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はいつくばって

ミランダ・ジュライ/著 、岸本佐知子/訳

3,245円(税込)

発売日:2026/08/26

  • 書籍
  • 電子書籍あり

すべてを失っても、まだそこに光がある。黄金色の光が。

アーチストとして成功し、ハンサムな夫と可愛い子とともに暮らす45歳のわたし。新たな自分に出会うための単独ドライブ旅行をきっかけに、人生が思わぬ方向に転がりだす。はたして自由を目指す旅路の先に見えたものとは──。中年期の魂のジェットコースターを描き切り、全米図書賞ファイナリストにも輝いた著者最高傑作。

書誌情報

読み仮名 ハイツクバッテ
シリーズ名 新潮クレスト・ブックス
装幀 Helen Yentus/Cover design、Detail of Sunset in the Rockies by Albert Bierstadt, 1866( oil on canvas)/Cover art、(C)Christie’s Images/Photo、Bridgeman Images/Photo、新潮社装幀室/デザイン
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判変型
頁数 480ページ
ISBN 978-4-10-590211-7
C-CODE 0397
ジャンル 文学・評論
定価 3,245円
電子書籍 価格 3,245円
電子書籍 配信開始日 2026/08/26

書評

圧巻の更年期小説

山内マリコ

 まごうことなき更年期小説である。たとえるならそう、女人禁制の土俵の上にいきなり現れたパンツ一丁の白人女性が、切羽詰まった顔で“更年期”とがっぷり四つに組んでいるうちに、右にとっとっと、左にとっとっと、いつの間にか奇妙なダンスになっていて、そのユニークな美しさに枡席の中年女たちが一斉に立ち上がって拍手喝采を送っているような。そんな、見たことのない景色を見せてくれる圧巻の更年期小説だ。
 語り手の「わたし」は45歳、ミランダ・ジュライ本人を思わせる少しばかり名の知れたアーティスト。世界的ポップスターからコラボを持ちかけられるような成功者(ミーティングは向こうの都合で何度も延期されているけど)で、レコードディレクターの夫と、7歳の子どもあり。俗に言う“すべてを手に入れた”女性だ。しかし家庭生活は完全に行き詰まっている。
 母になったことで夫との対等な関係は崩れ、いまやほとんど冷戦状態。果てしない片付けと料理の日々に摩耗してよく眠れない、灰色の人生を送る。そこで“中年の危機”を打開するため彼女は3週間の旅行を計画、車で一人アメリカを横断してニューヨークへ行こうと出発する。が、30分後にはもう高速をおりてしまう。そしてガソリンスタンドでフロントガラスを拭いてくれた若い男デイヴィーと知り合うと、近場のモーテルに連泊。しかも旅行の予算2万ドルで部屋をゴージャスに改装しだす。仕事を依頼したインテリアコーディネーターはデイヴィーの妻だ。……どゆこと?
 暴走状態に突入した「わたし」は読者を置き去りにしてデイヴィーとの中2的な恋に突き進んでいく。セクシャルではあるものの一線は越えない、いちばん燃える関係に耽溺する。そして3週間が経ち家に戻ったとき、彼女の中年の危機はさらに悪化していて──。
 文章はどれもハッとするほどきらきら光を帯びているのに、すべての音が調子っぱずれというか、調律が絶妙に狂って、ここでしか聴けない音がする。そのすばらしい筆致で、誰のなにをどうオカズにオナニーしたか、くり返し詳細に描写される。「わたし」はこの先、男に相手にされなくなることに怯えまくる性欲おばけだ。
 その激しい性欲の裏には、50代で飛び降り自殺した祖母と伯母の存在がある。おそらく二人とも、これ以上老いることに耐えられなくて死んだのだと「わたし」は思っている。その系譜に自分もいるのだという呪い。崖は目の前まで迫っていて、あと何年かであちら側へ転落するという恐怖。あちら側とは、男から性の対象にされない女たち側。ほかの誰より「わたし」自身が、性的魅力を失った女たちをみじめだと思っているのだ。
 人は、自分が差別していた存在になることが、いちばんこたえる。この場合は年齢差別。けれど年は取る。自分も当事者になる。逃げられない。地獄めぐりの果てに彼女は思いがけない人と交わり、肉体も精神も解放されていくのだが、そこへ至るまでの七転八倒ぶり、嵐のなかでひたすら船を漕ぎつづける体当たりぶりが読みどころだ。
 ひとつ気になったのは“プレゼント”(いま・ここ)という概念。「わたし」はプレゼントであることを良しとし、過去や未来に意識がいくと「いけない、“プレゼント”になるのを忘れていた」と自分を戒めるなど、さりげなくこのキーワードが頻出する。
 この「現在を味わえ」「いま・ここの充実」を重視する姿勢は、ネオリベラル・フェミニズム的なものといわれる。構造的な女性差別に起因する社会問題も、個人の感情のコントロールの問題にすり替えられ、なんでも自己責任で解決しなきゃいけないことにされてしまう。
「同時代の性差別をひらりとかわしてこられたわたしが、母親になってみるといやというほどそれに直面させられた。わたしと彼の中に内在していた目に見えない格差が、親になったことで突然あらわになった。」
 これだけの明瞭なジェンダー意識を持っていても、「わたし」はこの格差と真正面から闘うことはせず、自分自身の更年期との闘いに没入していく。もちろん更年期を真正面から描くこと自体がフェミニズムだし、革新的で、これまで誰も書けなかった女の本音がびっしり書かれた傑作なのだが。それでも、なにかから目を逸らしているように思えた。
「わたし」はどん底にいて、自分のことで手一杯。ねえ、そっちに全振りするのぉー? と声をかけても、「わたし」の耳には届かない。「わたし」はなんともいえない、形容できない独特な踊りを舞いながら、目の前を駆け抜けていった。

(やまうち・まりこ 小説家)

波 2026年9月号より
単行本刊行時掲載

インタビュー/対談/エッセイ

中年期と女性性をめぐる“移動しない”ロードノヴェル

岸本佐知子

 ミランダ・ジュライの最新作は長編、そしてテーマはずばり「中年」そして「更年期」だ。
 そう来たか! と驚いたものの、思えば彼女の本は出るたびに「そう来たか!」の連続だった。
 デビュー作『いちばんここに似合う人』は短編集で、短編小説に与えられる最高の賞フランク・オコナー国際短編賞を受賞した。だが次の『あなたを選んでくれるもの』は意外にもノンフィクション、それも写真つきのルポルタージュだった。そして三作めの『最初の悪い男』は自身初の長編小説。一作ごとにスタイルをがらっと変えてくるのは、それまでの評価に安住しない彼女の創作者としての誠実さであるし、何よりもそのときどきの彼女自身の人生のありようを表現するのに最適の表現方法を選んだ結果でもあるのだろう。
『はいつくばって』の語り手は四十五歳のそこそこ有名なアーティストだ。LAで音楽プロデューサーの夫と七歳の子供と共に暮らしている。ひょんなことから二万ドルの不労所得を手にした彼女は、自己の変革を目指してアメリカ大陸横断ドライブの旅に出発する。ところが自宅から三十分と離れていない何の変哲もない町でなぜか高速を降り、そこで見かけたレンタカー店勤務の若い男に心惹かれてそのままダサいモーテルに泊まってしまう。家族にはニューヨークに向かっていると噓をつきつつずるずると連泊し、しまいには旅行資金の二万ドルをすべて注ぎこんでモーテルの一室を五つ星ホテル顔負けのゴージャスな部屋に改造する。そしてその部屋で件の若い男・デイヴィーと不倫すれすれの危うい恋愛にのめりこむが、刻々と別れの時は近づき……。
 と、ここまででやっと話の三分の一だ。このあと語り手である「わたし」(最後まで名前が与えられない)はデイヴィーへの恋心でボロボロになり、仕事も家庭も生活も、手にしていたすべてを失いかけたところに、更年期という人生の荒波が追い打ちをかける。閉経と同時に断崖絶壁のようにガクンと減る性ホルモンのグラフを見て「わたし」は愕然とする。それって自分が女性としての価値を失うっていうことじゃないか。
 そこから彼女の長く曲がりくねった魂の遍歴の旅(オデッセイ)が始まる。はたして彼女は世界と和解し、自分自身を見つけなおすことができるのか。言うなればこれは移動をともなわないロードノヴェル(なにしろ家から三十分だ)、女性性と中年期にまつわるビジョン・クエスト的な物語なのだ(じっさい金の指輪があり、洞窟があり、塔も水晶も迷路もある)。
 彼女の作品を訳すのはこれで四作めになるが、今までとはっきり手触りがちがった。もっと生(なま)というか、ダイレクトに作者の肉声が響いてくるのだ。じっさい語り手「わたし」と作者には重なる部分が多く、かなりの部分が彼女自身の体験に基づいていると想像できる。あるインタビューでジュライは「“中年の危機”という言葉にもっとポジティブな意味を見いだしたかった、なぜなら危機はいつだって変化を連れてくるものだから」と語っている。そうして大勢の女性たちに話を聞き、その膨大な量のメモ書きと自身の体験をよりあわせてできあがったのが『はいつくばって』なのだという。
 本書は発売と同時に大きな反響を呼び、無数の読書会が開かれ、グループチャットで熱い議論が繰り広げられ、それは今も続いている。ことに熱く支持したのは女性読者たちで、「こういう本を誰かが書いてくれるのを待っていた!」という賛辞が数多く寄せられた。それはこの本がただ単に更年期の心身の変化を如実に描きだしたからだけではなく、中年期の女性が直面するさまざまな怒りや悩みやモヤモヤにきちんと名前を与えたからなのだろう。何より「母」「恋人」「妻」といった社会的役割をはぎ取られた後の女性がどう生きるべきか、という大きな問いに、この作品は正面から光を当てたのだ。
 最後にタイトルについて。原題はAll Fours、四つんばいの姿勢のことで、あれこれ考えたけれども、けっきょくそのとおりに訳した。作中、「わたし」の親友ジョーディはこんなことを言う。〈四つんばいの姿勢って無防備だって思われがちだけど、じつはいちばん安定した姿勢なの。……はいつくばってると、ちょっとやそっとじゃ倒せないの〉。

(きしもと・さちこ 翻訳家)

波 2026年9月号より
単行本刊行時掲載

短評

▼Nishi Kanako 西加奈子

45歳の成功したアーティストは、ドライブ旅行のため立ち寄った街で若く魅力的な男性に出会ったことをきっかけに、様々なことに向き合うことになる。どうしようもなく変化する体、セックスの不思議、結婚の悲しみ、あるいは女としての人生そのものに。ミランダ・ジュライという作家が描く「更年期」が一筋縄でいくはずがない。でも、一筋縄でいく更年期なんて、果たしてあるのだろうか。私たちの体は、ひとつひとつ違う。この小説は、私たちそれぞれの「揺らぎ」を描いてくれるだけではなく、「揺らいでいるなら、その揺れを利用して踊っちゃいな!」と励ましてくれる。はちゃめちゃな、だが尊い女のダンスは続くのだ。


▼George Saunders ジョージ・ソーンダーズ

現代文学を代表する作家が放つ、目もくらむほど大胆で、度肝を抜く傑作。


▼Emma Cline エマ・クライン

深遠で、性的に奔放で、どうしようもなく人間くさい。あらゆる殻を打ち破り、恐れを知らない精神が生み出した、まばゆいばかりの芸術作品だ。


▼Michael Cunningham マイケル・カニンガム

私はこの本をひとりで読むしかなかった。読んでいると何度も噴き出してしまうから。でも、それはただの笑いではなかった。胸が張り裂けそうな痛みや、心の澱が洗い流されていくような悲しみが、一緒になってあふれ出す笑いだ。もしアメリカに「国宝」を選ぶ制度があるなら、私は迷わずミランダ・ジュライを推すだろう。

著者プロフィール

1974年ヴァーモント州生まれ。カリフォルニア大学サンタクルーズ校を中退後、ポートランドでパフォーマンス・アーティストとしての活動を開始。2005年、脚本・監督・主演を務めた初の長篇映画『君とボクの虹色の世界』がカンヌ国際映画祭でカメラ・ドール(新人監督賞)を受賞、大きな注目を浴びる。2007年、初めての短篇集『いちばんここに似合う人』でフランク・オコナー国際短篇賞を受賞。2011年、2作目の長篇映画『ザ・フューチャー』および、その制作過程に出会った人々をめぐるフォト・ドキュメンタリー『あなたを選んでくれるもの』を発表。2015年には初の長篇小説となる『最初の悪い男』を刊行した。2024年に発表した長篇2作目となる『はいつくばって』が全米図書賞のファイナリストに選ばれた。

岸本佐知子

キシモト・サチコ

翻訳家。訳書にルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』、リディア・デイヴィス『ほとんど記憶のない女』、ミランダ・ジュライ『いちばんここに似合う人』、ジャネット・ウィンターソン『灯台守の話』、ジョージ・ソーンダーズ『短くて恐ろしいフィルの時代』など多数。編訳書に『変愛小説集』『居心地の悪い部屋』など、著書に『なんらかの事情』『わからない』など。2007年に『ねにもつタイプ』で講談社エッセイ賞、2026年には伊丹十三賞を受賞。

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