@バンチ
プリニウスを探して―ナポリ「炎上」旅行記― vol.1 



「撮影・編集・製作=とり・みき!」

(このテキストは、2013年9月14日から18日までのイタリア取材旅行につき、同行した編集部が記録をまとめ「新潮45」2014年1月号に掲載された「プリニウスを探して」を元にしています。)


プリニウスを知っているだろうか?

 紀元22年頃生まれの古代ローマ人で、正式名はガイウス・プリニウス・セクンドゥス、通称大プリニウス。このヒト、ヨーロッパでは大有名人である。というのは、紀元79年8月24日のヴェスヴィオ(ウェスウィウス)火山の大噴火を観察するために山の麓まで船で行き、災害の現場で亡くなった人として歴史の教科書に登場するからだ。ポンペイやエルコラーノの街を壊滅させた噴火として、ご存知の人も多いだろう。

サンタルチアから見たヴェスヴィオ火山
 プリニウスは軍人や財務官としてキャリアを重ね、噴火当時は軍港ミセヌム駐屯のローマ海軍提督だった。と同時に、今も読み継がれる『博物誌』をはじめとする多くの書物を著わした博物学者でもある。シェイクスピアも愛読者だったという全37巻の『博物誌』は、天体の運行、諸民族の生活、動植物の記録、野菜栽培法、酒の作り方など、地球上のありとあらゆる事象を記録した最大級の自然誌事典である。澁澤龍彦も大ファンで、『私のプリニウス』というオマージュを捧げ、「火山に死す」という短篇も書いている。
「噴煙がどの山から上っているのか、遠くから眺めてもわかりません  ――後でウェスウィウス火山であったことがわかりました  ――その雲煙の恰好や形は、他のいかなる木よりも松の木にそっくりでした。天空高く聳えた松の幹の如く、四方ヘ何本かの枝を伸ばしていました」
(『プリニウス書簡集』國原吉之助訳)

 噴火の時、ミセヌムの官邸に居残って無事だった養子(もともとは甥)の文人政治家ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(通称小プリニウス)が歴史家タキトゥスに出した手紙の一節であり、火山噴火を科学的に記録した最古の文章とされている。

 プリニウスは、山麓の別荘で被災している友人の奥さんから救助を求められ、4段櫂船から成る船隊を仕立てて現地へ向う。しかし、ヴェスヴィオから25キロ離れたミセヌムの地でさえ、地震や噴煙の襲来により命の危険を感じるほどの大噴火。火山礫や噴煙のため海岸に船をつけられない。引き返すかどうか迷いつつ、「運命は勇敢な人に味方する」と言い、迂回してスタビアエのポンポニアヌスの別荘へ向い、脅える主人と風呂に入ったりする。

 ところが、一夜明けても噴火は収まらない。別荘から動けぬまま、呼吸器をやられて亡くなる。小プリニウスは「叔父の如き博物学者には当然のことですが、近くから観察すべき重要な現象」と形容しているが、いかに「研究心」が動機としても酔狂な話だろう。とはいえ、この甥の書簡が後世に伝えられることにより、「叔父に不滅の名誉が調えられる」という予言が的中したのはお見事で、たとえば、プリニウスの名前は今でも「プリニー式」という噴火様式の名称として使われている。

これがローマ松です
 古代ローマ愛好者のヤマザキマリさんもまた、プリニウスに魅了された、『博物誌』愛読者の1人である。今、ヤマザキさんはスティーブ・ジョブズの伝記をマンガ化している渦中だが、「左脳と右脳の狭間で物事を考える人達」という点で、ジョブズとプリニウスは共通していると言う。探究心や想像力という、人間という動物に齎された宝の導くままに生きた人たち。だからこそ、アップルという比類ない個性を持つ会社を創業したり、古代ローマ文明の生々しい息吹を2千年後に伝える名著『博物誌』を生み出すことができたのだ。普通のスケールに収まり切らない人たちに惚れ込むのがヤマザキさんの真骨頂である。

 そして、長く温めてきた「プリニウス」を作品化する構想が、あのとり・みきさんをパートナーに、ついに「新潮45」で実現する運びとなった。

 活字ばかりの雑誌にすれば大事件である。あの『テルマエ・ロマエ』に続く古代ローマを舞台にした作品である。周章狼狽するわれわれに、ヤマザキさんは「ヴェスヴィオを見れば、構想が火山の噴煙のごとく、どんどん湧き上がってくるでしょう」と厳かに宣告された。否応もない。初めてプリニウス臨終の地に立つとりさんと共に、ナポリに向かう機上の人となった。


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