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新連載・時の魔法瓶(1)

宴の果てに

森内俊雄

 真空状態に密閉されたパイプ煙草バルカンソブラーニー五十グラム缶の蓋を開く。コインで捩じると空気に亀裂が走るような気がする。あたかもヘルダーリンの詩句のように。そして固く詰められた煙草は五月の耕されたばかりの畑の土を見るようだ。あるいは、雨上がり、落ち葉した朝まだきに逍遥する林の小径を見るがごとき思いがする。ようするに、それはあらゆる感覚が休らぎ、目覚める褥である。黄色種の葉、オリエント葉、黒色、あるいは暗紫色をうかがわせるペリック、ラタキアが縞模様をなして、熟成された芳香を放っている。パイプに詰めるだけの量をほぐして、風を通しておく。発酵はそこで完成して、喫味は一段と透明度を高める。それはさまざまな思考、情念が蓄えた言葉を、忍耐の時間で醸し出して、囁かれ書き記される瞬間とよく似ているのである。それはもはや趣味嗜好の域を超えて普遍の世界と呼吸を通わせている。

 さながら永遠の安息、たった一本きりのパイプというものが存在する。それは掌の中に出土した古代ギリシア彫刻のように、簡勁な直線の交差、豊穣にうねる情感の曲線を見せるハンドメイドパイプの名工たち、スィクステン・イヴァルソン、ゲルト・ホルベック、あるいはヨーン・ミッケなどの高貴な作品とはかぎられていない。むしろ、分業の寡黙で無名の職人たちが孜孜として大量生産したマシンメイドのパイプのなかに、それは存在する。さながら一粒の砂金を掬い上げるような気の遠くなる選別、捜索の労力の浪費と偶然の恵みから、それはもたらされる。何故なら木目の流れを判断して削りだされるのではなくして、機械が無作為に生み出す逸品だからである。しかも、パイプのかたちは、時代を越えて厳しく生き残ってきた古典的形式美をそなえている。本当にすぐれた哲人が、平凡な姿に身をやつして、見識あるものの驕った君侯の引見を冷徹、非情に待ちもうけるが如く、それは千載一遇の試みを果たして、不意に人のもとへやってくる。

 それは彼が二十七歳のときだった。社員旅行で伊豆半島の温泉場へ出かけた。当時、北川温泉には旅館が一、二軒しかなかった。宴会の夜が明けた朝、浴衣に丹前を重ねた恰好で、荒れ模様の磯へ出た。釣り竿を片手にして下駄を履きながら、ダンヒルをくわえていた。滑りやすい岩場に、波が純白のシーツを引き裂くようにしぶいていた。つい、あやうい平衡をとろうとして、体勢を取り直した拍子に落としたパイプは、たちまち大波が沖合へさらっていってしまった。彼は呆然として旅行から帰ると、妻に白状した。それは外国航路の船長をしている岳父から、結婚記念に贈られた大事なファースト・パイプだったからである。
 その事情を知らないまま、岳父は航海を終えた土産に、二本目のパイプを気軽に持ちかえってきた。着色されていない白木を晒したブライヤーだった。使っているうちに手沢ばかりではなく、タール分と僅少の樹脂を浮かばせて、水平に緻密なグレインが角柱型、スクエアと呼ばれるボウルに出てきた。左右の両面にはバーズ・アイという渦巻きが開花、密集している。荒れた海辺の記憶に悩まされてきた彼は欣喜雀躍、この名もなきメーカーのパイプを愛用した。もはや、彼はこれを秘蔵して、表へ持って出ようとはしなかった。

 パイプの煙草に火をつける。それは摂氏八百度のマグマを掌中にすることである。生命の原質を燃焼させて、人生のミサの聖卓で薫煙を打ち振る香炉がパイプというものである。三十有余年が過ぎた。彼は歯型のついたマウスピースをあらためる。かなたの夜の宴で彼のパイプを戯れにくわえた朴直な少女は、服毒自殺をした。しかし、大いなるものの手は仔細をこの世の遥か沖合に流して、誰にも顛末が知られぬ儘である。