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穴の中の哲学者――「吾輩はムツゴロウである」第一章
梅原猛

 一九九六年四月一日
 吾輩の住みかの穴に入ってくる水もだいぶんなま温かくなった。春だ。春がきたのだ。おそらく外の干潟にはぽかぽかと四月の太陽が輝いていることであろう。起きねばならない。四か月にわたる冬眠からそろそろ覚めねばならない。
 吾輩はそう思うが、なかなかこの快い眠りから覚められない。人間の世界には「春眠暁を覚えず」という詩があるそうだが、この春の眠りほど快いものはない。また「寝るより楽はこの世にない」ということわざもあるそうだが、まったくその通りである。しかし人間の眠りの快楽がどのように快いものであったとしても、ムツゴロウの眠りの快楽にはとても及ばない。
 なぜなら、人間の眠りはせいぜい一日か二日で終わる。それ以上長い眠りは二度と覚めない眠りである。覚めたときはとっくにあの世へ行っている眠りである。しかるにわれらの眠りは十二月から三月まで続く。まる四か月の間、われらはたっぷり眠りの快楽を味わうことができるのだ。
 人間はなぜ長い間眠っていることができないのか。人間は毎日食事をとらなくてはならないからである。われらからみれば、毎日食事をとらなければ生きていけない人間などというものはまったく不自由な動物である。それに対してわれらは数か月も食事をとらなくても生きていける。その点でもわれらムツゴロウは人間よりはるかに自由な動物である。
 何でも、人間のなかに仙人というのがいるそうだ。おそらく彼は毎日食事をとらなければならない不自由さに堪えられないと思ったのであろう。それで霞を食べて生きているということであるが、もし実際そうであるとしたら、仙人はわれらムツゴロウの生活を真似したのだ。しかし人間はやはり霞を食べては生きていけまい。霞を食べて生きているという仙人なるものは、自分が超能力者であるように見せかけようとする詐欺師にちがいない。
 実を言えば、この四か月にわたる冬眠の間、ずっとわれらは眠り続けているわけではない。たいていの時はわれらは快い睡眠に耽っているのであるが、ときにはうつらうつら目を覚まし、夢ともうつつともつかない世界にさまようことがある。そのような夢ともうつつともつかない定めなき時こそいとも甘美な思索の時だ。そういう時にわれらは果てしない想像の世界にさまよい、ときには天来の妙想がひらめく。
 吾輩は、わが思索の内容を人間に語ろうと思うのであるが、なにぶん人間というものは小賢しい知恵をもっているものの、性欲と支配欲がむやみに強く、全体として甚だ愚かな動物なので、吾輩の深遠な思想はとても理解することはできまい。でもまあ、語るだけ語っておくことにしよう。
 おまえはムツゴロウと名乗っているが、いったいどこのムツゴロウだ、それを語れというのか。そうだ、深遠な思想を語る前にまず吾輩の身分を明かさねばなるまい。
 吾輩は、ニイニイ国のナアナア県のイットイット市のイットイット干潟の一隅に住むムツゴロウである。なあに、ニイニイ国だのナアナア県だのイットイット市などというところはどこにもないと? だいたい名前などというものは人間が勝手につけたものである。聞くところによれば、人間の世界ではニイニイ国のことを日本国といい、ナアナア県のことを長崎県というそうであるが、人間の言葉がムツゴロウの国に入ってきたときに、発音が変化するのは当然である。これは人間の世界でもよくあることである。
 吾輩が物知りのムツゴロウの古老から聞いたところによると、ニイニイ国には「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」という川柳があるそうだ。ドクドク国の詩人ギョエテはニイニイ国に入ってくると、ゲーテとなるそうである。人間の国の間でもそうであるから、人間の言葉がムツゴロウの国に入ってきたときにはもっと激しい言葉の変化があるにちがいない。日本国がニイニイ国になっても当然のことではないか。これからも吾輩は、人間の国の固有名詞をすべてムツゴロウの国に入ってきて変化した言葉で語るので、そう思ってくれ。