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90歳、男のひとり暮らし

阿刀田高/著

1,870円(税込)

発売日:2025/09/25

  • 書籍
  • 電子書籍あり

脳と体の衰えを知恵とユーモアで迎え撃つ。直木賞作家の「老年のヒント」。

突然始まった単身生活。モットーは「“まあまあ”でいいじゃないか」。簡素に食事を調え、落語は読んで鑑賞、旧知の場所を訪ね、亡き人の思い出に親しみ、眠れぬ夜は百人一首を数える──迫りくる老いを受け止めながら日々を軽やかに過ごすコツを伝授し、人生の豊かさを再認識させてくれる滋味絶佳の老境エッセイ。

目次

日々の暮らしと知恵
九十歳 手料理いたします 食
教養がありますか 日課
駄目駄目ショッピング 買い物
税金とのつきあい お金
秋風に犬も歩けば桐の壺 不眠対策
箱はあれこれ 好き嫌い 片付け

私の好きなもの
華麗なる寅さん? 映画
落語を読んでいます 落語
老いて漢字もいい感じ 漢字遊び
かもめ歌はいかが 歌謡曲
九十にしてボーッと 締切
おもしろい読書を知っていますか 本
老いてこそユーモア 人生の友

間奏曲です

身体の声を聞いてみる
奥歯の痛み ありがとう 心臓
海馬が勝手に動くのかも 脳
五官の成績簿を考える 健康診断
些細なれども日常の+と- 手の仕事
夢の行方を訪ねて 記憶

生と死のあいだで
東京あちこち訪ねたら 思い出めぐり
人生いろいろ老爺もいろいろ 人生の岐路
めでたさは上の下くらい 家族の距離
会いたいなあ、あの人に 亡き人を恋う
自惚れの本棚から 仕事
あとは無となれ墓はなし 墓
月がとっても偉いから 孤独の矜持

あとがきに替えて
本書に登場する阿刀田作品一覧

最期の「ありがとう」 その後

書誌情報

読み仮名 キュウジュッサイオトコノヒトリグラシ
シリーズ名 新潮選書
装幀 赤井稚佳/装画、駒井哲郎/シンボルマーク、新潮社装幀室/装幀
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判変型
頁数 224ページ
ISBN 978-4-10-603935-5
C-CODE 0395
ジャンル 文学・評論、ノンフィクション
定価 1,870円
電子書籍 価格 1,870円
電子書籍 配信開始日 2025/09/25

書評

独居老人の「暢気」

川本三郎

 百一歳まで元気だった生活評論家の吉沢久子さんは、家事は自立の第一歩といっている(『101歳。ひとり暮らしの心得』中公文庫、2019年)。
「自立」を平たくいうと「自分のことは自分でできるように」とのこと。人間として生きていく上で、身の回りをきれいにし、自分で自分を食べさせるのが、自立の出発点だという。
 九十歳の独居老人、阿刀田高さんは、その点で立派に自立している。
 ひとり暮しの老人がきちんと自分で食の用意をする。朝はバター・トースト一枚、あるいは餅一個を磯辺巻きで。あとは牛乳、トマト、バナナ、チーズ、そしてブロッコリーと卵をゆでる。
 立派。栄養のバランスもとれている。たまに外食もするが、脚が弱くなり、外食はおっくうになる。
 昼はインスタント食品にお湯を注いだり、電子レンジでチンしたり。
 夜は、肉を鉄鍋で焼く、魚を網で焼く。あるいは湯豆腐、豚汁、おでん、親子丼など。「下手を承知で頑張る」。
 これには感嘆する。豚汁まで作られるとは。阿刀田さんより十歳ほど若い独居老人の私などもうほとんど外食ばかり。情けなくなる。
 肉を焼く、に注目したい。元気なお年寄りはたいてい肉好き。九十歳を過ぎても現役の山田洋次監督は肉が大好きだし、黒澤明、瀬戸内寂聴が肉好きだったことも知られている。肉を食べるから元気なのか、元気だから肉を食べるのか。私も皆さんを見習おうと、週に一度は焼肉屋に行き、ひとり焼肉をしている。
 阿刀田さんは、茶わんむしまで作るというから驚く。といって美食家ではない。三、四日、同じメニューが続いてもさほど苦にならないという。
 三十歳で結婚するまで七年ほどひとり暮しをした。その間、外食が多かったが、自分でもなんとか作った。納豆、やき鳥、コロッケ、かまぼこ、豆腐……。「うまさはほどほど」。それでよかった。
 だから九十歳になったいま、若い頃を思い出せばよい。
 家事は誰もがやっていること。「当然のこと、普通のことなのだ」「暢気に構えていれば、それでよいのだ。当然の仕事と思えば家事なんて楽なもんじゃないか」。
 家事に限らない。本書全体を通して感じられるのはまさに「暢気」である。老人だからと悲愴がらない。ものごとを深刻に考えない。
 九十歳だから不自由なことは多い。歩くのには杖がいる。身体のあちこちの具合が悪くなり病院通いがふえる。物忘れもひどくなる(ネクタイの結び方を忘れてしまう)。それでも老いを大仰に嘆かない。ユーモアを大事にする。
 吉沢久子さんも書いている。
「くよくよせず、好きなものを食べて、グーグー寝る。能天気が健康の秘訣でしょうか」。「暢気」と「能天気」。重なり合う。
 死後のことなど考えない。「私にとって“死は無なのだ”と今は固く信じている」「九十歳の私は無を選ぶ。無を信じている」。さっぱりとしている。まさに「それでいいのだ」。達観しているといえばいいか。こういう心境になりたい。
 高齢者にいいアドバイスがある。まず「鏡を見る」が第一なのが面白い。年寄りは身だしなみをきちんとしなければならない。見習いたい。「一日一喜を勧める」というのもいい。一日、何かひとついいことがあったらそれを書きとめる。
 阿刀田さんがお元気なのは、好きなものをたくさん持っているからではないか。仕事も楽しんでおられたのだろう。料理だって好きでなければできない。
 映画(例えば「男はつらいよ」。いちばんのヒロインは第一作の光本幸子というのは卓見)、落語、漢字遊び(これは教養がないとできない)、本、ユーモアなどなど。好きなものが沢山あるからこそ「暢気」でいられる。老人にありがちな不機嫌から逃れられる。
 ところで阿刀田さんはなぜ独居になったのか。実は奥様が認知症になり施設に入ったため。ただ、阿刀田さんは認知症になった奥様のことを、その尊厳を守るために書きたくないという。これには粛然とする。
 そして奥様は今年の5月に亡くなられた。最後の「慶ちゃん」への「ありがとう。ありがとう」が短い文章のなかだけに深く心に残る。

(かわもと・さぶろう 評論家)

波 2025年10月号より

インタビュー/対談/エッセイ

話題の『90歳、男のひとり暮らし』採録二本立て!

些細なれども日常の+と-/会いたいなあ、あの人に

阿刀田高

阿刀田さんが、老境の衣食住から趣味・教養・死生観までを軽やかに綴ったエッセイ集が、いま多くの方に読まれています。今回はその中から二本をお届け。人生の知恵と経験が滲む名随筆をお楽しみください。

些細なれども日常のプラスマイナス

 ──なんで? そんな馬鹿な──
 鏡の中が戸惑いから苦笑に変わった。指先を見つめた。老いはこんなところにも忍び込んでくるらしい。
 ──ネクタイが結べない──
 たまたま背広を着る必要があって久しぶりにネクタイを一本取り出し、ワイシャツの首に巻いて締めようとしたら、これがスムーズに運ばない。
 思えばサラリーマンとしてスタートして十余年、その後も折々に、つい四、五年前には甲府の図書館の公務に関わりがあってネクタイは常用していたのだ。私にとってネクタイはむしろ好きな日用品であった。ダブル・ノットを常としていた。それがむずかしい。
 とりあえずシングル・ノットで締め、次に、
 ──ああ、こうだった──
 往年の習慣を思い出したが、胸に垂れ下った二本のバランスが悪い。昔はこんなことけっしてなかった。ス、スイのスイ、なんのためらいもなく奇麗に結んでサッと上着を着たものだった。
 ──世話になったな──
 あらためて二十本ほどぶら下がったネクタイたちを眺めた。
 ネクタイには思いのほか強い好みがあった。拘りがあった。プレゼントされたものは大抵好みに合わない。おしゃれなどあまり気にかけない人生だったけれど、ネクタイだけは自分で選んだ。
 高価な品を求めたこともある。海外旅行では必ずと言ってよいほど買い求めた。例えば一本二万円くらい……。でもこれは着用したのは十回くらいのものだったろう。
 ──一回締めると二千円か──
 みみっちいことを考えたこともあった。今、眼の前にズラリとぶら下がった数十本はみんな一締めごとにそこそこの金額だったはず。それが今や、
 ──つわものどもが夢の跡──
 少し大げさながら、この感が漂う。
 ふと思い出して……同じ洋簞笥の下に納めてあるので、
 ──これは絶対駄目だろうな──
 そう念じながら角帯を一本取り出してみた。十数年前には時折和服を着用していた。キリッと帯を形よく締めて、いい気分……のはずだったが、今は途方に暮れて、
 ──どうするんだったっけな──
 早々にあきらめた。
 そう言えば、これも十数年前、着物を着なくなったとき、
「このごろ、お召しにならないわね。どうしてです?」
 と女人に質ねられてちょっぴり見栄を張った。
「女がいなくなった」
「えっ?」
「半襟をつけてくれるひとがいない」
 半分くらい本音だった。あれは結構厄介な仕事なのではあるまいか。汚れたら取り替えねばならないし、汚れなくても趣向がからむ。大切な美意識だ。なのにわざわざ呉服屋に頼むことではなさそうだし、なにかうまい方便はあるのだろうが、しかるべき女性がいてくれると嬉しい。不自由していたのは本当だった。今はもちろんどうにもならない。そもそも角帯を締めることなど、もはやネクタイ以上に無用の技術である。

 先日コートのボタンが取れた。胸元の一番大切なボタンである。しかし、
 ──これは大丈夫──
 昔、昔の大昔、少し前まで小中学生でも竹槍持ってゲートルを巻き、兵士の真似ごとに励んでいたのに急に軍備は放棄、学校の時間割に家庭科が加えられ、裁縫をすることになった。確か初めは雑巾を縫うことだったろう。あの時しっかりと覚えた。長い人生でボタンつけだけは何度か復習を試みている。
 針に糸を通すのはほどよい器具が備わってある。糸を長めに引いてコートの胸にボタンをキリキリと縫いつける。もう死ぬまで、死んでからも取れないようにしっかりとつける。本当はコートの生地とボタンの間に一ミリくらいのゆとりを持たせるほうが正式らしいが、そんなことはできない。カチカチにつけても実用には役立つ。
 ──やったね──
 和服の襟替えとは大分レベルの違う作業だが、少しく満足を覚えた。
 ──そう言えば──
 衣服についてもう一つ不自由が残っていた。立派な、高価なジャンパーを入手したのに前を締めるチャックがうまくいかない。一番下のところで左右に分かれている歯を嚙み合わせるはずなのに、これがどうにも不細工で何度試してもうまくはまってくれない。私が不器用なせい、とも考えたが、とにかく何度も、どう試みても駄目なのだ。
 ──欠陥商品ではあるまいか──
 取り替えや返品の手続きは面倒だろうし、そのままハンガーにぶら下げ、思い出してはいろいろやっている今日このごろなのだった。せっかくコートのボタンはうまくいったのに、これを思い出すとひどく不愉快になってしまう。

 話は飛ぶけれど、過日のNHKのテレビで、ブロッコリーのうまい食べ方を教示していた。ブロッコリーはほとんど毎日食しているのだが、あの太い茎の部分、
 ──もったいないな──
 と思いながら切り捨てていたのだが、あれは栄養価も充分、おいしい食べ方もあるんだとか。しばらくはテレビを見入っていた。方便はいろいろあるようだが私にはむずかしそう。とにかく茎の外皮のあたりを切りむき、芯の部分だけを取れば柔らかく調理ができるらしい。後日の知恵として心に留め、目下待機中である。
 老年の独り暮らしは、どんどんと日常の知恵を失っていくが、少しは新しく覚えることもあるみたい。このマイナスとプラスは、マイナスのほうが断然大きいことは疑いないけれど、たまにはプラスもあったりして、それが少し嬉しい。茶碗蒸しもこのごろなんとか作れるようになった。

会いたいなあ、あの人に

 瀬戸内寂聴さん(1922~2021年)には何度かお会いして、そのつど親しく、楽しく接していただいたが、私には頭の上がらないところがなくもなかった。
 それと言うのは……小学一、二年生のころ、私は杉並区の西荻窪に住んでいたが、近くに東京女子大学があり、十二歳年上の姉がそこへ通っていた。親しいクラスメートに瀬戸内晴美(寂聴)さんや後年実力派の作家として輝いた水島(近藤)富枝さん(1922~2016年)があって、時折、私の家にも遊びに見えていた。私の家の表玄関は三帖間ほどの板間があり、両側にリビングに通ずる廊下が延びていて、一段低い靴脱ぎ場から見ると小さな舞台になる。女子大学で学祭でもあってか姉たちは芝居をやることとなり、ここが稽古場になった。し物は『修禅寺物語』で(細かくは後で知ったことだけど)水島さんが演出担当のリーダー格、姉は妹娘のかえでを演じ熱心に練習していた。私は物珍しくもあって横から見つめていたにちがいない。劇中の名台詞「いかなる名人上手でも細工の出来不出来は時の運。一生のうちに一度でもあっぱれ名作が出来ようならば、それがすなわち名人ではござりませぬか。つたない細工を世に出したを、さほどに無念と思召さば、これからいよいよ精出して、世をも人をもおどろかすほどの立派なおもてを作り出し、恥をすすいでくださりませ」を姉が叫ぶのを聞いて覚え、今でもそらで呟くことができる。瀬戸内さんは家臣の役だったらしいが、後年、「あんた、いつも棒持って脇で見てたじゃない。かわいかったよ」と往時のくさぐさを多分フィクションも混ぜておもしろく語るので、これはかなわない。苦笑するばかりだった。二〇一一年の夏、京都の寂庵を訪ねて歓談したのが最後となったが瀬戸内さんの波瀾に富んだ豊かな人生は私にとっても心に残るみごとなエピソードで溢れている。もっと親しく謦咳に接すべき先輩であった。文字通り残念でならない。

 銀座八丁目に小さなクラブ“M”があって、ここで晩年の吉行淳之介さん(1924~94年)に何度かお会いできたのは真実好運だった。小さなクラブなので客同士で話し合うことも多い。
「今年のタイガース、なにを楽しみにしたらいいのかね」
 端整な面差しから発せられる声もつきづきしい。吉行さんは阪神タイガースのファンであり、私が同類であることを知っていらした。
「掛布ですかね、やっぱり」
「うーん。脇役がもう少ししっかりしないとな」
 少し間があって、急に、
「対談なんかでも編集者とか、膳立てをする人が大事なんだよ」
「はあ」
「黙って聞いているんだけど、話し手が当人も気に入ってることを話したとたん、少し笑ったりする、これで話すほうは調子が出る」
 吉行さんは対談の名手だった。こんな脇役にも目を配っていたのだろう。この言及は私にとってもその後の役に立ったような気がする。
 吉行さんはまたエンターテインメントにも関心が深く、
「最近、おもしろい小説、ある? ひたすらおもしろいやつ」
 と問いかける。私はいくつかを緊張して答えたはずだが、それが役立ったかどうか確かめる機会はなかった。急な訃報に接し、どこへ車を走らせたらよいのか戸惑ったことが心に残っている。

 阿佐田哲也さん(色川武大 1929~89年)もこのクラブの奥にどっしりと座していることが多く、代表作の一つ『麻雀放浪記』が映画化され、ヒットした時にはおおいに盛り上がった。笑顔が豪快だった。
 それとはべつに深く心に残っているのは向田邦子さん(1929~81年)が台湾の飛行機事故で亡くなったときのこと。
「絶好調のとき、あんな危ない飛行機になんか乗っちゃあいけないんだ」
 と断言する。
 確かにあのころ向田さんはみずみずしい名作を次々に発表し将来を嘱望され、鰻登りの人気を集めていた。そんなときこそ人生は魔が差したりして……と、ギャンブルの名人が呟いたのだ。
「そうなんですか」
 噓か真か、微妙な説得力が感じられ、ずっと私の記憶にこびりついている。もう私には絶好調などありえないし、死神も興味を持たないだろうけど、読者諸賢は、お気をつけあれ。

 星新一さん(1926~97年)とはいろいろな機会に深く短かく接した。印象深いのは講演旅行。出版社の主催で、地方鉄道の座席に向かい合って坐ったりもした。
「雀がいるね」
 窓の外の田畑を眺めながらショートショートの名人が呟く。
「はい?」
「しかし、もっと多くてもいいな。餌は山ほどあるし、居住スペースも充分にある」
「はい」
「セックスが下手なのかな」
 まじめに呟くのがおもしろかった。仕事の話が多く、
「ダール、ダールって言うけど……」
 突然言い出す。
「はあ」
 短編ミステリーで際立つロアルド・ダール(1916~90年)についてである。
「本当に凄いのは三つだな」
「そうですね」
 頷いたが、なぜか私の記憶はここで途絶えている。星さんは同じようなことを、これはパーティの会場だったが、もう一度、
「ダール、ダールといっても五つだな、本当によいのは」
 先には「三つ」と言い、今度は「五つ」である。私にとってもダールは名人と絶賛する作家だが、確かに名作は多くない。つまらない作品も散見される。星さんと似た考えをもっているが、本当によいのはいくつなのか、三つなのか、五つなのか、それが何なのか、聞きそびれてしまった。そのまま星さんは天の星になってしまった。
 ──「南から来た男」は入るだろうが、あとはなにかな──
 星さんの好みを、名手のミステリー観を推察するうえで役立つ指摘だったろうに。これもまた残念である。

 私よりずっと若いのに先に逝ってしまった藤原伊織さん(1948~2007年)は『テロリストのパラソル』で江戸川乱歩賞と直木賞を同時受賞した俊秀だった。将来を充分に期待されていたのに……本当にくやしい。直木賞が決まった夜、一緒に酒を飲んだ。伊織さんは少し飲んだだけなのに急に椅子から滑り落ちて床にゴロン、そのまま立ち上がれない。同じく直木賞を受けて同行していた小池真理子さんが驚きながら優しく介抱していたのが懐しい。伊織さんは、あのころには珍しくなっていた無頼派。都会的で、インテリで、ユニークな人柄だった。小説には無頼も一流派だ。新しい文学を創る気配を漂わせていたのに……この人も懐しく、くやしい。

 井上ひさしさん(1934~2010年)とは互いに充分に若いころに知り合った。ある週刊誌が世相をユーモラスに皮肉るページを創ろうとして私達二人に声をかけた。先にも触れたが、このころ井上さんはNHKテレビの『ひょっこりひょうたん島』の脚本創りなどで人気を集めていたし、私は『ブラック・ユーモア入門』を上梓していた。雑誌のページはすぐに消えたが、私たち二人は編集会議の前にたっぷり待たされ、話し合うことができた。これが縁で顔見知りにはなったが、なにしろ井上さんは忙しい人であり、酒を飲まないから「一ぱい、どう」という交際はない。文学賞の選考会で委員として顔を合わせ話し合うのが(これはたくさんあった)親しい交友だった。
 星流れ時移り二〇〇三年の春に井上ひさしさんが日本ペンクラブの会長に選任されたとき私は専務理事を依頼され、近しく会長を補佐することとなった。それから四年間、しばしば顔を合わせたが話題はほとんどペンクラブの運営について。文学賞選考会などがおこなわれたあと、会場となった一流料亭の小部屋で、本来なら訳ありの男女が親しみ合う四帖半なのだろうが、わたしたち二人は「予算が足りません」「なんとか寄付を願えないかな」とお茶をすすって悩むばかりだった。
 それでもペンクラブが地方で講演会などを主催するとき「いっしょに行きましょうよ」「はい、はい」新幹線の車中などでは気軽に会話することもあった。優れた見識を持つ人だった。そのうちの一つ、知る人ぞ知ることだが、とてもすばらしい見解なのでここに紹介しておこう。
「どうしたらよい文章が書けますか」
 才筆の答えていわく、
“むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに”書くのがよい、と。
 至言である。書くことばかりではなく思索そのものにもこのルールは大切だろう。
 井上さんの書く文章には、この言葉が実践されていたし、私も及ばずながらいつもこれを考えてきた。年を取り、実践はともかく、ますますこの感は深い。
 晩年のことである。井上さんが親しむ旅荘“K”が山形にあった。井上さんは女将と親しく、時々さまざまな相談を持ちかけられていた。美形で名高いこの女将を、私も少しく知っていた。
「今度、相談に乗ってあげてよ」
 と井上さんは私に言うのである。
「えっ?」
 もしかしたら井上さんは、あのころ自分の健康が思わしくないことを案じていたのかもしれない。いや、いや、ただの軽口だっただろう。でも数年後に井上さんとの切ない惜別が本当に起こり、その直後、たまたま私が旅荘“K”を訪ねると、女将より一筆を求められた。人生相談ではなかったが謹んで、

 のちなり
 にさくはなも
 たかたの
 にしとしれば
 たすらに
 りゆくきみを
 のぶこよいぞ

 そこで焼く器に刻んだ。
 もうあの“K”を訪ねることもあるまい。女将にまみえることもないだろう。井上さんのみならず、皆さんに会いたい。あの世を信じない私だが、
 ──会いたいなあ、あの人に──
 歌謡曲の一節のような願いだけが漂っている。

(あとうだ・たかし)

波 2025年11月号より

90代の歩き方

阿刀田高黒井千次

同じ高校の先輩・後輩として互いを知った日から70余年。ともに老境を迎えた二人の作家が悩ましくも新鮮な90代のリアルライフと、来し方行く末を語ります。

阿刀田 この対談を読んでくださる方に最初に申し上げますと、黒井さんは私にとって、単なる文学の世界での先輩というだけではないんですよ。私が都立西高等学校の一年生だった時、三年生にいらした本当の先輩なんです。しかも、私のいとこが黒井さんと同学年で大変親しくしていた。

黒井 そうそう、彼から「今度入った阿刀田っていうのは俺のいとこだ」と聞いた、それがもう七十年以上前のことになるんだなあ。

阿刀田 もう一つ、黒井さんの奥様である千鶴さんと私が同級生だったというご縁もあります。ちょうど私たちの学年から本格的な男女共学になって、女子が一気に百人も入った。男ばかりの上級生たちは色めきたって、一年生の授業が終わるのを教室の外で今か今かと待っていたりして(笑)。

黒井 一学年四百人の中に女子が百人も入れば、そりゃ、いろいろ忙しいですよ(笑)。

阿刀田 女生徒の方も同級生の我々には目もくれず、上級生に夢中で、黒井さんは憧れの的でしたね。今でも同窓会で女性たちから「長部さん(黒井さんのご本名)はどうなさってる?」と訊かれます。覚えていらっしゃいますか、私たちが入学してほどなく、共同募金を集めるために街頭に立つかどうか議論する集会があったことを。

黒井 ああ、ありましたね。

阿刀田 私などは募金は良いことだからやればいいと単純に思っていた。ところが、この募金は政府の社会福祉の財源になる。つまり政府の手先になるのと同じだという意見が出て大論争になった。議長の黒井さんがなんとか収拾しようとするところへ、千鶴さんが「議長!」と鋭く手を挙げ、「中途半端に場をまとめるのはいけないと思います」と堂々意見した。

黒井 そんなことがあったかな。

阿刀田 はっきり覚えています。黒井さんは壇上から降りて「議事が混乱しているんだから、これ以上長引かせないように」と笑顔を交えて千鶴さんをなだめ、それを見た上級生たちは、やんやの大騒ぎ。すごい学校に来ちゃったなと圧倒されたものです。あの頃から、どうもお二人は怪しかった。

黒井 まあ、その少し前から関わりはあったんですが(笑)。

阿刀田 今日はそんな時代から敬愛する先輩に、私の本のことでおいでいただいて恐縮です。

黒井 本当に面白く拝読しました。年寄りが先達の書き残したものに学んだり、年を経て変化する世界観を書いた本はこれまでもあったけれど、この本は、あっちへはみ出し、こっちへはみ出ししながら、日々の思案を緩やかに綴って型にはまらない。しかも、あとがきの後に、共に歩んできた協力者たる奥さんを亡くし、本当のひとり暮らしになったという文章が置かれて終わる。この構成も非常に珍しいですね。

阿刀田 本の作業が始まった時点では家内は介護施設で存命でしたし、私もひとり暮らしとは言いながら、別の場所にいる家内を意識して書いていたんです。ところが家内が亡くなり、そのことを書くかどうか、正直迷いました。でも、まぎれもなく私の身の上に起きたことですし、九十歳にはこうした別れもありうる。それで最後に少し文章を加えることにしたんです。

黒井 奥さんは長く患っていらしたのですか。

阿刀田 レビー小体型認知症にパーキンソン病を併発していました。2021年の正月に、旅先でヒステリーともいえない異様な興奮状態になり、以来、突如、手が付けられない状態になることを繰り返しまして。二年ほどは私が家で見ていましたが、ある時介護方面の識者に相談したら「この家は危機的状況です。半年後にはあなた自身が駄目になりますよ」。確かに限界は近づいていました。そこで騙すようにして家内を近所の施設に入れたんです。

黒井 それは致し方ないことですね。

阿刀田 施設からは「奥さんにかつて別の居場所があったことを思い出させないように」と、三カ月間、面会を禁じられました。その間に家内はそこが自分の居場所だと呑み込んで、のちには穏やかに「ここは割といいところね」なんて言ってましたね。私と会うのを何より楽しみにしていましたから、絶対に家内より先に死ぬわけにはいかない。そう気を張って暮らしておりました。今は肩の荷がおりて、いつ死んでもいい心持ちでおります。

七十代は老年期の青春時代

阿刀田 とはいえ、今すぐ死ぬ予定もないので、もう少し老いと付き合うことになるでしょうね。黒井さんは七十代からずっと自らの老いを見つめてエッセイを書き続けておられるでしょう。拝読すると、八十代と九十代で老いの様相は違うように感じました。

黒井 違いますね。ごく単純に言えば、少し前までできていたことがある時突然できなくなる。これまで意識すらしていなかったちょっとした段差が、突然上がれなくなったりする。今思えば七十代は老年期の青春でした。どんな悪いこともできた気がする(笑)。

阿刀田 洋服を脱ぎ着するのにやたら時間がかかるという話は大いに共感しました。そしてカフスボタンがはめられない。ネクタイの結び方を忘れる。

黒井 転倒して顔を強打する。浴槽から立ち上がれなくなる。そのたびにショックを受けるわけですが、だからといって嫌だというわけでもない。新鮮なんです。できなくなった自分を発見することに新鮮さを覚えるんです。

阿刀田高

阿刀田 私は記憶が怪しくなってきました。脳みその中に海馬という司令塔のような部位があって、どうもこの海馬が私の意思に反して記憶を処分しているらしい。戦争中の大本営みたいに司令部が暴走して、昔親しくしていた女性の名前なんかを「もう必要ないだろ」と勝手に消している。

黒井 阿刀田さんは海馬の仕業に気づくことができた。そういう意味では、老境というのは衰えていろんなものが失われる時期であると同時に、新しいものが次々手に入ってくる時期でもある。老いはむしろ豊かなことだと考えれば、新しい展望が開けてきます。

阿刀田 それは素敵な考え方ですが、どうでしょう。九十五歳を過ぎたら「発見だ」「豊かだ」とは言っていられなくなるんじゃないか。そんな予感がしています。

黒井 たしかに今はかろうじて「なんとかやれるだろう」「やれたぜ!」というラインで踏みとどまっているけれど、これが全くできなくなった時には、改めて人生を考え直さなきゃならないだろうなとは思います。しかし、あなたの本を読んでいると、作者がだんだん年を取っていくと感じる反面、年寄らず依然として残っている部分にそこはかとない凄みがありますね。たとえば言葉遊びのセンスや驚異的な記憶力。それらはおそらく海馬をくぐり抜けて残るんじゃないかな。

阿刀田 どうも役に立たないことばかり覚えているんですけれど。

黒井 いや、だって客室に源氏物語の帖名をつけてる旅館で「篝火」の間がないことに気づくなんて凄まじいもの。眠る前に源氏五十四帖の名前を「桐壺」から順に数えるんでしょう?

阿刀田 入眠療法としてやっているだけで……ストーリーをたどれば思い出すのはさほど難しくないんです。

黒井 まあ、そうなのかもしれないけれど、百人一首やいろはかるたまで自然に出てくるのは普通じゃないでしょう。読んでいて本当にびっくりしたし、かつ非常に快かった。こんなおじいさん、なかなかいないよ。特別な老人ですよ、阿刀田さんは。

作家になるために必要だった時間

黒井 僕は博覧強記の作家・阿刀田高にとって、国立国会図書館に勤めたという体験はやはり特筆すべきことだった気がしますね。何年勤めました?

阿刀田 十一年です。

黒井 もし図書館に勤めていなかったら、たとえば学校の先生や出版社の編集者だったら、阿刀田高の人生はだいぶ違ったんじゃないかな。

阿刀田 そう思います。入ってすぐに、納本される大量の書籍を分類して番号を振る係に配属されたんですが、これは得難い経験でした。なにせ、この世のほとんどすべての学問分野や知識世界が目の前を通過していくんですから。この係を五年やって広く浅い知識が身につきましたし、図書館員は物事を深くは知らなくても一通りのことが分かっていれば事足りるんだと開き直る基盤ができた。それが古典をダイジェストする「知っていますか」シリーズに生きた気がします。
 黒井さんは高校生の時から作家になることを考えてらしたんですか。

黒井千次

黒井 そうですね。高二の時だったか、旺文社の受験雑誌「螢雪時代」で学生懸賞小説募集の広告を見て軽い気持ちで書き始めました。「俺には恋人がいない」という一文で始まる男子生徒同士の恋愛小説。これが思いがけず二席に入った。初めて自分の原稿が活字になったんです。入選したことはもちろん、選評で「今回の応募作の中で一番文学的才能があると思われる」と選考委員の評論家に書かれたことが大変嬉しく励みになりましてね。そのあたりから作家を志すようになったんです。

阿刀田 その懸賞の話は初めて聞きましたが、私は高校時代から黒井さんはやがて小説家になる人だと思って眩しく見ていましたよ。今でも同人誌のお仲間と集まりますか?

黒井 さすがになくなりました。ちょっと前までは年末に集まったりしていましたが、今はっきり生存が確認できているのは十一人のうち三人だけです。

阿刀田 年賀状は書いていらっしゃいますか。

黒井 もうやめました。

阿刀田 そうですか。生きているぞという証明を兼ねて私はまだ書いているんですが、律儀だった人が急に年賀状を寄越さなくなると何か悪いことがあったんだろうなと思ってしまう。問い質すわけにもいきませんし。

黒井 そういえば年賀状は書かないけれど、ある時、ちょっと仲間の名前を書いてみようと思ってペンを動かしたら、十一人全員のフルネームが漢字で書けたんですよ。これには自分でも驚いちゃった。それだけ体に沁み込んでいたというのか、大人になってからの知人友人とは別の場所で記憶していたようです。単に僕の海馬が発育不全なのかもしれませんけれどね。

黒井千次と阿刀田高

リビングの壁より愛をこめて

阿刀田 それにしても、肺結核を患って療養所にいた二十歳の頃は、この歳まで生きてるなんて考えもしなかったな。姉を結核で亡くしてますから、自分も死ぬものだと思っていた。百八十四本打ったストレプトマイシンが意外な効能を発揮しているのかも(笑)。
 黒井さんは死についてはどう考えますか。

黒井 シですか?

阿刀田 はい。ポエムじゃなくてデスの方です。

黒井 急なデスは困りますね。それなりのシタクは必要だろうから──。

阿刀田 五年ほど前に銀行の勧めで公正証書遺言というのを作ったら、今回、家内の通帳だの保険だのの始末を銀行がすべてやってくれました。これは非常に便利です。お勧めです。

黒井 それはいい。死に伴う事務的側面は残された家族を圧迫しますから。

阿刀田 私は墓はいらないけれど、私の骨と家内の骨を混ぜて砕いて、おまえたちの家のリビングの壁に塗り込めてよと子供たちに言ってるんです。家族団欒の場に一緒にいられるじゃないかと(笑)。

黒井 それはおかしいね。面白いというのかな。どうしてそういうことを考えつくのかな。

阿刀田 でも、クールな家族なので、気味が悪いとか、引っ越しする時はその壁どうするんだとか、他人ごとみたいにあしらわれています。話は飛ぶけどみんな親切で、最近はバスに乗ると席を譲ってもらうことが多いんですよ。立っていても大丈夫なくらいの距離なんだけれど、でもそういう親切は身体より心が嬉しいですね。

黒井 それは嬉しくなりますね。そんなことを大切な頼りにしながら、僕たちも、もう少しはまあまあやっていけるんじゃないかな。

阿刀田 そうですね。まあまあやっていきましょう。

(あとうだ・たかし)
(くろい・せんじ)

波 2025年10月号より

著者プロフィール

阿刀田高

アトウダ・タカシ

1935年、東京生まれ。早稲田大学文学部卒。国立国会図書館に勤務しながら執筆活動を続け、1978年『冷蔵庫より愛をこめて』で小説家デビュー。1979年『ナポレオン狂』で直木賞、1995年『新トロイア物語』で吉川英治文学賞を受賞。2018年には文化功労者に選出された。短編小説の名手として知られ、900編以上を発表するほか、『ギリシア神話を知っていますか』をはじめとする古典ダイジェストシリーズにもファンが多い。

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