それは『深夜特急』が出版される三カ月ほど前のことだった。
渋谷に出たついでに、駅の近くの書店に寄った。いつものようにぼんやり平台を眺めていた私の眼に驚くような表紙の本が飛び込んできた。
それは装丁にフランスの有名なグラフィック・デザイナー、A・M・カッサンドルの「北方急行」というポスターを全面に用いたものだった。
私は、はじめ呆然とし、次にがっかりし、しばらくして気を取り直すとその本を買い求め、新潮社の編集者である初見國興氏に電話をした。
「残念ながら、僕たちの『深夜特急』にカッサンドルを使うことはできなくなりました」
そう言って状況を説明すると、初見さんも大いに驚き、さっそく平野甲賀氏に連絡を取って一緒に善後策を練ることにしよう、と言った。
実は、産経新聞に連載していた『深夜特急』を新潮社から出版しようということになったとき、担当者の初見さんは、装丁にはこれを使おうとカッサンドルのポスターを見せてくれていた。それは私にも『深夜特急』というタイトルにふさわしいもののように思え、装丁を引き受けてくださった平野さんも、これはいいと言ってくれていた。しかし、それと同じものが、直前に別の本に使われてしまった。さすがにそれを使うことはできない。どうしたらいいだろう……。
その数日後、私と初見さんは、いささか打ちひしがれて、新潮社の会議室で平野さんの来るのを待っていた。
平野さんが部屋に入ってくるや、私はせっかちに、これなんですけど、と買い求めた本を取り出した。
すると、平野さんは、ちらっとその本の装丁を見ただけで、言った。
「別に問題ないよ」
それは意外なほどあっさりとした物言いだった。
「大丈夫ですか?」
私が信じられないというような口調で訊くと、さらにあっさりと言った。
「気にすることはない。これでいこう」
平野さんが問題ないと言っているのだ。信じるしかない。しかし、私にはどこかにまだ不安が残っていたような気がする。
だが、それからしばらくして初見さんから送られてきた平野さんの装丁を見て、まさに「あっ」と声を出しそうになった。
カッサンドルのポスターはカヴァーの左半分にしか見えず、残りの半分は袖に送り込まれている。そして、カヴァーの右半分には平野さん独特の描き文字で「深夜特急」というタイトルが大きく配されている。カッサンドルのポスターは重要な素材として使われているが、明らかに平野甲賀のデザインになっている。それも胸が躍るようなシャープさと力強さで。先行する本の装丁とはまったく質の異なるものであり、間違いなく「問題」もなければ「気にする」必要もないものになっていたのだ。
この『深夜特急』が若い読者に好意的に迎え入れられた大きな理由に平野さんのデザインがあったのは間違いない。
いや、『深夜特急』ばかりではない。私にとって、文藝春秋から出すことになった二冊目の本である『敗れざる者たち』も、新潮社から出すことになった三冊目の本で、装丁に関していくぶん自分の意思が通せる状況になった『バーボン・ストリート』も、いずれも装丁は平野さんにお願いしてほしいという希望を出した。
とりわけ、『バーボン・ストリート』は思いがけなくも「講談社エッセイ賞」なるものを受けることになった。その選考委員のひとりであった井上ひさし氏は、《「ニューヨーカー」に載っても堂々と通用しそうな》という、いささか「過褒」といってよいような選評を書いてくださったが、そんな「錯覚」を生んでくれたのも、挿画を担当してくれた小島武氏の都会的な線画と、装丁をしてくれた平野さんのデザインの力に負うところが大きかったと思えてならないのだ。
平野さんは、装丁をすると、私が本の完成後に編集者と行うことになっている「打ち上げ」に必ず参加してくださった。私にとっては、そこにおける酒席が、平野さんとの私的な付き合いのすべてだった。とはいえ、単行本だけでなく、文庫本のときも必ず御一緒していただいていたので、かなりの回数になる。
中でも、忘れられないのは『バーボン・ストリート』に続く『チェーン・スモーキング』の文庫本のときの「打ち上げ」だ。挿画を描いてくれた小島さんも参加しての賑やかな会だった。
乾杯のグラスを上げたあとで、私はあらためて平野さんに『チェーン・スモーキング』の装丁に関する感想を述べた。
単行本のカヴァーは、小島さん独特の線画だったが、文庫本のカヴァー用に描き下ろしてくれたのは鮮やかな色を使った彩色画だった。しかも、その絵は無理にタイトルや著者名を入れるとバランスが崩れてしまうという微妙な構造になっている。
考えてみれば、『バーボン・ストリート』の文庫本のときもそうだった。小島流の線画に色を塗り、わざとデザインをしにくくしているのではないかというような絵を描いていた。しかし、そのときはまだタイトルや著者名を置けるような小さな空間が用意されていたが、この『チェーン・スモーキング』の絵には、その「小さな空間」すらないのだ。
どのように装丁するのだろうと楽しみにしていると、ほんのわずかな余白にタイトルと著者名を置くという、まさに綱渡りのような技を見せてくれることになった。
それは、平野甲賀でなければできないような、あるいは平野甲賀でなければ許されないようなアクロバティックな装丁だった。
「よく、あんな装丁ができましたね」
私が感嘆すると、平野さんは決して不快そうではなく、しかしことさらぶっきらぼうに言った。
「あそこしかないだろう」
と、二人のそのやりとりを聞いていた小島さんが、いかにも嬉しそうに高らかな笑い声を上げた。
そのとき、私は理解したのだ。これは「名人」同士の「遊び」なのだなと。いや、「遊び」というより、もう少し真剣な「勝負」だったのかもしれない。いずれにしても、小島さんが投げた渾身の変化球を平野さんは見事に打ち返した。小島さんにはそれが嬉しくてたまらなかったのだ。
一年ほど前、ある雑誌で『深夜特急』に関するインタヴューを受けることになった。
それには著者の写真が必要だということで、渋谷にある少し変わった書店で撮影が行われた。
撮り終わったあとで、あらためて紹介してもらうと、カメラマンが平野さんの子息の平野太呂氏だった。
その偶然に驚いた私は、なんだか嬉しくなって、太呂さんにこう口走ってしまった。
「近いうちに小豆島に行こうと思っているんですよ」
平野さんが七、八年前に小豆島に移住したということは聞いていたが、いつか近くに行ったときに寄ってみようと思いながらなかなか果たせないでいたのだ。
私が言うと、太呂さんは少し申し訳なさそうに応じてくれた。
「それが最近、小豆島から高松に引っ越しましてね。車の運転ができないもんですから、移動に不便らしくて」
それを聞いて、もっと早く小豆島に行っておけばよかったと後悔したが、太呂さんとは、では高松に行ってお会いすることにしますと言って別れることになった。
あるいは、その高松への引っ越しには健康上の問題もあったのかもしれない。
今年の二月、平野さんの夫人でメディア・プロデューサーの公子さんからメールが届いた。
永年、遺族から預かっている小島武作品の回顧展をようやく開くことができるようになった。ついては、未刊の『小島武作品集』のために書いた沢木さんの推薦文を使わせていただけないだろうか、というのである。
私は、もちろん、と答え、それ以外にお役に立つことがあればなんなりとお申し付けくださいと返事をした。
それでやりとりは完結していたのだが、もしかしたら何らかの打ち返しがあるかもしれないと思っていたので、何も返事がないことに軽い不安感を抱いていた。
すると、三月に平野さんの訃報が届いた。
いまでも、書店で『深夜特急』のカヴァーを見かけることがあると、その装丁の変わらぬ新鮮さに胸が熱くなったりする。
(さわき・こうたろう ノンフィクションライター)
波 2021年5月号より