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「昭和の滝田樗陰」逝く
21世紀など見たくもないと公言していた、小誌の戦後初代編集長斎藤十一が、本人の望みどおり、昨年暮れ脳梗塞で潔く逝った。享年86歳。年明け鎌倉建長寺で行われた葬儀には、今号「新潮」欄に思い出を寄稿してくださった吉村昭氏をはじめ、文壇・マスコミ関係者ら約四百名が参列した。
弔辞を捧げたのは、瀬戸内寂聴、坂本忠雄(小誌前編集長)、山崎豊子の三氏。作家として、編集者として、めいめいが受けた恩は、それぞれに違っていても、その強靱な個性と洞察力、眼光紙背に徹した読みと、鋭い人間観察に対する畏敬と賞讃の念では、見事に一致していた。
氏は「週刊新潮」や「FOCUS」を創刊、プランから目次、タイトルに至るまで、一切を仕切って成功に導いたが、その天才的とも言える編集者能力が培われたのは、小誌時代であった。
批評の神様・小林秀雄と唯一対等に話ができたこと、戦後評価の凋落していた保田與重郎を敢然と支持して「現代畸人伝」ほかを書かせたこと、井伏鱒二の連載「姪の結婚」を「黒い雨」と改題させたこと、五味康祐、柴田錬三郎、立原正秋ら名だたる作家を発掘・育成したこと等々、その語り草は枚挙に暇がないが、筆者にとって忘れられないのは、入社当時、既に「新潮」を離れていた氏が、にもかかわらず、デスクに全国の同人雑誌を高々と積み上げて、愛用のパイプを銜えながら、一冊また一冊と、隅々まで嘗めるように眼を通していた光景である。
戦後、いち早く「新潮」を復刊し、河盛好蔵を顧問に迎えて、人間や社会に対する関心を一層深く掘り下げ、文壇のみならず、広く知識人一般にアピールする内容に高めたこと等、現在まで続く小誌のスタイルは、この大先輩によって確立されたと言っても過言ではない。
一月七日、一代の天才編集者、「昭和の滝田樗陰」(瀬戸内氏弔辞)とコンビで、社の黄金時代を築いた、弊社名誉会長(前社長)佐藤亮一も、後を追うようにして永眠した。青山葬儀所での社葬(葬儀委員長は阿川弘之氏。弔辞は北杜夫、永井淳氏ら)には、千五百人近くが参列したが、両者を喪って、時代の変わり目を痛感せずにおれない。
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