
本居宣長―「もののあはれ」と「日本」の発見―
2,090円(税込)
発売日:2024/05/22
- 書籍
- 電子書籍あり
日本思想史を画す「知の巨人」。その肯定と共感の倫理学とは。
中国から西洋へ、私たち日本人の価値基準は常に「西側」に影響され続けてきた。貨幣経済が浸透し、社会秩序が大きく変容した18世紀半ば、和歌と古典とを通じて「日本」の精神的古層を掘り起こした国学者・本居宣長。波乱多きその半生と思索の日々、後世の研究をひもとき、従来の「もののあはれ」論を一新する渾身の論考。
註 主要参考文献一覧
書誌情報
読み仮名 | モトオリノリナガモノノアハレトニホンノハッケン |
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シリーズ名 | 新潮選書 |
装幀 | 駒井哲郎/シンボルマーク、新潮社装幀室/装幀 |
発行形態 | 書籍、電子書籍 |
判型 | 四六判変型 |
頁数 | 352ページ |
ISBN | 978-4-10-603911-9 |
C-CODE | 0312 |
ジャンル | 評論・文学研究、ノンフィクション |
定価 | 2,090円 |
電子書籍 価格 | 2,090円 |
電子書籍 配信開始日 | 2024/05/22 |
書評
人物評伝を読む 日本を考える3冊
もしも私が人物評伝やエッセイを書くはめになれば、誰を取り上げるであろうかと、時々、考えたりもするのだが、いっこうに名前があがらない。見も知らぬ人物の生きざまにどっぷりと浸るには、相当な共感の持続がなければならない。どうも、それが私には欠落しているようだ。
関心を掻き立てられる人物や思想家は結構いるのだが、逆にいえばいすぎるのである。その結果、私の興味は、人物というよりも、彼の思想や、背景をなす思想史へと向かう。さらには、その思想の現代的意味が気になる。だから、人物評伝を読む場合にも、今日それを読む意味はどこにあるのか、などと考えてしまう。
ところで、ここにとりあげる三冊は、私にはすこぶる楽しい時間を与えてくれた。時代が新しい順でいえば、まず瀧井一博氏の『大久保利通―「知」を結ぶ指導者―』。
大久保といえば、どうしても盟友かつ宿敵である西郷隆盛との対照がよく知られ、「義と情の人、西郷」に対し「利と理の人、大久保」として脚色されるのが常であろう。こうなると西郷の方に分がある。私自身もその俗耳につられ、大久保の事跡や足跡にはほとんど関心がなかった。だが本書は、大久保に付きまとう西郷の影など目もくれず、大久保その人の歩みを実に丁重に描き出す。
明治維新の謎のひとつは、薩長志士の過激な尊王攘夷が、いかにして新政府の建設という難事業へ向かい、さらに徹底した欧化政策へと転換したかにあろうが、その中心にはいつも大久保がいた。本書は、大久保の歩みを日記でもひもとくように丹念に眺めることで、この謎を解きほぐす。

彼は、「利と理にたけた先進的リーダー」どころか、人々の調整役としてしんがりに座を構え国家の方向を展望し、公的な議論(公論)へ人々を誘う総合的プロデューサーであった。この大改革者を、「政治制度はその国の『土地風俗人情時勢』に従って構築されなければならない」という漸進的改革の思想の持ち主と見る著者の大久保像を、果たして、今日、「改革」や「変革」を叫ぶ政治家たちはどう評価するのだろうか。
次は先崎彰容氏の『本居宣長―「もののあはれ」と「日本」の発見―』。本居宣長論というと、まずは小林秀雄の同名の大著を思い出す。この書物で、とりわけ『古事記伝』を扱う際、小林は、(本人も述べているが)引用に次ぐ引用を重ねている。古語を頼りに古代人のこころや神の道を知るには、ただ古人の言葉遣いを知るほかないという宣長の徹底した思想に小林は共感したからだ。余計な解釈は「さかしら」に陥りかねない。

そこに宣長を論じる難しさがある。先崎氏の宣長論は、『古事記伝』には触れず、それ以前の『石上私淑言』や『紫文要領』などに限定して思い切った解釈をほどこしてゆく。たとえば「もののあはれ」とは、個人の私的な情緒などではなく、古代から続く「わが国びとの生活の記憶」、つまり伝統と歴史に共鳴することだ、というのだ。
これなど私にはたいへん面白く説得力をもっていた。それらが「さかしら」に陥らないのは、宣長に向き合う著者の態度が鮮明だからだ。つまり、外国の高度な文明(著者のいう「西側」)にすり寄る「からごころ」こそが、日本人のこころを空虚化してしまう、という宣長の危機感は、決して過ぎたことではない。グローバリズムの現代もまた、あの「宣長の時代」なのだ、と著者はいうのであろう。
最後に寺澤行忠氏の『西行―歌と旅と人生―』。本書は実に読後感がよい。決して奇をてらわず、強力な解釈意図など微塵もなく、実に誠実で丁寧な論述であるが、だからこそ、その和歌と共に西行のありのままの姿が浮かび上がる。

西行には私は何かあるなつかしさをおぼえる。いくつかの有名な歌しか知らないが、昔から、世俗の栄達を捨てて漂泊の旅に徹した西行という人物の苛烈な生に共感を持っていた。出家しつつも人恋しさに耐えられず、無常から逃れるためにまた無常の旅を続けるという西行には、日本人の深い心情を打つものがある。昔に読んだ小林秀雄の影響かもしれないが、どうやら、著者も同じ経験を持つようで、おまけに、著者は高校時代を奈良で過ごしたと記している。私も高校まで奈良にいた。何か、奈良の風土と西行が漂わせる無常の風には響きあうものがあるのかもしれない。いずれにせよ、本書が、このせわしない情報過多の現代日本において、多くの読者の共感を呼んでいるという事実はすばらしいことに違いない。
(さえき・けいし 京都大学名誉教授)
エロスいっぱいの宣長
西と東の相剋。古代から現代に至る日本史はそれで読み解ける。本書の大前提だろう。かと言って、西日本と東日本という国内地理の話ではない。荻生徂徠や賀茂真淵が江戸に居て、本居宣長は伊勢の松坂だから、東と西というわけでもない。西とは隋や唐や近代西洋だ。外圧は西からかかる。日本は常に東側。しかもこの国に西を圧倒する力は昔も今もなかなか備わらない。ゆえに東が西に文明として対抗しようとすると、日本の内側に西の理屈を入り込ませて「文明化」してみせるというかたちをとらざるを得ない。こうして我らの内なる西が生まれる。我らの内なる東と、争ったり、軋んだり、棲み分けようとしたりする。西が東を露骨に下位に置くこともとても多い。因果応報の仏教に大義名分の儒教に合理と科学の西洋文明。東はいつもその前に這いつくばるのか。今日の日本を含めて。
そうはさせじ。本書の主人公は我らの内なる東の側に立つ大思想家だ。国学者である。1730(享保15)年に生まれ、1801(享和元)年に逝った。田沼意次や松平定信の時代に自らの思想を展開した。世には確かに矛盾や不安も満ちる。が、前後の時代に比べれば、外圧をかなり忘れられ、「鎖国」の稔りを得られた頃合い。言わば江戸期の頂点。経済は殷賑。学芸は爛熟。政治や社会の差し迫った課題も少なめ。かくて宣長は嘯く。「上古の時、君と民と皆な其の自然の神道を奉じて之れに依り、身は修めずして修まり、天下は治めずして治まる矣」。儒仏や蘭学に頼らずとも我が国は自ずから回る。国学者の自信であろう。
すると宣長とは、おめでたい江戸中期の産んだ、単なる楽天家だったのか。そんなことはあるまい。著者は大野晋の説を引きつつ若き宣長の苦悩と決断に注目する。宣長の思いびとは材木商に嫁に行き、彼は人妻への恋情に身を焦がしつつも、意に染まぬ結婚をした。ところが思いびとは材木商と死別。それを知った宣長は歌を詠む。「くらへ見んいつれか色のふかみ草 花にそめぬる人の心と」。思いびとの名が詠み込まれている。草深民という。民さんだ。近代の歌人、伊藤左千夫の小説『野菊の墓』のヒロインも民さん。左千夫は言った。人はなぜ歌を詠むか。合理的な思考や選択から心がはみ出すと、人は叫び、それが歌になる。宣長は草深民を思って叫んだ。妻を棄てた。未亡人の民さんを後妻に迎えた。そんな粗筋が断片的な証拠から組み立てられる。それが人間宣長と弁えれば、『あしわけをぶね』の次の一節の生々しさはまた格別だ。「人の妻を犯すなど云事は」子供でも悪いと知っているけれど、「すまじき事とはあくまで心得ながらも、やむにしのびぬふかき情欲のあるものなれば」やめられないし、止まらないという。
本書が思い入れるのはそんな宣長だ。エロスの権化だ。「西側」の与えるあらゆる文明的道徳律をぶち破って、エロスにひた走るのが、西に抑圧されてきた東の本性、そう主張してやまぬ宣長だ。だから宣長は、合理に回収されぬ余剰を引き受けるために存在する和歌という分野にこだわり、色欲に否定的な儒仏の教えを退け、善悪の弁別に熱心なあらゆるリゴリズムを非難して、日本の日本たる所以を「色好み」に求めてゆく。西と異なる東の独自性を「色好み」のもたらす多産的豊饒さに求める折口信夫の『源氏物語』論が引かれるのも、とても利いている。
エロティックな宣長。人妻に懸想する宣長。でも、ドン・ファンもびっくりの唯我独尊的享楽主義者と思ってはまったく違う。本書の描く宣長は、あくまで和歌があっての日本的エロスを生きている。そもそも性愛とは相手のあること。和歌も詠ませる相手が居てこそ。常に間柄の問題。しかも和歌だからやまと言葉。宣長のキイワードたる「もののあはれ」はそこに登場する。「あはれ」とは「深く思いつつ嘆息する」ことで、その詠嘆の微妙な質を、歌詠みのみならず、歌の受け手も襞の奥まで感受するべく、日本の風土を踏まえつつ、高度な含蓄を持って、儚く曖昧に流動的なかたちになるように、修辞法を蓄えてきたのが和歌なのだ。それを極めれば、西の漢意の単純な善悪二分法の理屈を超えた、森羅万象の「あはれ」を感受しうる。やまと言葉のみが世界に冠たる精妙さで描けると宣長の考えた、不断に揺れ動き続ける関係の中に漂うだけが人生なのだ。そう言えば本書は和辻哲郎やその門下の相良亨の宣長論を大きな導きの杖としているが、それは和辻倫理学が個々の人間の主体よりも複数の人のあいだの微妙な感情の往来に目を配り、儚い関係性に思いを致しているからであろう。しかもこの筋書きは、やまと言葉と和歌なくして成り立たぬのだから、外国には通じまい。やはりウルトラ日本主義である。しかし、平和な江戸中期の生んだ、儚くも美しく燃えるエロスの綾しか認めない日本主義でもある。戦闘的ナショナリズムとは本来的に結びつきようがない。かくて著者は宣長を近代的自我とも合理主義ともファシズムとも繋がらぬ思想家として見事に救済する。そういう思想のかたちは著者の求める日本的保守主義の精髄ときっと重なる。先崎さんの多くの仕事の中でも、これは極め付きである。
(かたやま・もりひで 慶應義塾大学教授)
著者プロフィール
先崎彰容
センザキ・アキナカ
1975年、東京都生まれ。東京大学文学部倫理学科卒。東北大学大学院文学研究科博士課程を修了、フランス社会科学高等研究院に留学。2024年5月現在、日本大学危機管理学部教授。専門は倫理学、思想史。主な著書に『ナショナリズムの復権』『違和感の正体』『未完の西郷隆盛』『維新と敗戦』『バッシング論』『国家の尊厳』などがある。