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ネオンとこおろぎ――あるいは新宿角筈一丁目一番地
高橋昌男

 私の手もとに縦長の「東京都35区・区分地図帖」の復刻版がある。
 原本は昭和二十一年九月に戦前からある地図製作会社の日本地図が世に出したもので、それを昭和六十年三月、「東京空襲を記録する会」が東京大空襲40周年記念と銘うって、日本地図の後身たる日地出版から複製刊行したのである。
 復刻版の冒頭に早乙女勝元氏の再刊意図を述べた文章がある。そのなかで氏は《戦争を知らぬ世代が、国民の七割方を占め、高速道路が至るところ波のようにうねって、超高層ビルの林立する「繁栄」の東京には、広島、長崎のような平和公園も記念館もなく、あの日の傷痕めいたものを見つけるのは、きわめて困難である》とした上で、だからこそここに"記録"としての東京地図を再公開する意義があると訴える。私が東京に生まれ育ったせいだろうか、痛憤を内に秘めたその淡々とした記述は印象的だ。
 ところで早乙女氏が四十年も前の、終戦時の地図にこだわったのには訳がある。
 実はこの区分地図が東京の被災地図を兼ねているからで、表紙にも「戦災焼失区域表示」と明記されているのである。なるほど、試みに麹町区・神田区(現・千代田区)のページをひらいてみると、淡緑色に塗られた宮城の周りは水色のお濠をへだてて、ほとんど禍々しい赤一色にいろどられている。奇蹟的に焼け残ったことを示す白い箇所は神田の駿河台と淡路町、省線の飯田橋駅にちかい富士見町の一部よりほかにない。これだけでも、東京の総人口およそ七百万のうち被災者が三百万余をかぞえた、無残な事実が推し量られるというものだ。
 それにしても、まだ混乱の鎮まらぬ終戦一年にして東京35区(最終的に現在の23区に統合再編成されたのは昭和二十二年八月一日である)の被災地図を作成した日本地図の気概と努力には頭が下がる。復刻版に寄せられた関係者の回想記によると、《特に、「帝都」東京が一体どの位戦災をうけているか、それをはっきりさせることは当時の東京の混乱を収拾し、復員者や疎開者の不安を解消するためにも必要なことであった》という使命感のもとに、例えばリーダー格の地図部員は終戦の詔勅から二ヵ月後には、「毎日地下足袋をはき、まだ満足な交通機関もなく、食べるものもなく戦災の余燼くすぶる東京の廃墟の中を歩き続けた」そうである。こうした並み大抵でない苦労の甲斐あって、出来あがった地図帖の評判は上々で、東京はもとより地方からの注文も多く、進駐軍まで、大量に買いつけたという。
 それはともかく次に、私が十一の時から二十三年の永きにわたって母と暮らすことになる新宿の街の様子を牛込区・四谷区(現・新宿区はこれに淀橋区が加わったもの)の被災地図で当たってみると、焼失をまぬがれた白い区域は新宿御苑と陸軍の演習場だった戸山ヶ原の半分ほどで、あとは焔の色の赤と建物疎開を示す暗緑色の虫喰い模様で掩われている。建物疎開とは空襲にそなえて考え出された防火措置で、家屋を帯状に取り毀わして空閑地をつくることをいう。地図では靖国通りと新宿通りに挟まれた花園町と東隣の愛住町にそれが目立った。
 どっちにしろ新宿の中心街は四月十三日の深更から翌日の未明にかけて、三百五十機のB29が投下した焼夷弾によって、きれいさっぱり焼き払われてしまった。朝がきて、まだ煙の棚引く黒焦げの焼け跡に駅や二幸、三越、伊勢丹、帝都座、第一劇場など、コンクリート造りのビルが霧のなかの大きな墓石のように立っている眺めはどんなであったろう。
 そのころ私は母方の祖父母につれられて信州蓼科山麓の辺鄙な村に疎開していた。国民学校の四年生になったばかりであった。母は東京に残って高田馬場に借りていた、そうする値打もないような粗末な店舗付き家屋を守っていたが、確か新宿が焼亡したおなじ四月十三日夜に灰になったのを見届けてから、蓼科にやってきたのではなかったか。このあたりの記憶はすこぶる曖昧である。