
「維新革命」への道―「文明」を求めた十九世紀日本―
1,925円(税込)
発売日:2017/05/26
- 書籍
- 電子書籍あり
「明治維新=文明開化」史観を覆す!
明治維新で文明開化が始まったのではない。すでに江戸後期に日本近代はその萌芽を迎えていたのだ――。荻生徂徠、本居宣長、頼山陽、福澤諭吉ら、徳川時代から明治時代にいたる思想家たちを通観し、十九世紀の日本が自らの「文明」観を成熟させていく過程を描く。日本近代史を「和魂洋才」などの通説から解放する意欲作。
「和魂洋才」の罠
「民衆不在」の罠
異なるものと共有されたもの
「王政復古」の大令
「明治革命」のまぼろし
「神武創業之始」とはなにか
「其の命、維れ新たなり」
なぜ「維新」が選ばれたか
「封建制度」から「新日本」へ
ロング・リヴォルーションとしての明治維新
尚古主義の転倒
町人の学校、懐徳堂
「日本のヴォルテール」富永仲基
富の追求
反商業主義の黄昏――荻生徂徠と太宰春臺
語られないもの、語れないもの
旅する儒者、海保青陵
商人社会の思想
「物のあはれ」の寛容論
『三大考』という事件
「皇国」の特権化と「勢」
頼山陽と封建・郡県問題
歴史ブームと祖先顕彰
変転してゆく「大勢」
「王土王臣」と水戸学
西洋の「仁政」と「公論」
「郡県」と「開化」
「自由」と「進歩」のゆくえ
書誌情報
| 読み仮名 | イシンカクメイヘノミチブンメイヲモトメタジュウキュウセイキニホン |
|---|---|
| シリーズ名 | 新潮選書 |
| 装幀 | 駒井哲郎/シンボルマーク、新潮社装幀室/装幀 |
| 雑誌から生まれた本 | 考える人から生まれた本 |
| 発行形態 | 書籍、電子書籍 |
| 判型 | 四六判変型 |
| 頁数 | 288ページ |
| ISBN | 978-4-10-603803-7 |
| C-CODE | 0395 |
| ジャンル | 人文・思想・宗教 |
| 定価 | 1,925円 |
| 電子書籍 価格 | 1,430円 |
| 電子書籍 配信開始日 | 2017/11/10 |
書評
壮大なスケールの文明論
なんという著作であろうか。本書は、「文明」という言葉を軸として、時間と空間を越えたスケール大きな知的な冒険へとわれわれを誘ってくれる。読者は本書を読むことで、心地よい知的驚きを得ると同時に、目の前に広大な地平が開け、21世紀の世界を生きる上での「諸文明の衝突」を回避するための重要な示唆を得ることであろう。
苅部直東京大学教授は、現代の日本でもっとも想像力溢れ、もっとも独創的な思考を提示してくれる政治思想史研究者だ。しかもそれを平易な文章と卓越したレトリックやアナロジーを用いることで、ほかにはない魅力溢れる文章に昇華させている。政治思想史という学問領域が持つ内在的な魅力と威力を、雄弁に語ることができる数少ない日本人研究者である。そして私は何を隠そう、長年苅部氏の著作のファンである。
その苅部氏の著作の中でも、今回の著作はそのスケールの大きさと思索の奥行きの深さにおいて、前例がない。著者は、従来の一般的な明治維新論を解体し、この時代を生きた思想家や知識人、そして市井の人々の言葉を巧みに紡ぎあわせることで、新鮮な日本産の文明論を提唱する。いわば、かつて福沢諭吉が書いた文明論の著作に匹敵する壮大な視野を持つ『新・文明論之概略』を作りあげてしまった。
これまでの世界における主要な文明論は、トインビーやブローデル、そしてハンチントンのように、世界が多くの異なる文明に分化していることを前提に多元主義を強調する複数形の文明論と、『文明論之概略』を書いた福沢諭吉や『文明』を書いたニーアル・ファーガソンのように、より普遍主義を強調するいわば単数形の文明論とに分かれている。他方、苅部氏は、ウォルツァーが述べるところの、世界で共有可能な「ミニマルな道徳」に注目して、多元主義と普遍主義の融合の可能性を論じている。というのも、世界は「諸文明の衝突」が不可避であるような、敵意と対立に満ちた砂漠ではない。それでは、日本はこれまでどのように西洋の文明を受容し、またそれに反発し自らの文明を発達させたのか。
著者はここで、普遍主義的な性質を持つ文明をあえて〈文明〉と表記をする。日本は、自らが独自に育んできた文化や伝統を擁護しながらも、江戸時代から明治時代へと長い時間をかけて普遍的な〈文明〉を、日本の内側で育んできたのだという。だからこそ、日本は西洋の文明を受容できたのだ。著者はこれを、イギリスの批評家レイモンド・ウィリアムズの言葉を借りて、「ロング・リヴォルーション」と呼ぶ。すなわち、「日本文明の価値意識のなかにある〈文明〉の価値に即して、よきものであったからこそ、『文明開化』の新着品は歓迎され、日本社会に定着することになった」のである。
そのような普遍的な〈文明〉を暗示するメタファーとして、著者はこれまで「光」という言葉を用いてきた。苅部氏の最初の著作である『光の領国 和辻哲郎』(岩波現代文庫として、2010年に文庫化)では、若き日に和辻哲郎少年が衝撃を受けた電灯のイルミネーションについて、次のように書いている。「夜闇に煌々と輝くイルミネーションは、まさしく『文明』の象徴であった。人々はそれに続々と群がって、光を見つめ、照らされることを通じて『生きたる証拠』を実感していたのである。」
このような電灯のイルミネーションは、光を受ける人を選ばない。宗教、民族、言語、国家に拘わらず、光は人々を照らすことができて、人々に生活をする上での利便をもたらす。和辻は、「イルミネーションはまったく驚異で、天国とはこれか、と思った」と回想した。和辻少年が「イルミネーション」に魅了されたような好奇心や喜びは、ハンチントンが諸文明の間に引いた境界線を越えて、多くの人に喜びをもたらすものではないか。著者は、そこに希望を見いだす。
壮大な文明論を論じることを背景としながら、同時に著者は数多くの魅力的な思想家を舞台に登場させて、生き生きとその言葉を紡ぎあわせる。あわせて、「維新」や「勢」、「経済」など、当時用いられた多くの言葉を、その起源までさかのぼって丁寧にその意味を掘り下げる。本書を読むことで、われわれは民俗博物館を訪れたときのように、この時代の人々の暮らし、思索、活動の歴史をより鮮明に知ることができる。1冊の著書の中で、多様なエッセンスが詰まっている。著者の力量に脱帽するしかない。
(ほそや・ゆういち 慶應義塾大学教授)
波 2017年6月号より
インタビュー/対談/エッセイ

対話的な読書のすすめ
──今年のフェアのテーマは、「日本とは何か?」です。高市政権の誕生や参政党の躍進の背景には、保守的な思想やナショナリズムの高まりがあるのでしょうか?
ちょっと違う見方をしています。昨今の選挙結果は、旧態依然としたリベラル勢力が国民から見捨てられたことを示しているだけで、保守思想やナショナリズムが蔓延しているからそうなったわけではないでしょう。現状変更への期待が、高市首相や参政党、チームみらいへの支持へと向かったのだと思います。
しかしそれとは別に、「日本とは何か」について関心が高まっているという印象を、ふだん持っています。ナショナリズムというよりも、もっと日常生活に即した感覚ですね。社会のグローバル化が進んで、ビジネスでも個人的な生活のなかでも、外国人と接する機会が多くなった。そうするとたとえば、外国人から日本の文化や歴史について質問されたときに、うまく答えられないと気づく。そうした実生活上の関心に根ざした意識ではないかと思います。ビジネスパーソンの方から、「日本について関心はあるけれど、よく知らない」という述懐を伺うことは多いです。
そういう声が出るようになる原因の一つは、学校教育のカリキュラムでしょう。いま、高校では「歴史総合」が必修科目なので、日本の近代史は多くの人が学んでいますが、政治史・外交史・経済史が中心ですから、思想や文化については知識が手薄になる。また、それ以前の時代に関しては、選択科目の「日本史探究」や「倫理」を受講していないと、知る機会がない。大半の大人が、日本の思想や歴史に関する知識は中学生レベルのまま、海外の実務家と交流したりしているんですね。
そういう人が「日本とは何か」について学び直そうとするときに、今回のフェアのラインナップは役に立つのではないかと思います。
──苅部さんの『「維新革命」への道―「文明」を求めた十九世紀日本―』も、江戸時代から明治時代にかけての思想を学び直せる内容ですね。

江戸時代の荻生徂徠・本居宣長から、明治時代の福澤諭吉、竹越與三郎まで、多くの思想家の言説をとりあげた本ですが、高校教科書に載っていたり、大河ドラマのあらすじの元になっていたりする歴史のストーリーとは、異なる見かたを提示しようと試みたものです。
世上に流布する歴史の語りではしばしば、日本の近代化の特色について「和魂洋才」と表現されます。思想やモラルは旧来のものを保ったまま、法制度や科学・技術を西洋から摂取したというイメージ。しかし、「和魂洋才」という言葉は明治の末になって登場するものですし、明治初期の知識人はそんなことを言っていません。
これに対して『「維新革命」への道』では、すでに江戸時代に思想面での「文明」化が進んでいたという歴史像を提示しています。
──日本の思想が特殊な発展を遂げていたからこそ、西洋以外で唯一、近代化に成功したわけですね。
特殊な発展というより、西洋と響きあうような普遍的な要素が育っていた。
かつて1980年代、1990年代の日米貿易摩擦の時代には、日本特殊論が大流行していました。エズラ・ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』、カレル・ヴァン・ウォルフレンの『日本/権力構造の謎』『人間を幸福にしない日本というシステム』など、特殊性を強調する本が出て、『ザ・カミング・ウォー・ウィズ・ジャパン』なんて物騒な本もあった。そのせいで、日本人自身も自分たちは特殊だと思い込みを強める傾向がありました。
しかしその後、日本のマンガやアニメが当たり前のように海外で流行するようになりました。また日本人も海外のドラマを手軽に鑑賞しています。若い世代にとって、「日本が特殊だ」という指摘はぴんと来ないでしょう。日本が確かに特殊だとしても、それを言うならアメリカも中国もそれぞれ特殊だろうという感覚になっている。
そのような時代の変化の中で、日本だけが特殊だと見なす色眼鏡を取り払った上で、素直に十九世紀の日本の思想史を見直してみると、当時の日本人は、むしろ伝統的な価値観に基づきながら、西洋の文化のなかに普遍的な意味を見いだし、それを「文明」と呼んで享受しようとしたことがわかります。その延長線上に、民主主義や法の支配といった思想・制度の受容があった。
黒船の圧力によって、仕方なく「洋才」を学んだわけではありません。むしろ伝統的な思想に立脚しながら、西洋の「才」と「魂」の両方を高く評価したからこそ、日本は近代化に成功した。
──しかし、「普遍的価値」も近年は急速に勢いを失いつつあるように見えます。
「普遍的価値」が危機に瀕しているとは思わないんですね。欧米諸国でも、完全なリベラル・デモクラシーを実現できた国など存在しない。めざすべき社会の理想としては、その重要性を否定するのは今でも難しいでしょう。
むしろ現代は、近代の「文明」の長所と短所を冷静に見きわめ、その良い部分を、どうやってさまざまな文化圏に定着させるかについて、考え直すチャンスです。十九世紀日本の経験は、そうした思考の材料として重要だと思います。
日本を考える多様な視点
──今回のフェアでは、苅部さんの本の他にも思想史の本が多く入りました。いずれもロングセラーですが、思想史という一見マイナーなジャンルが日本ではなぜよく読まれるのでしょうか?
思想史研究は、学界では専門家の少ない分野ですが、戦後日本の読書界では、結構メジャーなんですね。それは明らかに丸山眞男の影響で、『日本の思想』(岩波新書)は、刊行後六十年以上たっても読まれています。社会学者の竹内洋さんは、中公新書の『丸山眞男の時代』の中で、政治思想史はちょうど人文学系と社会科学系の接点になるので、教養書としては最強のジャンルだと指摘されています。「日本とは何か」という問いに関心が高まっている現在、日本政治思想史の本がよく読まれるのは当然なこととも言えるでしょう。
たとえば先崎彰容さんの『未完の西郷隆盛―日本人はなぜ論じ続けるのか―』は、西郷隆盛という人物を直接論じるのではなく、福澤諭吉から司馬遼太郎まで六人の思想家・作家を並べて、いかなる西郷イメージを世に提供したかを分析している。西郷論の歴史から、近代日本人の精神史を改めてたどり直している試みです。

もちろん、「日本とは何か」という問いについては、思想史以外の視角から検討することも重要です。
川添愛さんの『ふだん使いの言語学―「ことばの基礎力」を鍛えるヒント―』は、日本語という切り口から「日本とは何か」について論じているという読み方もできるでしょう。私たちはどのように「は」と「が」を使い分けているのか。どういう時に「不自然」な日本語だと感じるのか。ふだんは特に意識しないで使っている日本語の中に、じつは複雑な文法構造が隠されていることがわかる。そして、そこから私たちの考え方の癖を知り、意外な側面を発見することもできるでしょう。
あるいは、巽好幸さんの『地震と噴火は必ず起こる―大変動列島に住むということ―』。マグマの研究者の方が書かれた本ですが、専門的な地球科学の本が選書という一般書の形で刊行されているのは、やはり日本人が阪神・淡路大震災と東日本大震災を経験したからこそだと思います。これも災害という切り口から「日本とは何か」を考えさせてくれる本として評価できるのではないでしょうか。


──「日本とは何か」を考える際に、外国人の視点で考える本があった方が良いと思い、ドナルド・キーンさんの『日本文学を読む・日本の面影』と、ピーター・J・マクミランさんの『謎とき百人一首―和歌から見える日本文化のふしぎ―』もフェアに入れました。


たしかにさまざまな視点を並べることは大事だと思いますが、キーンさん、マクミランさんご当人は、自分は外国人だという意識では書いていない、と不本意に感じられるかもしれませんね。
もし日本政治思想史の優れた本が、海外で刊行されたら、日本国内の読者に紹介したいと考えているのですが、最近はなかなかそのような本にめぐりあえないのが現実です。とくに英語圏の人文学・地域研究の学界で顕著な傾向ですが、ポストコロニアリズムやジェンダーといった「リベラル」なテーマにばかり集中していて、オーソドックスな思想史や政治史を専攻する研究者が少なくなっている。英語圏に関しては、もう無理かもしれません。ほかの地域にはまだ可能性があるかもしれませんが。
選書を対話的に読む
──苅部さんは『「維新革命」への道』『小林秀雄の謎を解く―『考へるヒント』の精神史―』と二冊の選書を刊行しています。選書というジャンルの魅力を教えて下さい。
選書という本の形は日本独自のものです。新書も世界では珍しい刊行形態ですが、一応、英国のペリカン・ブックスというモデルがあります。しかし、新書でも専門書でもない、中間的なスタイルとしての選書という存在は、おそらく海外に類例がない。そう考えれば、選書というジャンルがあること自体が、「日本とは何か」を語るための素材になりえます。
新書と選書の違いについてあえて語るなら、新書は、たとえば新幹線で東京と大阪を往復する間にさっと読んで、知識を効率的に吸収するための本です。それに対して選書は、情報を得るということのみにとどまらず、もう少しゆっくり時間をかけて、対話的に読むものではないでしょうか。
本の内容をじっくりと追いながら、なぜこのようなテーマを選んだのか、なぜこのような書き方をしているのだろうかと想像してみる。さらに著者の考えと自分の考えを対比させて、自分だったらどう論じるかを考えてみる。取り上げられている題材を別のものに置き換えてみたり、その理論を現実の事例に当てはめてみたり……情報を得る営みに加えて、時に文章から離れながら、頭の中で新たな対話が始まるようにして読む。そのように接していただけるのが、選書の著者としての願いでもあります。
(かるべ・ただし 東京大学教授)
著者プロフィール
苅部直
カルベ・タダシ
1965(昭和40)年、東京都生まれ。東京大学法学部教授。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。専門は日本政治思想史。著書に『光の領国 和辻哲郎』、『丸山眞男――リベラリストの肖像』(サントリー学芸賞)、『鏡のなかの薄明』(毎日書評賞)、『歴史という皮膚』、『安部公房の都市』、『「維新革命」への道――「文明」を求めた十九世紀日本』、『日本思想史への道案内』、『基点としての戦後――政治思想史と現代』など。


































