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新潮 FORUM

Party 立松和平氏、作家生活三十周年記念祝賀会
「『遠雷』の習作である「村雨」の執筆から数えると、登場人物たちに向かい合って二十二年になります。『遠雷』を書いたとき大日本印刷で編集者と殴り合いになりそうになったのをよく覚えています。作家生活三十年はほめられたものではなく、年をとった証明。ただ、私はまだ終ったわけではありません。書き続けます」(立松氏のスピーチより)
 昨年十二月五日、立松和平氏の作家生活三十周年と『遠雷四部作』(全一巻)の刊行を記念したパーティーが、東京都内のアルカディア市ヶ谷で開かれた。人脈の豊富さで知られる立松氏だけに、会場には作家や編集者だけでなく、ニュースキャスターの筑紫哲也氏、俳優の高橋(関根)恵子氏、麿赤児氏、法隆寺の大野玄妙管長など三百六十人もの人々が集まった。『遠雷四部作』は一九八○年に刊行され出世作となった『遠雷』を皮切りに、『春雷』(一九八三)、『性的黙示録』(一九八五)、『地霊』(一九九九)と二十年もの歳月を要して、農村と家族の解体を描ききった立松氏の代表作。函に入れられた『遠雷四部作』の総頁数は一六七二頁にもなった。
 最初に辻井喬氏、加賀乙彦氏、黒井千次氏が祝辞。なごやかな歓談が続いた後、会場が暗くなり、スポットライトの下で友人の絶叫詩人・福島泰樹氏が立松氏への思いを歌い上げ、最後に立松氏が『遠雷』の冒頭部分を朗読すると、会場は大きな拍手に包まれた。

Revenge 「忠臣蔵」討ち入りの夜の橋本治氏
 12月14日といえば、あの「忠臣蔵」吉良邸討ち入りの日である。20世紀最後のその夜に、橋本治氏が薩摩琵琶奏者・友吉鶴心氏と対談と琵琶楽の会に出演するというので、興味津々、出かけて行った。
「どうしてもこの夜、『雪晴れ』という忠臣蔵にちなんだ曲を演奏したかった」という友吉氏。橋本氏から、新作琵琶歌の詞の提供を受けたという間柄である。一方、「小さい頃、父親に泉岳寺前の寿司屋に連れていってもらうのが一大エンタテイメントで、寺へ回ったら、ああ、ここが上野介の首を洗った井戸なのかと興奮する子供」だった橋本氏は、「忠臣蔵」が身体に入っている世代だ。17歳下の友吉氏とは育った時代が違い、忠義の物語に対する温度差がある。
 もう、「忠臣蔵」が受ける時代ではない、という橋本氏。腹に一物あって、目的のためには人をも欺く人間が、耐えに耐えて本懐を遂げる。目的のために我慢する、というストーリーが、かつての日本人にはぴったりだったけれども、今は何それ、という感じでしょう、という卓説に聴衆は肯く。友吉氏は、「討ち入りの前に蕎麦を食べたという話だが、当時は47人分を一遍に出すことはできない」「大石内蔵助は、山鹿素行に兵法の教授を受けることができない年齢だった」という事実で対抗し、「ウソでもいいじゃん。『忠臣蔵』はそういうもの」と語る橋本氏との対話には笑いが絶えない。最後に友吉氏が演奏した薩摩琵琶の雄渾な響きと歌に、会場は圧倒された。
 橋本氏は今月、特別読物「続『三島由紀夫』とはなにものだったのか」を執筆している。
「三島への30年目の追悼」と自ら語るユニークな評論を、味読されたい。

Memorandam 古橋悌二を弔う
 京都をベースに世界的な活動を続けるパフォーマンス集団、ダムタイプが東京新国立劇場にて最新作「memorandam」を公開した(2000年11月27日~12月16日)。99年秋フランスでの初演以来、各国での公演ごとに発展と変化を続けた本作は、果たして、現代の芸術表現の最先端を開示する傑作だった。投射されたテクストの断片にパフォーマーが手足をかけ、ロッククライマーのようによじ登るという冒頭の映像を見るだけで、早くも彼らの表現の多様性(映像、言語、身体)が分かるだろう。最大の特徴であるハイテクな映像と音響の結合は、前作「OR」からさらに磨きをかけ、覚醒と陶酔を同時に観る者にもたらした。あるいは、黄昏/夜明けを思わせる光の下、微かに風に震える森の枝葉の映像を背景に、パフォーマー達が風に揺れるように舞台をたゆたう時、ピナ・バウシュにも匹敵する深さと官能性を獲得した彼らの新境地が見て取れた。
 公演初日、劇場には完成したての本が並んだ。ダムタイプ自身の企画による本の名はやはり「memorandam」(リトル・モア刊)。結成以来、創造の中心にいながら、95年、HIV/エイズによる敗血症により三十五歳で世を去った古橋悌二の遺稿、発言集だ。ドラァグ・クイーンとしてNYのクラブで活躍する一方で、エイズ/ゲイに焦点を当てたセミナー・ショーを精力的に開いた古橋の活動を「芸術の枠を超えた」ものとして捉えるのは間違っている。「“芸術は可能か”という問いは(中略)、目に見えぬ敵――戦争における本質的な悪役やHIV――の前でさらに絶望的に響く」と古橋は記す。にもかかわらず、彼は既成の芸術を疑い、破壊しながら、最後まで芸術の力を肯定し続けたことが本書から伝わってくる。ふたつの「memorandam」によって、ダムタイプは見事に死者を弔い、見事に20世紀を締めくくった。

Little Magazine 早稲田文学のリニューアル
 長く気鋭の書き手を輩出してきた「早稲田文学」(第8次)が、この度大きくリニューアルし読者の前にお目見えした。新編集による1月号の目次は、柄谷行人氏のインタビューや渡部直己・福田和也氏の対談、芳川泰久・鎌田哲哉・石川忠司・大杉重男・かい秀実諸氏の批評文等々。一目瞭然、「文芸批評」に特化した雑誌であることが分かる。
 編集の中心を担う市川真人氏によると、すでに去年からこうした方向性は暖めていたとのこと。横光利一、坂口安吾、後藤明生、中上健次の特集を批評中心で展開したところ、小説が多い時とは、はっきり読者の反応が違い、意を強くしたという。「批評空間」の休刊により、若手批評家が自らの力を試す場所が減ったことも大きく影響している。さまざまな意味で危機が叫ばれている文芸批評への傾斜を選択しえたのも、リトルマガジンならではの勇気であろう。

 NAMに至る理念を淡々と語る柄谷行人氏、天皇制や作品評価の基準について激しく「セメント・マッチ」を展開した渡部直己氏と福田和也氏、テーマを定めて新人が腕を競う「Critic to One」など、現在争点となっている問題が目配り良く取り上げられている。登場する人それぞれの言い分が鋭い対立を孕んでいる点にも着目したい。百家争鳴、この闊達な雰囲気は早稲田ならではである。生産的な論争は大歓迎である。
 発刊記念のライヴ・トーク「一九六八年の文学・二○○一年の文学」も満員の盛況だったという。「この雑誌を拠点にして、若い批評家が何人か育ってくるといいですね」と語る市川氏。文芸批評の将来を支える人材の発掘をおおいに期待したい。


Figure ゴダールの孤独
 The New Yorker11月20日号は、ジャン=リュック・ゴダールのロングインタビューを掲載している(by Richard Brody)。取材はローザンヌ湖畔の自宅兼仕事場で行なわれた。ゴダールはここでパートナーのアンヌ=マリー・ミエヴィルと暮らしている。
 彼の現在の映画への見方はかなり悲観的だ。例えば編集技術の進歩については、デジタル機材による時間の頻繁な入れ替えが抑制された時間を奪い、映画をより平凡にしたと言い、つまりは「デジタルによって、過去の概念は消えた」と嘆く。
 また、多くの現代フランス知識人同様、ゴダールもフランスが、第二次大戦中ドイツに侵略されたようにアメリカの文化的侵略にさらされていると信じている。最新作「In Praise of Love」はブルターニュでのかつてのレジスタンスの話だが、この原作の映画化権の購入をスピルバーグが申し出て、遺族がそれを受けるか否かでもめたとき、彼はニューヨーク映画批評家連盟からの名誉賞受賞の打診を辞退し、代表者に宛てて自分はいくつかのことをやり遂げていないので受賞には値せず、とりわけ自分は「スピルバーグ氏がアウシュビッツを再構築することを阻んでいない」と書いたほどだ。
 しかし、依然、世界の関心を集めつづける。2001年にはMOMAから委嘱された新作「The Old Place」がシネマテークで封切られ、次いで「In Praise of Love」が2月に上映される。一方で五時間の「映画史」を九十分に編集してもおり、来年早々にはフランスの劇場で公開される予定だ。「映画史」の完成に周囲の興奮は高まるばかりだが、それはある意味でゴダール史でもあり世界史そのものでもある。彼は隔絶された高みに到達し、そこから現れては次にその手を差し出す場所をさがす。
 インタビュアーはふとゴダールが進んで自分を誰からもうらやまれない立場に追い込んでいるように感ずる。しかし、こうした態度ゆえに、他の映画作家たちが自らの映画史に対して罪悪感を持たずに済んでいることもまた事実なのだと思うのだった。

Anti‐Roman 尾関忠雄文学全集、刊行開始
 かつて「アンチロマン〈反小説〉」と呼ばれた前衛的な小説群が、フランスから世界に向けて、新鮮な驚きと毀誉褒貶の波を広げたことを若い読者はご存じだろうか。ナタリー・サロート、クロード・シモン、アラン・ロブ=グリエ、ミシェル・ビュトール、サミュエル・ベケット……
 この「アンチロマン」を、同人誌を舞台に30年に渉って書き続けてきたのが尾関忠雄氏(54)である。そして、いよいよ尾関氏の作品が、全7巻の全集として風媒社より刊行が始まった(1、2巻は既刊)。完成まで向こう4年を要するという、まさに〈反時代的〉出版だが、第一巻の栞に、尾関氏はこう書いている。
「時にして、私は大樹となる。すっくと天に聳える。私の躯が地の下で、根となる。私は海となる。私の心が海の中で、魂となる。
 今や大樹を乗せた帆船が、言葉の処女航海に向けてゆるりと船出して行った」
 もし、日本における「アンチロマン」とはいかなるものなのかを知りたいのならば、この全集が格好の手掛りになることは確かだ。