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10 years 宮城谷昌光氏の作家生活十年
 去る一月末、帝国ホテルで「宮城谷昌光さんの作家生活十年をお祝いする会」がひらかれた。『夏姫春秋』で直木賞を受賞したのが平成三年度の上半期、それから十年ということで、親しい編集者によって手作りの宴が企画された。
 宮部みゆき氏、菊地信義氏、秋山駿氏がそれぞれ「宮城谷作品に喚起された体験」をスピーチし、最後は出席者全員で記念撮影。出席予定者が全員出席するというなごやかな会であった。
 ところでその作家生活十年を記念して、『無限花序』が小社より刊行されている。これは宮城谷氏が中国歴史小説にむかう前、二十代から三十代のころに書いた四篇の初期作品を集めた短篇集。
 氏は、故立原正秋に才能を評価されながら、二十八歳のとき郷里に戻り、どうしたら小説という虚構の世界に人間の真実を宿らせることが出来るのか、どうしたら借り物ではない言葉が持てるのか、と煩悶を重ねていた。その結果、一字もゆるがせにできないと、一週間に原稿用紙一枚のペースで執筆して出来上がった作品がこれである。
「『私は歩いている』と現在形で書けば、既にそこにはうそがあるんです。歩いているのではなく、文字を書いているわけですから。違う空間に身を置きながら、また違う時間を過ごしながらも、『歩いている』という現在形を矛盾のない形で現出させる文体と構造を成すにはどうすればいいのか。まず最初にとりかかったのは、そういったことでした」(宮城谷氏)
 物語はなく、「意識」を主題とはするものの、「意識の流れ」を追うヌーボー・ロマンの系譜に属するものでもない。秋山駿氏によれば、「過去に多くの作家がやろうとして出来なかった」ことを実現したものだという。『重耳』や『楽毅』の世界を作り上げたあの強靭な文体のルーツがそこにはある。

Poems 地下鉄駅 壁面の現代詩アンソロジー
 昨年開通した都営地下鉄大江戸線は、海外の地下鉄に倣って駅舎を美しいものにしようと、設計にあたって改札口付近の空間デザインを公募し、多くの若い建築家などからの応募を得たが、本郷三丁目駅には、小林康夫氏のアイデアが採用された。そのアイデアとは、壁面一面を現代詩の代表的詩人の詩で飾るというもの。多くの学生が毎日通うこの駅には「過去から未来へ日本人の知性と感性を橋渡しすることが相応しい」と求められたことに対して答えた案だったのだ。小林氏は数人の詩人、編集者とともに四十八編の詩の断片を選んで編み「CROSSING HEARTS」と名づけられたこのアンソロジーは地下一階改札口コンコース正面に設置されている。「やつめさす 出雲 よせあつめ 縫いつくされた国 出雲(入沢康夫「わが出雲」)」に始まり、「晴れやかな地下鉄道。晴れ渡って崖てしない壁。日を繋いていく轟くばかりの鋼の祈りに、ひと刷けの雲が掛かって、はじまりよ、それがおまえの巣。(平出隆「胡桃の戦意のために」)」に至る「詩集」は、それ自体一つの作品ともなって、地下の空間を切り開いていく。この半世紀の詩人たちの言葉は、都内を走る地下鉄の路線図を思わせる虹色のカラー・プレイトの間を横組みに走っていて、幅10m×高さ2・4mという横長の大画面は立って眺めるより、歩きながら読む方がしっくりくる。研ぎ澄まされた言葉と共に歩くという楽しみはほかでは味わうことはできない新鮮なものだ。

New Comer 中原昌也氏、本誌初登場!
「暴力温泉芸者」。今回小誌に初登場する中原昌也氏の、元のバンド名である。現在は「ヘア・スタイリスティックス」。ノイズ・ミュージックの旗手だ。バンドと言っても一人(!?)で、コンサートの時はそのつどメンバーを集めるという形。本人にも何枚CDが出たかわからないという。音楽の解体を徹底的に押し進めてゆく方法がノイズだが、そうした感性の中から、新しい文学の担い手が現れた。
 もっとも、小説家・中原昌也の存在は「マリ&フィフィの虐殺ソングブック」「子猫が読む乱暴者日記」の二冊によって、すでに広く知られている。文学の既成のコンテキストを徹底的に脱臼しながら、どこか優雅な無垢を現出させる短篇の数々は、絶賛と黙殺という両極端の反応を惹起した。
 中原氏が小説を書き始めたのは、半ば偶然である。96年頃、映画評の文章が文藝の元編集長・阿部晴政氏の目に留まり、最初はエッセイとして依頼された原稿が、いつの間にか小説になっていったのだ。連載「絶望の散歩道」第1回、「飯島つとむは印象派」のイラスト入りのなぐり書きに近い手書き文章をそのまま製版した2頁の衝撃は、もはや伝説ですらある。
 音楽と小説に共通しているのが、真摯な解体という手法だ。破壊的ユーモアのみを武器に、通念のどこにも接地しない綱渡りを続ける姿勢は、福田和也氏のいう「繊細な倫理感」に根ざしているといっていいだろう。
 今回の執筆期間は、一年半。初の短篇でない小説である。これまでは徹底した手書き派だったが、長く書き、推敲をするため、ワープロを導入した。「こんなに頑張ったのは生まれて始めて」と本人は語るが、単に書き進めるだけではなく、自らのスタイルを再構築する努力も必要であった。文学から文学を紡ぐのではなく、別の場所から富を持ち込んできた才能の、挑発に充ちた作品を、注目されたい。

Court 文学表現とプライバシー
 小誌94年9月号に掲載した柳美里氏の小説デビュー作「石に泳ぐ魚」が、作中のモデル側から「深い傷を受けた」として、プライバシー侵害と名誉棄損で訴えられ、一審に続いて二審でも、原告側の主張が認められて、文学作品としては異例な出版差し止めの判決が出た。小社は、この二審の判決文を厳密に検討した結果、ただちに最高裁へ上告したところである。
 こうした問題が裁判で争われること自体、お互いの不幸と言わざるをえないが、被告である作者ならびに本作を掲載した小誌側の、文学表現の本質に根ざした真摯な反論が退けられて、虚構(小説)である以上、現実との「切断」を図るのは当然といった、一見俗耳に入り易い、しかしよく考えるときわめて乱暴な意見が、法の名のもとに介入してきたことは、表現の自由を議論する以前の危険な兆候として、憂慮に耐えない。
 本件をめぐっては、既に多くの識者、文学者が、原告・被告の両サイドに分れて、さまざまに意見を公表しているが、小誌の立場は、99年8月号本欄で明確にしたとおり、文学作品における作者の表現の自由は最大限に尊重するものであることを、この機会に改めて表明しておきたい。

Monster 怪物の全貌は、ここにある
  これほど長い間、続編が切望された作品は珍しいのではないだろうか。
 その小説、トマス・ハリスが満を持して放った新作のタイトルは『ハンニバル』。
 前作『羊たちの沈黙』で南米に逃亡したあの博士が、十一年を経て帰ってきた。古都・フィレンツェの邸宅の一室で、ハープシコードの典雅な調べを奏でながら……。
 日本での発売は昨年四月。上下巻合わせて一○○万部にも達しようという前代未聞の部数で発売されたものの、全国の書店に並べられたワゴンからは、山積みされた文庫本が瞬くうちに消え、累計部数が一五○万部を突破したのは周知の通り。
 高名な精神科医にして美食家、トスカーナ語を巧みに操るダンテ学者、そしてシリアル・キラー。新世紀を深紅に彩る「悪」と知性の極北が、博士の内面には同時に屹立している。
 21世紀を迎え小社内に新設された「行動科学課」(!)が、そんな博士の「魅力」のすべてをあらゆる角度から徹底解剖、その秘密に肉薄した渾身のレポートを刊行する。名付けて『ハンニバル・レクターのすべて』。
 このレポートの目玉は、四月に日本公開される、リドリー・スコット監督/アンソニー・ホプキンス主演の映画「ハンニバル」の脚本の一挙掲載。全米オープニング3日間の興行収入記録歴代第三位をマークしたメガヒット作の全貌を、日本公開に先駆けお伝えする。
 なお、TBSテレビにて、三月一七日(土)午後五時から五時三○分まで、この映画に関する特番が放映され、本レポートも登場の予定。怪物を見逃すな!