ミッドウェー海戦―第二部 運命の日―
2,365円(税込)
発売日:2012/05/25
- 書籍
- 電子書籍あり
「日米戦争の天王山」における敗因から、日本型組織の構造的欠陥を抉り出す!
「本日敵出撃ノ算ナシ」――隠蔽されてきたこの敵情報告に油断して、空母四隻を誇る南雲艦隊は、暗号を解読し待ち構えていた米機動部隊に大敗北を喫した。生き残った戦闘員への丹念な取材を元に、山本五十六の構想から参謀や部隊指揮官の思惑、パイロットや整備兵の奮闘まで、戦闘の全過程を克明に描く壮大な戦史ノンフィクション。
アメリカ太平洋艦隊
ミッドウェー島攻撃隊
海戦の経過
日米機動部隊行動図
書誌情報
読み仮名 | ミッドウェーカイセンダイニブウンメイノヒ |
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シリーズ名 | 新潮選書 |
発行形態 | 書籍、電子書籍 |
判型 | 四六判変型 |
頁数 | 448ページ |
ISBN | 978-4-10-603707-8 |
C-CODE | 0331 |
ジャンル | 日本史 |
定価 | 2,365円 |
電子書籍 価格 | 1,496円 |
電子書籍 配信開始日 | 2012/11/30 |
インタビュー/対談/エッセイ
波 2012年6月号より 【対談】 新刊『ミッドウェー海戦』をめぐって 「本日敵出撃ノ算ナシ」の衝撃
森 私は一九四一年生まれで、子供の頃、奈良郊外の小さな町に住んでいたのですが、その頃の記憶は大阪大空襲です。怪鳥のようなB29が飛んできて、西の空がぱっと赤くなる。強烈な印象でした。それから、大阪市内の中学に通うようになったのですが、近くの旧砲兵工廠の敷地が爆撃から十年以上経つのに瓦礫の山でした。なぜ、このような悲惨な出来事が起こったのかと衝撃を受け、戦争の実相を調べてみたいと思い至ったのです。
山内 ミッドウェー海戦といえば、太平洋戦争のターニングポイントになりました。連戦連勝だった日本海軍は、暗号を解読されて、万全の備えのアメリカ軍に完膚なきまでに打ちのめされます。森さんは四十年も前から生き残った戦闘員に聞き書きを重ね、それを元に全過程を丹念に再現されていますね。
森 戦史ノンフィクションの主流はまず艦橋の指揮官たち、士官の視点から書くのですが、私は末端の整備兵、機関兵まで視野を拡げてみたいと思いました。なぜ四隻の主力空母が一日で沈み、三千人もの将兵が亡くなったのか、指揮官のミスでこれら現場の人間は死んでいくわけですが、中心となった当時二十代の若者の思いを、戦史として書き残しておきたかったのです。
山内 「運命の五分間」のエピソードがありますね。あと五分早く日本がアメリカ空母を叩くために出撃していればと、この海戦が偶然に左右されたことを強調する。
森 戦後いち早く、一般雑誌十月号に、参謀長の草鹿龍之介さんの手記「運命の海戦」が掲載されました。それで見方が固まった。日本の四隻の正規空母の艦上に攻撃隊全機が準備されて、一番機が飛び立った瞬間にやられたという話が事実とされるきっかけですね。東宝映画『太平洋の鷲』にもそう描かれて、当時スクリーンを見て悔しい思いをしましたよ。
山内 しかし、この「運命の五分間」は、澤地久枝さんを始めとして、事実ではないと指摘する識者が多いですね。
森 調べてみると、どうも話が違う。一番機として飛び立ったとされる零戦パイロット、甲飛一期生の木村惟雄さんも「俺は艦橋の下にいて、上空直衛の順番を待っていたら、艦爆が突っ込んでくるので急速発艦した」と言う。艦攻隊の後藤仁一さんも、「俺は士官防暑服姿のままで、飛行服にも着替えていない。発艦まではあと三十分はかかった」と。つまり、ドーントレスの急降下爆撃時に飛び立ったのは、上空直衛用の零戦で、もし攻撃隊なら旗艦赤城艦橋の青木艦長が命令して初めて出撃するはずです。でも、昭和四十六年、草鹿さんに聞きにいくと現場の艦橋にいたのに、「運命の五分間」を真実のことのように語っていました。
山内 戦いに起こる偶然の重みについて語るのであれば意味のあることですが、自分の指揮の過ちを「運命の五分間」のようなエピソードで逃げ切るのは歴史家の立場からは看過することができません。
将官提督に甘い日本
森 司令官の南雲忠一さんを卑怯者とする根拠として引用されるのは、いつも草鹿さんの文章なのですが、よく考えると、彼は南雲機動部隊参謀長ですから、彼が横にいる南雲さんに進言し、決断を促せばよかった。しかし、自分はサイパンで戦死した南雲さんの陰に隠れて、責任を逃れる。
山内 ニミッツでもスプルーアンス、ハルゼーでも、個性は違いますが、アメリカ側の将官提督レベルになりますと、みな人間としての魅力があります。ところが草鹿も南雲もどうも凡庸な将官です。
森 ミッドウェー海戦で、草鹿さんは「泰然として腰を抜かした」と参加部隊の第二艦隊通信参謀の中島親孝さんに評されています。泰然としているだけで行動にうつさない。草鹿さんは砲術学校出身で、平時の官僚といってよいでしょう。問題の兵装の転換についても、草鹿さん、航空参謀源田実さん、淵田美津雄さんの残したものを基にして、書き手はああでもないこうでもないと悩んできたのです。
山内 井上成美が戦後何も語りたがらなかったのがわかります。源田、草鹿あたりが勝手なことを言っているという苦苦しさがあったのではないかと思います。
森 また、実際の作戦を指揮した源田さんについていえば、威勢のいい言葉にだまされがちですが、山口多聞の意見具申を全部握りつぶしたのは彼です。蒼龍、飛龍の第二航空戦隊は転換を済ませていますから、こっちだけでも出撃できるのに、源田さんは自分でまとめて動かしたかった。それで、赤城、加賀の準備が完了するまで待たせ、草鹿南雲コンビはそれを黙認したというのが真相でしょう。結果、蒼龍は準備万端のまま、むざむざと海に沈んでいく。
山内 南雲艦隊(一航戦)の参謀たちといえば、首席参謀の大石保も本当に影が薄いですね。
森 坂上機関参謀によると、なにか聞くと、そうかそうかと、しかし、知恵は出さなかった、と。そういう毒にも薬にもならない人物が出世することはいつの時代にもあるものです。
山内 私は「本日敵機動部隊出撃ノ算ナシ」という信号命令が出されたという事実を新しく知り、その緊張感の欠如に驚かされました。この情報を森さんに告白した吉岡乙参謀が「南雲さんは敢闘精神があった」と同情的だったということですが、私はどうも納得しかねる。
南雲の場合、やはり、ことの運び方は終始一貫して保守的かつ退嬰的、「おっくうがり屋」という評価が当たっていると思います。
一方、蒼龍艦長の柳本柳作さん、赤城艦長の青木泰二郎さんは本当に気の毒ですね。帝国海軍は将官、提督に甘く信賞必罰がないのに、佐官クラスに非常に大きな責任を負わせていく。赤城の艦長を左遷しておきながら、南雲草鹿コンビは、第三艦隊にそのまま横滑りする。こんな馬鹿なことは米国なら絶対に考えられないでしょう。たとえば、真珠湾の責任を負わされたキンメルは、大将から少将に降格されて、即、予備役編入です。
森 キンメルは「宴会提督」と呼ばれていて、ルーズベルト大統領にも議会にも受けがよかった。真珠湾攻撃の前夜、ハレクラニホテルのディナー・パーティーでは如才なく振舞いますが、お偉方の方ばかり見ている提督でした。しかし、戦時の指揮官としては駄目だと、あっさり首をすげ替えられます。
山内 利根の索敵についても、下士官に減点を科し、兵学校出身の偵察士官の過ちに対しては等閑視する。軍人という実力主義の世界に、悪い官僚主義が跋扈している。それを改めて確認しました。
日本海軍は桶狭間の今川衆
山内 アメリカの情報参謀レイトンの活躍も特筆すべきものがあります。そして、彼を活かしていくニミッツの度量の大きさ。対する日本は、連合艦隊に情報参謀という役職がなかった。第一航空艦隊にも通信参謀はいるが、情報参謀はいない。
森 ニミッツは自室にレイトンと副官しか入れなかった。それほど情報を大事にしていたのです。たとえば、日本でも戦国武将の場合、織田信長ほど情報を大事にした人はいないわけですね。桶狭間の戦いで、“功第一級”は今川勢が攻めてくる場所を通報した簗田政綱に与え、今川義元の首を取った毛利新助ではありません。我らが日本海軍は今川衆と同じで、まったく情報がなく、いきなりやられるわけです。
山内 最新兵器のレーダーについては、東北帝国大学の八木秀次教授が世界に先行して八木アンテナを開発していた。しかし、それを実用化していったのは、むしろアメリカでした。
森 軍令部軍備課長のポストについていた蒼龍艦長の柳本さんだけが熱心で、山本五十六も南雲も草鹿も関心がない。戦艦日向と伊勢にレーダーを積んでいくといったら、大反対にあうわけです。測距機もあるし見張員が三十キロ四方見えると威張っていたのですが、もし雲がかかっていたら終わりなのに、「敵艦見ユトノ警報ニ接シ」の日本海海戦当時のままなのです。当日も飛龍の見張員が朝から夕方まで七倍双眼鏡でずっと遠距離を見ているから、最後は目が疲れて見えなくなり、敵の急降下爆撃にやられてしまう。
山内 日本は戦訓から学ぶということがまるでありません。ところが、アメリカは珊瑚海海戦を教訓に空母などの消火態勢を固めて、日本の暗号を解読し、次にどこを攻めてくるかを的確に予想します。
森 珊瑚海海戦後、下卑た冗談ですが「妾の子でも勝てたんだから、本妻の子ならイチコロさ」とアメリカをなめてかかる。大破した翔鶴が入港しても、作戦で忙しいと司令部幹部たちも熱心に考察することをしない。翔鶴艦長と運用長が大和に戦訓を報告しにいきますが、参謀たちは聞き流して出撃する。今の役所や会社も同じ。日本人はなぜ同じ過ちを重ねるのでしょうか。
有事におけるリーダーシップ
山内 私は去年の暮に出した新書『リーダーシップ』(小社刊)で、吉田松陰や織田信長と並んで、山口多聞を取り上げたのです。今回、この大海戦の流れをたどって、あらためて、リーダーの条件について考えさせられました。重要な働きをした日米双方の将官、スプルーアンスと山口多聞は二人とも、日常においては情細やかなところがある。しかし、いざ戦場では、かたや航続距離の限界で、途中で艦載機が海に落ちるリスクが高くとも全機発艦、かたや単艦でアメリカに一矢報いるために立ち向かっていく。敵がそこにいる以上、「見敵必戦」、冷徹な判断をし、理を常に優先させた。これは優れたリーダーの大事な条件です。
一方、南雲と草鹿のコンビは試験秀才であって、兵学校から海軍大学校とハンモックナンバーもトップの方で出世していくわけです。平時の秀才であるこの二人の人間性と性格が、日本側の悲劇的な動きに最後までつきまといますね。
森 真珠湾の後、ニミッツが太平洋艦隊司令長官に選ばれますが、彼は現場に人気がある猛将ハルゼーを空母部隊の指揮官に据える。そして、次にハルゼーが病床に伏し、代わりは誰かと聞かれたら、ハルゼーはためらうことなくスプルーアンスを推薦する。人選びが的確です。
山内 軍人にとっての戦略観と大局観の問題ですね。角田覚治や大西瀧治郎のような積極型の将官はいたのですが、日本ではミッドウェー海戦以降もうまく生かされない。米側と比べて組織が劣っていたと言わざるをえません。この歪みと腐敗は現代日本人にとっても他人事ではないですね。
担当編集者のひとこと
ミッドウェー海戦―第二部 運命の日―
戦闘詳報から削除された敵情報告「本日敵出撃ノ算ナシ」
昭和十七(1942)年六月四日午前五時二〇分、ミッドウェー作戦に参加中の第一航空艦隊(南雲機動部隊)司令部から、各艦に発光信号で伝えられた敵情報告です。
戦いの後、記された戦闘詳報に書かれることのなかったこの信号命令に関する発言が飛び出したのは、昭和五十一(1976)年三月十九日、著者・森史朗氏が南雲機動部隊航空乙参謀の吉岡忠一元大佐を取材していたときのこと。
吉岡参謀は、ミッドウェー海戦の後、柱島の戦艦「伊勢」の一室にこもり、ハワイ作戦およびミッドウェー作戦の両戦闘詳報の執筆を命じられます。しかし、この敵情報告は記されることなく提出されました。
本書から吉岡氏の言葉を引用すると、
「そんなみっともないこと、書けますかいな! 当日朝、われわれ司令部は何も知らんと『敵出撃ノ算ナシ』なんて、そんな何も考えとらん話を戦闘詳報に書けるはずがない。何とか辻褄合わせをして、戦訓として一、暗号解読されていたこと、二、雷爆装転換作業がおくれたこと、三、空母一隻を上空直衛担当艦にするべきだったことなどを書いておきましたが、本当の敗戦の原因はあの信令です」
この敵情報告が発された五時間後、「加賀」「赤城」「蒼龍」の正規空母三隻は、米艦爆隊の急降下爆撃を受けて次々と被弾、炎上します。それは、優勢だった日本軍が劣勢に立つことになった、まさに「太平洋戦争の転換点」でした。『ミッドウェー海戦―第二部 運命の日―』は、生き残った戦闘員への丹念なインタビューを元に、この決定的な一日を緻密に再現した一冊です。
2016/04/27
著者プロフィール
森史朗
モリ・シロウ
1941年大阪市生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒。専攻、国際関係論。日本文藝家協会会員。作家。主要著書『敷島隊の五人(上・下)』『零戦の誕生』『暁の珊瑚海』(以上、光人社刊。文春文庫)。『攻防』(光人社刊)『勇者の海』(同)。評論集に『特攻とは何か』(文春新書)『松本清張への召集令状』(同)。『作家と戦争―城山三郎と吉村昭―』(新潮選書)。