波 2025年12月号

追悼エッセイ

紙切り虫 林家正楽と二楽/吉川潮

寄席で最も愛された色物芸人、そして彼に複雑な思いを抱いた弟弟子。芸人小説の第一人者が愛惜を込めて追想する──。

林家正楽と林家二楽

 その紙切り芸人の高座を初めて見たのは、四十五、六年前と記憶する。新宿の末広亭だった。強面で不愛想、芸人っぽくなく、気難しい職人みたいな風貌である。芸名を林家一楽(後の三代目正楽)といった。
「まずはハサミ試しに相合傘を」と、白い長方形のケント紙をハサミで切り始めた。お囃子に合わせて体を前後に揺らしながら切る。あっという間に出来上がり、切り抜いた物を黒のケント紙の上に乗せて客席に見せる。着物姿の男女が傘をさしている形で、客席から拍手が起こった。
「切り抜いた残りも同じ形になります」
 こんどは黒い影絵のように見える。
「こちらは抜け殻とか残骸などと言わないで、『B面』と呼んでいます」
 と笑わせた後、「欲しい方がいらっしゃいましたら、差し上げます」と言うと、客席の一番前に座った客が手を挙げて、A面、B面両方とも受け取った。
「それでは、お客様からご注文を頂いて切ります」
 言ったとたん、客席から「藤娘!」、「土俵入り!」、「お花見!」といった声が飛ぶ。いずれも紙切りをよく知っている客であろう。歌舞伎舞踊、相撲取り、季節の風物詩など、定番の注文である。一楽は「藤娘」を切りながら、こんなことを言った。
「この間、『ご注文は?』と聞いたら、『とりあえずビール』と言ったお客様がいました」
 笑いが起こる。
「体を少ぉしだけ揺らしながら切ります。近頃では紙を持っただけで、反射的に体が揺れます。職業病です」
 見事な「藤娘」が出来上がり、注文したお客に手渡した。次は「土俵入り」だ。
「『なんでも切ります』と言ったら、一番後ろに座っていたお客様が、つかつかと高座に近づいてきまして、手に売店で買ったおせんべいの袋が乗ってる。『袋がなかなか破れないから、ハサミで切ってくれ』と言われました」
 笑っているうちに「土俵入り」が出来上がった。
 その当時、私は報知新聞に演芸関係のコラムを寄稿する駆け出しの評論家だった。高座を見て間もなく、一楽を取材する機会を得た。私は寄席の音曲師、柳家小菊と所帯を持っていて、小菊と一楽は同じ落語協会の色物芸人である。私が連れ合いなのを知っていたようで、会ったとたんにこう言われた。
「小菊ちゃんが結婚したというんで、相手はどんな奴かと思ったら、あなただったの」
 なにせ強面だから、ちょっとたじろいだ。しかし、その後の言が良かった。
「おいら、小菊ちゃんが好きだったんだ」
 その言い方がさっぱりしていて、笑みを浮かべていたので親近感を抱いた。同じ1948年生まれ、音楽や映画など共通の話題もあって話が弾み、一楽はよく笑った。高座では見せない笑顔である。最も敬愛する落語家が共に立川談志ということで握手を交わした。
 以来、親しく付き合うようになる。楽しみなのが年賀状で、その年の干支が黒い紙で小さく切られ貼ってあった。そして、前年に注文を受けたお題の数ベストテンが記してある。どんな人物が、どんな社会現象がトレンドだったのかわかった。
 一楽は目黒区内で生まれた。サラリーマンの家庭で、小学生の頃からラジオで演芸番組を聴き、中学時代に親にせがんで末広亭へ連れて行ってもらった。小石川工業高校に進学後は一人で寄席通いをする。高校を卒業後、カメラ関連の会社に就職したが、レンズを磨く仕事が不得意で転職を考えていた折、末広亭で林家小正楽(後の二代目正楽)の高座を見た。その時、神様が降りてきて、「お前は紙切りをやるんだ」と言われたような気がしたという。天啓である。
 すぐに小正楽の住所を調べ、埼玉県春日部市のお宅に手紙を出すと返事が届いた。「まだ弟子をとる身分じゃないけど、紙切りを教えるだけならいいですよ」とあった。
 二代目は好人物である。先代林家正蔵(後の彦六)に弟子入りしたものの、春日部なまりが強いため落語家を断念し、初代正楽に師事して紙切り芸人となった苦労人だ。
 紙切りの修業は馬で始まる。師匠が切ったお手本を渡されて、同じ形に切ることから始める。何十枚も切る。ようやくお手本に近い物が切れると、こんどは走っているところ、歩んでいるところと、様々な形の馬を切る。馬の次が牛、虎、ウサギなど十二支の動物なのは、干支が寄席でよく注文されるからだ。十二支すべて切れるようになると、ライオン、象、ゴリラといった動物園でお馴染みの動物たち。それぞれが特徴のある動きをするので、紙切りの稽古にはもってこいだ。動物が修了すると、ようやく人物に移れる。
 稽古に時間を割くため会社を退職し、早稲田大学生協書籍部でアルバイトを始めた。本に囲まれる環境なので、紙切りに役立ちそうな知識を書籍から得た。
 1967年、小正楽が二代目正楽を襲名。正式に弟子を取ってもいいと考えたのか、三年後に林家一楽という芸名をもらった。しかし、すぐ寄席に出られたわけではない。しばらくは地域寄席やデパートの屋上の演芸会、キャバレーのショーなどの仕事をこなした。
 1975年、晴れて落語協会の正会員となり、末広亭で初高座を果たす。
 1980年当時、改築前の池袋演芸場は老朽化したビルの三階にあって、お客が少ない端席として知られていた。立川談志はその端席を好んで、年に何度かトリを取った。そこで一楽は「談志の洗礼」を受ける。
 初めて談志師匠のヒザ代わり(トリの前の色物)を務めた時のことだ。当時の談志は、テレビ、ラジオ、映画に出演する超売れっ子で、しょっちゅう寄席の出番に遅刻していた。その夜は、映画の撮影が延びて四十分遅れるという連絡が楽屋に入った。談志には、「ヒザはトリが遅れていることを客に気づかせずにつながねばならない」という芸人美学がある。しかし、一楽は長い時間つなぐのは初めてなので、汗をびっしょりかきながら三十分以上も切り続けていれば、客は「談志、まだ来てないな」と気づく。それでも、ひたすら注文を取って切るしかない。
 舞台袖の前座から、談志が楽屋入りしたという合図があって、最後の一枚を切り終えた時には魂が抜けたような状態だった。
 高座を降りた一楽に、着替えを終えた談志が微笑みながら「ありがとう」と声をかけた。一楽はその一言で報われた。それだけでなく、終演後、談志の行きつけのバーでごちそうになった。
 談志は1983年、落語協会を脱会し、立川流を旗揚げ。自ら「家元」を名乗る。以来、寄席に出なくなったので、一楽と同じ高座に上がる機会はなかったが、気に掛けていたことは後になってわかる。

師匠の息子で、弟弟子

 1988年、一楽は師匠の前名、小正楽を襲名する。落語協会に入って十四年目だから、真打に昇進したようなものか。二楽の入門はその翌年である。彼の高座を見たのは鈴本演芸場だった。二代目正楽の次男なのは知っていた。兄弟子と芸風が違うのは一目瞭然だ。小正楽が強面で不愛想なのに対し、二楽は愛想が良く、父親ほどではないが、ちょっと春日部訛りがあるおしゃべりが愛嬌になっている。既に真打格の小正楽と比較するのは可哀想だが、ハサミ試しの「桃太郎」はともかく、注文された物を切るスピードと出来上がりは、明らかに劣っていた。小正楽は速くて上手い。二楽は1967年生まれでまだ二十代。しかたないことである。
 二楽は小学生の頃から父親のお供で寄席に出入りして、客席の一番後ろで見ていたという。お客の注文で切った作品を見せるたびに客席が「おー」とどよめくと、子供心に、「お父ちゃんって凄いんだ」と感服した。
 父親は長男を跡継ぎにするつもりで稽古をつけていた。二楽はその中に入りたくて、「僕にも切らせて」とねだった。父親は、「これからはアニメの注文が増える」と、長男にサザエさんを切らせていた。二楽が、「僕は波平を切る」と切って見せたら、「ここはこうしたほうがいい」と直してくれた。仲間に入れたみたいで嬉しかった。
 ただ、高校生になると紙切りから離れた。「寄席はダサいぜ」などと生意気を言うようになって、友達とパンクロックのバンドを組んでベースを弾いていた。高校を卒業して何年目かに、小さなライブ会場に出た際、客を驚かせてやろうと、演奏の合間に、「お前らに凄いもの見せてやる」と、持参したハサミと紙を出して、ウサギを切ったら、パンクの恰好をした若者たちが、「おー、ウサちゃんだぜ」と感心し、拍手喝采だった。その時、「自分のやりたいことは、どんなジャンルでもいいから、客の前で何かをして喜んでもらうことではないか」と認識した。
 当時、兄が紙切りより落語をやりたいと、先代桂小南に弟子入りして、南楽の芸名で二つ目になっていた。弟の心に、「自分が継がねば」という使命感が芽生えたのは当然とも言える。バンドは趣味で、プロになる気もなかったのですっぱりあきらめ、父親に、「弟子になりたい」と志願した。
 1989年、正式に弟子入りして二楽を名乗る。紙切りの稽古は兄弟子と変わりない。馬で始まり、十二支、その他の動物、そして人物という過程を経て、「勧進帳」の弁慶、「藤娘」へと進む。さらに、人気がある野球選手、力士、芸能人などを切り続けた。師匠に、「目についた物はなんでも切って持ってこい」と言われたので、毎日持って行くと、それを直してくれた。
 落語協会の前座として落語家といっしょに楽屋で働き、二年間の前座修業を終えると、師匠は自転車の練習に例えてこう言った。
「補助輪を取って一人で乗れるようになるまでは俺がちゃんと荷台を押さえてやる。乗れるようになったら、後は好きに走ればいい」
 その言葉通り、最初のうちは師弟で高座に上がり、二楽は一枚だけ切らせてもらっていた。
 小正楽の修業過程とはずいぶん違う。どちらがいいとは言えないが、二楽の育て方に正楽の親心を感じる。

ふたりが試みた道

 小正楽は襲名を機に、師匠と違った手法に挑んだ。切った物をスクリーンに大きく映すOHP(オーバー・ヘッド・プロジェクター)を使ったのだ。きっかけは太神楽の鏡味仙之助・仙三郎、奇術の花島世津子と勉強会を開いた時だった。寄席ではやらないことに挑む目的の会とあって、OHPを使ってみた。師匠は何度か使ったが、操作が面倒だとやらなくなっていた。
 OHPだから出来る新しい試みに挑んだ。一枚ずつ切って見せるのでなく、事前に形がつながった長い作品を切っておく。それは紙切りのパレードと思って頂くとわかりやすい。たとえば、ミッキー、ミニー、ドナルドダックなど、ディズニーのキャラクターがつながって影絵となり、エレクトリカルパレードのごとくOHPを通過する。次にサザエさん一家が全員通る。続いて様々な動物たちが連なる。次から次へと、その長さは数メートルに及んだ。
 私は鈴本演芸場でOHPを使った高座を見た。スクリーンに大きな影絵が映るので、客席後方に居てもよく見える。前方に居たら、細部まで見えたろう。ということは、より正確に綿密に切らねばいけないわけで、自らハードルを上げたことになる。
「風鈴」という季節ものが注文されると、軒端に風鈴が下がっている横で男女が夕涼みをしている情景を切った。大きく映るOHPだからこそ、プラスアルファの男女がよく見えるわけで、小正楽の芸は着実に進化していた。
 二楽もまた、師匠と兄弟子がやらない新たな手法を模索していた。試行錯誤の上に完成したのが「立体紙切り」である。通常は白紙を切るのだが、色紙を立体的に切って折り紙の要領で動物の形を作る。私が末広亭の客席に居た時、親に連れられて来ていた小学生から「カブトムシ」という注文があった。二楽は、茶色の紙を半分に折って左右対称に切ると、折り紙の要領で形を整え、カブトムシを折り上げた。もらった小学生が大喜びしたのは言うまでもない。
「もう一つ作りましょうか」と言うと、「カエル」の注文があった。こんどは緑色の紙で作った。そのカエルは今にもピョンと飛び上がりそうだった。以後、立体紙切りは二楽の売り物になった。
 さらに、兄の桂南楽(現・桂小南)と兄弟会を始めた。「落語と紙切りのコラボレーション」と銘打ち、兄弟が高座に並んで座り、兄が落語を演じる横で弟が、演じている噺の登場人物や情景を切って見せた。兄弟だからできた実験的試みである。ただ、どちらを見るにしても目移りして、成功とは言い難い。
 こういった二楽の活動を小正楽はどう思っていたのか。小正楽が私にぽつりと漏らしたことがある。
「あたしに何も言わないでやっちゃうんだよね」
 なんの相談もしない。アドバイスを求めることもない。兄弟子としては、何か新しいことをやるなら、事前に話してほしかったのだろう。相談されれば助言もできたと。ただ、二楽としては、誰の力も借りずに、兄弟子がやっていない新しいことに挑みたかったのかも知れない。
 二人は十九も年が離れている。一番弟子と師匠の実子。仲が悪いというわけではないが距離感があり、亡くなるまで微妙な関係が続いていた。落語家なら兄弟弟子が同じ寄席に出て、楽屋で談笑することがよくある。しかし、紙切りは同じ興行に二人出ることは絶対ない。落語家と違って一門会をやらないので、縁遠くなるのは必然であった。

フレディも談志も

 1998年7月2日、二代目正楽が亡くなった。享年六十二。二代目は生前から、跡目は小正楽と決めていた。キャリアが浅い実子でなく、一番弟子に継がせたのは二代目の見識である。
 2000年9月、小正楽は三代目正楽を襲名し、四十日間の披露興行でトリを務めた。色物芸人が定席でトリを取るのは、落語協会では半世紀ぶりであった。
 披露興行を何度も見に行った。お客の注文を切るだけでなく、OHPを使ったパレードの大作は、落語家が大ネタを演じたのと同じ満足感を得られた。ディズニーキャラクターのパレードはどの寄席でも大好評であった。
 襲名前から毎年クリスマスの夜に池袋演芸場で催していた独演会が、〈小正楽のラストクリスマス〉である。サンタクロースの恰好で登場し、クリスマスソングのBGMに合わせて切りまくる。私は毎年通ったが、一番驚かされたのが、後頭部に紙を当て、後ろ向きに切った時だ。どう切れているか、演者に見えない。ただ手の動きを頼りに、「クリスマスツリー」や「トナカイ」を切り上げた。神業としか言いようがない。
 この会は最後にパレードの新作を投映するのが売りで、今年はどんな大作が見られるかと楽しみに出かけたものだ。最も印象に残ったのは、「日本の祭り」と題した大作である。何台もの神輿と山車に続いて、東北のねぶた、竿灯が続き、岸和田のだんじり、博多の祇園山笠、長崎くんちなど全国の祭りが次々に現れる。最後は阿波踊りの大行列で、それは壮観であった。

OHPを使って紙切りを見せる正楽の高座

 襲名後、順風満帆だったが好事魔多し。四年後の9月、北海道旭川市の学校寄席の高座に上がっている最中、くも膜下出血の発作に襲われた。その時の感覚は、「頭の中でドカーンと花火が破裂した感じ」だったとか。高座を降りてすぐ近くの病院に行くと、くも膜下出血と診断され大学病院に緊急搬送された。そこにたまたま脳神経外科では名医と言われる医師が教えに来ていて、その先生が手術してくれた。いい場所で、いいタイミングで発作が出たわけで、強運としか言いようがない。
 術後の経過が良く、リハビリの必要もなく、短期間で高座に復帰できた。手が麻痺する後遺症が残らなかったことは不幸中の幸いであった。
 その後、正楽は落語協会の色物の看板として寄席に出続けた。寄席では思いもかけぬ注文がある。それに対応するため、正楽はいくつもの新聞と週刊誌を購読し、時事ネタや話題の有名人の写真を頭に入れた。
 クイーンのフレディ・マーキュリーを主人公にした「ボヘミアン・ラプソディ」という映画がヒットした2018年のことだ。鈴本演芸場で注文があったのを客席で見た。「『ボヘミアン・ラプソディ』というご注文を頂きました」と切り始めた。まるで動じる気配がない。果たして、出来上がったのは、フレディ・マーキュリーがスタンドマイクを持ち上げて歌うお馴染みのポーズであった。後日、正楽と会った際、「映画、見てたの?」と尋ねたら、意外な答えが返ってきた。なんと二十年前、南アフリカ共和国のケープタウンで公演した時に、「フレディ・マーキュリー」という注文があった。当時はクイーンもフレディも知らなかったので、舞台袖に居た日本人通訳に「それ、なあに?」と訊くと、「ロックバンドのボーカルで、口髭を生やし、よくスタンドマイクを持ち上げて歌う」と教えてくれた。その通りに切ったのを覚えていたので、映画を見ていなくても切れたという。
 二十年前に一度だけ切った形がインプットされ、たちまちのうちに切れる。これがプロフェッショナルの技なのだ。
 正楽は南アフリカ共和国以外にも十か国以上の国で海外公演を行っている。紙切りはビジュアルで言葉の壁がない分、外国人にも喜ばれる演芸なのだ。
 二楽はスライドを使った〈二楽劇場〉を始めた。例えば、桃太郎ならお伽噺通り、おじいさんが芝刈りに、おばあさんが川へ洗濯に行く場面を切って見せ、鬼退治までの物語を紙切りで進めていく。歌手やスポーツ選手の物語も切った。二楽の評価が高まっていた。しかし、どう頑張っても、正楽が上にいる。父親の名跡を継いだ兄弟子が「紙切りの第一人者」であり、二楽は芸名通り二番手だ。努力だけではいかんともしがたい壁。正楽がいる間は二番手に甘んじるしかない。そう思っていたなら、あまりに辛すぎる。齢が十九離れているから、兄弟子より長生きするしかないのか。
 私が1991年から二十年間プロデュースを続けた末広亭の三月余一会(大の月の三十一日に催す特別興行)、〈三派連合落語サミット〉では、毎回正楽に夜の部のヒザ代わりを頼んだ。従って、二楽が出たことは一度もない。使ってやりたいのはやまやまだが、昼の部は落語芸術協会の色物がヒザなので、二楽の出番はない。「なんで兄弟子ばかりなのか」と悔しがっていたかも知れない。
 正楽の出番を夜の部に限ったのは、酒好きの正楽に打ち上げの飲み会に出てもらうためである。機嫌の良い酒で、いつもニコニコしながら飲んでいた。そんな正楽を、同席した落語協会、落語芸術協会、立川流、三派の落語家たちは全員が敬愛していた。芸も人柄も。
 2011年に談志が亡くなり、翌年の余一会で立川流顧問の私が追善興行を催した。正楽に、「家元の姿をたくさん切ってよ」と頼んでおいた。談志は著書の『談志百選』で初代正楽を取り上げた際、三代目についてこう書いている。
「紙切り、という芸は最も寄席の色物らしい芸で大好きだがそれだけにセンスの悪い奴は嫌いだ。いっちゃあワルいがほとんどダメだ。けど一人小正楽だけはいい。こ奴も頭がいいのだろう、秋に三代目正楽を継ぐと聞いた。結構なこった」
 家元はどこかで正楽を見ていたのだ。
 その夜、正楽はいつものように「相合傘」を切った後、注文を取らずにOHPで、すでに切ってあった談志の姿を映し始めた。BGMにひばりの「川の流れのように」が流れる。まずは高座姿、そして横顔。「知らず知らず 歩いて来た 細く長いこの道」という歌に乗せて、次から次へと様々な談志の姿が映し出される。袴をはいた立ち姿、高座で丁寧にお辞儀をしているところ、洋服で歩いている談志。その数、なんと十数枚。新たな姿が映されるたび、客席から「おー」という歓声が上がった。
 楽屋から客席に回って見ていた私は、いつの間にか泣いていた。落語を聴いて泣いたことはあるが、紙切りを見て泣いたのは初めてだった。それは一枚一枚に、談志に対する敬愛の念を感じたからだ。私が知る「談志愛」と言うべきものである。
 急いで楽屋に戻り、高座を降りた正楽に「ありがとう」と言った。
「家元、どこかで見てたと思うよ」
「あたしも高座でそんな気がしてた」
 談志を愛する者同士、思いは同じであった。

評価の絶頂で

 その後、正楽の評価はますます高まった。2015年には当時の天皇皇后両陛下(現・上皇上皇后両陛下)の御前にて芸を披露。皇后様の御注文で「秋」と「子守歌」を切った。その直後に会った際、珍しく心情を吐露した。
「たまに、『俺ってこんなに上手いのか』と思うほど出来がいいことがあるのよ。そういう時はお客にあげずに自分で取っておきたい。反対に、出来が悪いのもあげたくない。捨てちゃいたい」
 その時、正楽は陶器や漆器を作る工芸家と同じで、しかも名工なのだと認識した。初めて高座を見た時に抱いた「芸人でなく職人」という第一印象は正しかったと。
 2020年、令和元年度芸術選奨大衆芸能部門の文部科学大臣賞を受賞。2023年松尾芸能賞功労賞と浅草芸能大賞を受賞。同年に五街道雲助が人間国宝(重要無形文化財保持者)に指定された直後、雲助をインタビューした際、「次の国宝は正楽さんになって欲しい」と意見が一致した。彼こそ色物芸人初の人間国宝にふさわしいと。
 ところが、翌2024年1月21日、出血性胃潰瘍で急死してしまった。二日前には末広亭に出演し、前日は船橋市での演芸会に出演していた。亡くなる直前まで仕事をしていたのは芸人として本望だろうと言う人もいるが、ファンとしては早すぎる死だ。友人としては無念でならない。せめてもの救いは、楽一という弟子を育て、すでに寄席の貴重な戦力となっていたことである。
 正楽が亡くなった翌月、二楽をインタビューした。兄弟子を亡くしたことで、彼が紙切りの第一人者になった。思うところを聞いたらこう宣言した。
「兄さんが健在だったからこそ、好き勝手ができたわけで、いなくなった今、紙切りを伝承する責任があたしに課せられたと思ってます」
 引き締まった表情に並々ならぬ覚悟を感じ取った。今後の二楽に期待するところ大であると。伝承ということでは、2017年に長男が弟子入りし、八楽の芸名で寄席に出ていた。頼もしい限りである。
 オフレコで、「四代目正楽、継ぐんでしょ」と聞くと、一瞬戸惑いの表情を浮かべた。「それは兄弟子のおかみさんの意向もありますので、まだわかりませんね」
 亡くなったばかりなので、襲名の話をするのは時期尚早と理解した。ただ私としては、是非とも継いで欲しかった。というのも、長唄三味線の師匠であった亡父が、人形町末廣で初代正楽に「勧進帳」を切ってもらった。私は大学生時代に二代目に池袋演芸場で「長嶋茂雄」を切ってもらい、さらに長男が小学生の頃、寄席に連れて行った際、三代目に「キン肉マン」を切ってもらった。二楽が四代目を継いだら、二人の孫を寄席に連れて行き、何か切ってもらうつもりでいた。正楽四代に切ってもらえば大いに自慢できる。
 その話をしたら、二楽は大いに喜んだ。「お孫さん、おいくつですか」と訊かれたので、「五歳と三歳」と答えたら、こぼれるような笑顔で、「小学生のうちに切ってあげたいなあ」と言った。それまでに襲名できれば、とでも思ったのだろうか。
「楽しみにしてるよ」と言ったのに、それから二年もたたない2025年9月27日、尿管がんで亡くなってしまった。享年五十八。父親よりも早かった。訃報に接し、最後に会った時の笑顔を思い出し涙が出た。
 あの世に行ったら、正楽と兄弟会を催し、一緒に高座に上がって同じ題で切って欲しい。それぞれがどんな形を切るのか、この世で私が見たかった紙切りの競演だ。
「一寸の虫にも五分の魂」と言うが、二人の紙切り虫は確固たる芸人魂を持っていた。

(よしかわ・うしお)
波 2025年12月号より