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葬送 第一部完結篇
平野啓一郎

主要登場人物
フレデリック・ショパン………………………作曲家・ピアニスト。
ウージェーヌ・ドラクロワ……………………画家。
ジョルジュ・サンド……………………………小説家。本名オーロール・デュドヴァン。
モーリス…………………………………………サンドの息子。
ソランジュ………………………………………サンドの娘。

オーギュスティーヌ……………………………サンドの養女。
オーギュスト・クレザンジェ…………………ソランジュに求婚中の彫刻家。
フェルナン・ド・プレオー……………………ソランジュの元婚約者。
ジョゼフィーヌ・ド・フォルジェ男爵夫人…ドラクロワの愛人。
ジェニー・ル・ギユー…………………………ドラクロワ家の住込み家政婦。
オーギュスト・フランショーム………………チェロ奏者。ショパンの友人。
デュドヴァン男爵………………………………サンドの法律上の夫。
フレデリック・ヴィヨ…………………………銅版画家。ドラクロワの友人。
マルリアニ伯爵夫人……………………………ショパン、サンドの共通の友人。
ロズィエール嬢…………………………………ショパン、サンドの共通の友人。
グジマワ伯爵……………………………………ショパン、サンドの共通の友人。

梗概
 二月革命前夜、一八四七年のパリ。ジョルジュ・サンドと九年間にわたり恋愛中のショパンは、サンドの子供たちのことで頭を悩ませていた。兄のモーリスや養女のオーギュスティーヌはサンドに愛されていたが、妹のソランジュは孤立していた。彼女には、既にフェルナン・ド・プレオーという婚約者がいたのだが、クレザンジェという評判のよくない彫刻家に迫られていた。一方、ショパン、サンド共に交流のある画家ドラクロワは、日々、下院図書室の天井画の制作にいそしんでいた。


 十二
 ――結局、月の後半もまったく無駄に過ごしてしまった。
 四月最後の日、画材商のスーティの店を訪ねた帰り道、ドラクロワは、馬車の中で彼の話に耳を傾けながらぼんやりとそんなことを考えていた。
 三時にドレセール夫人の家を訪ねた。五日前に会った時には体調を崩して横になっていたので、この日も半分は見舞いのつもりであったが、行ってみるともうすっかり元気な様子で、これから売りに出されているルーベンスの絵を観に行くと話すと、「それなら、お送りして差し上げますわ。わたくしもこれからお出掛け致しますの。もう何日もベッドの中でじっとしておりましたから、病気よりも退屈のせいで死んでしまいそうですわ。」と言った。
 店の前で降ろしてもらい、絵を観てスーティと話し込み、店を閉める彼とともに外へ出た頃にはもう日も暮れ掛けていた。二人の影が長かった。彼の馬車で送ってもらい、家の前で別れると、失望が、丁度握り締めた真綿が開いた掌で膨らんでゆくようにして静かに胸に広がっていった。今日は何もしなかった。これから出来る仕事といえば、デッサンくらいのものだ。そう思うと、今し方の愉快な気分が嘘のように霧散してすっかり沈み込んでしまった。
 ジェニーが夕食を準備している間、彼は、居間の椅子に腰掛けて何をする訳でもなく暖炉の火を眺めていた。
 疲れている。しかし、何と虚しい疲れだろう。……
 焔の揺らめきが、少し神経に障るような気がした。この季節になっても、まだ暖炉の側からは離れられない。火掻棒で二三度中を掻き混ぜると、乾いた音を立てて炭が崩れた。顔が熱くなって覚えず椅子を遠ざけた。
 喜びとは、どうしてこうも持続しないものであろうか? 彼は、椅子の背に首を投げ出して、目を閉じたままそう考えた。肉体が疲労することは分かる。しかし、精神は? 外の者ならば、肉体の疲労に反して精神は何時までもその健康を保ち、快楽を味わい続けることが出来るのではあるまいか? いや、却って溌剌とさえして、あとに残った肉体の疲労をも何か心地の好いものと錯覚し得るのではあるまいか? 自分の場合は違う。肉体と同じように、精神までもが疲れきってしまう。……
 彼はその理由を考えようとした。そして、考えるまでもないことだと思った。仕事が順調に進んでいるのであれば、こんなことで頭を悩ませる必要はない筈だった。仕事もせずに怠惰な生活をしていればこそ、後ろめたさが追い縋がって来るのである。それはいわば脂肪のようなものだと彼は思った。放埒な健啖家がからだにどっさりと脂肪を蓄え込むように、快楽を貪った精神は必ずその身に後ろめたさを纏うのだ。胸を領するこの気怠さこそは脂肪の鈍い重みそのものだ。ならば、解決の方法は一つだ。仕事をすればいい。それだけのことではないか。
 彼は、せめて食事が出来るまでの間だけでもアトリエで何かに手をつけようかと考えた。実際に、石墨の一本も握れば、また熱心に仕事に打込むことが出来る筈だと信じていた。けれどもすぐに、三十分やそこら帳尻合わせのように絵を描いてみたところで、それが一体何になるという自嘲に似た思いが沸き上がってきた。そして、暖炉の焔を見つめたまま、彼は二三度ゆっくりと首を振った。からだの位置を変えて浅く座り直すと、肘掛けに右腕を立て、それを杖にして手の甲に頭を乗せた。
『三十分やそこら、仕事をしてみたところで何になる? そんな中途半端な時間では陸な仕事は出来やしない。――なるほど、その通りだ。その通りだが、……しかし、だ。……』