決されることはありません。捜査されないんです」

「見えない存在」という苦しみ

 ファハルド=アンスタインは、実生活でもこの傾向に気づいていた。自分のコミュニティの女性が行方不明になっても、ほとんどニュースにもならない。白人女性が行方不明になると、あちこちで報道される。全米公共放送網のニュースキャスターだった故グウェン・アイフィルの造語「白人女性が行方不明シンドローム」というフレーズはこの現象を端的に表している。
「自分は見えない存在なんじゃないか、わたしの知っている女性たちは見えない存在なんじゃないか、という苛立ちがありました」とファハルド=アンスタインは語る。
 この激しく大胆な短篇集のなかで、女たちは――そして作者自身も――姿が見え、声が聞こえ、認知される存在だ。この短篇集は苦しみの産物であり、またサバイバルを称えるものでもある。「口にするのさえつらいことです。自分の体が反応してしまうのがわかるんです」と作者は言う。「だからわたしは作家になったのだと思います。自分で経験したさまざまな苦しみを抱え、とても多くの苦しみを見てきました。誰も声をあげることはしませんでした。わたしの人生には沈黙と恥がどっさりあったんです。このままでは自分が溢れてしまうと思いました。なんとかして出さなければ、ほかの形で出てきてしまう。わたしはそれをフィクションでやったんです」
 登場人物たちには暗い影があるものの、この短篇集には回復する力が流れている。「姉妹」のなかにさえ、ファハルド=アンスタインは強さを見る。「彼女は自分が結婚したくない男とは結婚しません。そういうことから抜け出すんです。彼女は生き延びました。死にはしませんでした。そしてそれはわたしにとって、素晴らしいサバイバルの物語なんです」
『サブリナとコリーナ』の表紙カバー(英語版)の女性のように、この登場人物たちの心臓はむきだしになってはいるが無傷だ。ファハルド=アンスタインの心臓もまたページの上で、祖先の血とともに鼓動している。

“This Chicana Author Is Writing Love Letters To The Women Of Her Homeland”
First published on Bustle.com, May 18, 2019 https://www.bustle.com/

(カリ・ファハルド=アンスタイン)
波 2020年9月号より
単行本刊行時掲載

短評

▼Nishi Kanako 西加奈子

失踪を繰り返す母親に傷つきながら生きる少女、美しい従姉妹の死化粧を施す女、癌で死にゆく母を見つめる姉妹、長く住んだ家に別れを告げなければならなくなった老女……。彼女らは年齢も生き方も違うが、悲しいほどに似通った呪いの中にある。血の、土地の、歴史の、何より女であることの呪いだ。そのような呪いから大胆に、鮮やかに逃れる話はたくさん読んできたが、この物語は違う。彼女らは、呪いの渦中で静かに呼吸し、静かに抗う。この作品たちは、その静けさの分、強い。だから本を閉じた後も、彼女たちはいつまでもそこに存在している。私たちのそばにいる。


▼Sandra Cisneros サンドラ・シスネロス

登場人物たちの言動も振る舞いもすべて真実味があり、笑わせられたり胸の張り裂ける思いをさせられたりした。こういう西部の女たちに、アメリカがアメリカになるまえからここにいた女たちに、これまでアメリカ文学が出会ってこなかったとは、なんと悲しむべきことだろう。彼女たちの生に栄誉をまとわせてくれてありがとう、カリ。わたしは彼女たちとあなたを歓迎します。


▼Ann Beattie アン・ビーティー

女たちの人生の確かな真実を、すべて見通しているといわんばかりに巧みに描き出しており、自分のことが書かれているようでどきどきしながら読み進んだ。作者が繊細に、象徴的に綴っているのは、死すべき運命にある人間そのものなのだ。


▼フーリア・アルバレス

カリ・ファハルド=アンスタインは、喩えるなら大平原地帯のアリス・マンロー、先住ラティーナのトニ・モリスン。

著者メッセージ動画

著者プロフィール

1986年、コロラド州デンバー生まれ。デンバー・メトロポリタン州立大学卒業後、ワイオミング大学で芸術学修士号を取得。各地で創作を教えながら「The American Scholar」「Boston Review」などの雑誌に短篇小説を寄稿。2019年に刊行されたデビュー短篇集である『サブリナとコリーナ』はたちまち注目を集め、リーディング・ザ・ウエスト・ブックアワード、デンバー市長芸術文化賞を受賞。ストーリー賞、PEN/ビンガム賞、全米図書賞の最終候補作にもなった。

小竹由美子

コタケ・ユミコ

1954年、東京生まれ。早稲田大学法学部卒。訳書にマギー・オファーレル『ハムネット』、アリス・マンロー『イラクサ』『林檎の木の下で』『小説のように』『ディア・ライフ』『善き女の愛』『ジュリエット』『ピアノ・レッスン』、ジョン・アーヴィング『神秘大通り』、ゼイディー・スミス『ホワイト・ティース』、カリ・ファハルド=アンスタイン『サブリナとコリーナ』、ジュリー・オオツカ『屋根裏の仏さま』(共訳)、ディーマ・アルザヤット『マナートの娘たち』ほか多数。

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