本格小説 水村美苗
――序 「職業」としての小説家と「天職」としての小説家とは別物である。 出入国カード、レンタル・ビデオの会員証、クレジット・カードの申請等々――日常生活の中で私たちが書きこまねばならない書類は思いの外たくさんあり、そしてそこには「姓名」「生年月日」「住所」などとともに、「職業」という欄がもうけられている。そこへくると私はいつも戸惑いを覚える。そんなところに「小説家」などと書きこむ必要はないのかもしれない。だが、「職業」という字を眼の前に、私が今までわずか二冊の小説しか書いておらず、その印税だけでは生計がたたないことを思い起こすのである。そして下手な字で「自由業」と書きこんだりしながら、いったいこの私に自分のことを晴れて「小説家」と呼べるような日がくるのだろうか、小説を書いて食べていけるようになったらさぞや満足だろうなどと考えるのである。 だが、このような悩みは「職業」をめぐる悩みである。駅前に洗濯屋の看板を出した人が商売が成り立つかどうか悩むのと基本的には変わらない。この世で食べてゆかねばならない人間にとっては深刻な悩みだが、小説を書こうとする人間にとってはもっとも深刻な悩みではない。もっとも深刻な悩みは「天職」をめぐる悩みである。 たとえばこれから十年後、私がたくさんの小説を書き、それで立派に生計がたつようになったとする。そんなときがこようとは思わないが、そうなったとする。そうしたら満足がゆくかというと、それでも私は自分が小説家であるかどうかという問いからは自由にはならないように思う。それは小説家といえども芸術家であり、そもそも芸術家というものは、芸術家として食べてゆけるかという以前に、自分が芸術家として生まれてきたか――自分が運命の星のもとに芸術家として世に送り出されてきたのかどうかを、問題にせざるをえないような存在だからである。そしてその根底にあるのは、何か眼に見えない力、人智を越えた力、宇宙を制御する神秘的な力によって、自分が芸術家として生まれる必然があったと信じたいという、誇大妄想狂的な思いである。しかも小説家はことに強くそのような思いをもつ。音楽家や舞踊家や画家になるには、明らかな天賦の才と長い厳しい鍛錬と、この二つのものを絶対に必要とする。それに比べて小説家になるのは実に簡単である。文章など誰にでも書けるものであり、誰でも一夜にして小説家になれる。甲が小説家であり、乙が小説家ではないということは限りなく恣意的なことでしかない。だからこそ、天からの声がひそかに耳元に鳴り響き、お前は小説家になるために生まれてきたのだ、それが天の意志であり天の摂理である、と告げてほしいと人一倍思うのである。
そんな私に一昨年奇跡が訪れた。
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