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Adieu 田久保英夫氏急逝す
 4月13日(金曜日)の夕方五時過ぎ、美世子夫人から、編集部に電話がかかってきた。
 すぐに夫人に代わって田久保氏の声。
「急に入院することになりました。16日の川端康成文学賞の最終選考会ですが、私は選考会だけでも出たいと思っています。食事や、飲むことは出来ないので、選考会のあとの食事の準備はいりません。ただし、病院の許可が出なければそれも不可能ですので、当日の午前中に連絡します。私としては出るつもりです」
 時折、声の流れが滞ることがあったが、出席への意志は明瞭に伝わった。
 この電話からわずか20数時間後、氏の訃報が届いた。
 食道に出来た悪性腫瘍は、その場所が大動脈と隣接しているため手術は行えず、昨年末から放射線治療が続けられていた。これに伴い激しい副作用が氏を襲っていた。食欲不振がひどく、微熱が去らない。それでも氏は、1月17日に開かれた芥川賞選考会に病院からタクシーで乗り付けた。3月8日に開かれた一回目の川端康成賞選考会は5時間を超える長丁場になったが、氏は他の選考委員とともに論議をつくして下さった。
「この初春、雪の山小屋へ行った」と始まるエッセイが1月31日の朝日新聞に掲載された。「何かこのひと区切りの年に、初めてのことをしてみたかった」田久保氏は、雪道を車を駆って山小屋に着き、ワインを飲みながら「なぜ自分がここまで一人で来たのか」と奇異な思いに囚われる。文面からは、生命の「何条か」の光への希望が感じられた。
 が、夫人の言葉に胸を衝かれた。「あれはヴァーチャルな旅だったのです」
 作家は架空の世界の創造に生命を注ぎ込む。田久保氏は病にあって、最後の想像力を羽搏たかせ雪の浅間高原へ車を走らせた。除雪作業を終えると「体はようやく一個の生命に目覚め、細胞が燃え始めたように汗にまみれた」
 田久保氏は確かにこの時、旅をした。今、氏は浅間高原を遥かに越え、冥府に旅立った。その道行きの安からんことを。
(6月4日、パレスホテルで、「田久保英夫さんとお別れする会」が開かれる予定。小誌に連載された最後の長編小説「仮装」も6月初旬に刊行される)

Philosopher ムツゴロウ探訪行
 諫早干潟の水門が閉め切られてまる四年たった4月13日、京都から列車を乗り継いで諫早駅に到着した梅原猛氏と待ち合わせ、車で干拓地、水門、干潟を見て廻った。一行は「有明海の生き物たち」の編著者で生物学者の佐藤正典氏、フォトアドバイザーの鍔山英次氏、そして編集子の四名。梅原氏がこの地を訪れるのは、これで六度目。四年前は、胃ガンの手術で来られなかったが、翌年からは熱心に通いつめた。
 二年目の夏のことである。干潟にはまり泥まみれになってようやく足を抜くと、この区域では絶滅した筈のムツゴロウが目の前にいた。すぐに手ですくい、周りの人に呼びかけたが、最初は誰も信じなかった。やがて、その最後のムツゴロウは、梅原氏が見守る中、手のひらの上で、息をひきとった。氏にムツゴロウの怨霊が乗り移ったのは、それからとのこと。
 今回の探訪では、佐藤氏が小野島堤防付近で奇跡的に生きたアリアケガニを発見、いとおしそうに水たまりに戻していたのが印象的だった。水のきれいなところへ行けば、この季節、ムツゴロウに対面できるかと期待したが、生憎この日は風が冷たくて、穴の外には出ておらず、あちこちでトビハゼが跳ねているのを目撃したにとどまった。
 翌日の午前は、昨夏亡くなった干拓反対運動のリーダー故山下弘文氏の追悼集会と「生き物たちの慰霊祭」が、白浜海岸旧桟橋で開かれた。ここはかつてシチメンソウの群生地で、ムツゴロウの天国でもあった。午後からは諫早文化会館に場所を移して、諫早干潟緊急救済本部ほか主催のシンポジウム「急げ!諫早干潟と有明海の再生」(参加者は千二百名)。梅原氏はいずれの集会においても、諫早を日本の公共事業が変わる原点にと訴え、水門を閉めた結果漁業が出来なくなった人々を干拓事業に雇い、彼らを推進派に付けている国の現状を批判して、逆に干潟再生のための事業で働いてもらう発想の転換こそが問題を解決すると説いて拍手を浴びた。また、後者の「ムツゴロウが言いたかったこと」と題した基調講演のなかで、近く「吾輩はムツゴロウである」という題の長編小説を発表します、猫ではありませんぞ、ムツゴロウです、と述べた折には、会場中がドヨメきわたった。今号巻頭掲載の「穴の中の哲学者」は、そのプロローグ。ハチハチゴロウが穴の中から出てきてからの活躍と、その後の運命については、単行本でどうぞ。

Position 江代充『梢にて』の位置
 去る3月3日、前橋文学館アートステージにて、江代充氏と平出隆氏の公開対談が、「現代詩における『梢にて』の位置」と題して開催された。両氏は、草野球チーム「クーパースタウン・ファウルズ」のチームメイトである。初めて会った1984年当時助監督だった平出氏は、いきなりバッティングセンターに誘い、その場で入団を要請したという具合で、以来、文学の話はほとんどしたことがない。二人にとって初めてと言っていい詩をめぐる対話だった。
 冒頭の一景。平出氏が、人は他者のように自分の名を呼びながら暮らしていると知らされたという一節「身を曲げてくぐりぬける私もまた エシロ・エシロといいながら」と朗読すると、江代氏が「エシロ・エシロ」と同時に唱和する。静かな詩的空間が現れた。
 平出氏は、「単独者」という概念を読みの起点に置く。いうまでもなく、カフカである。一方、江代氏は、まず日記を書き、そこから「文」が立ち上がり、徹底的な推敲をした後作品化するというスタイルを取ってきた。数十年間書き続けられている、膨大なノートから辛うじて救い出される言葉の破片。マックス・ブロートに自作の破棄を依頼したカフカの態度と、どこか響き合う。実生活上の独身者という共通点を持つのは、偶然と呼びにくい。
 また、長く聾者の教育に携わる江代氏は、キリスト教入信の門前で真摯にためらう人である。「純粋な存在に対する問いかけ」としか呼びようのない度を越した誠実な祈りが、作品の底を支えているのだ。
 5月13日まで、江代充展が前橋文学館で開かれている。氏の世界に触れたい方は、ぜひお運びを。

Island トキの島・佐渡へ
「ニッポニアニッポン」という題名を、阿部和重氏から聞いたのは去年の5月24日だった。トキに憑かれた引き籠もりの少年が主人公です、と作品のモチーフを聞き、編集子の胸は躍った。氏が山形出身であることはご存知の通り。しかし、トキは見たことがないという。それではまずいと、佐渡島に渡ったのは同年10月21日だった。
 まず、新穂村のトキ保護センターには昼夜5回通い詰めた。団体客が途切れぬ中、ほとんどトキを見ることなく、建物を隅々まで嘗めるように観察し、あらゆる角度から写真を撮りまくる二人組の存在は、さぞかし異様だったろう。人っ子一人いない夜、満天の星の下で夜間の警備状況を調べた時間は、真の闇の中、誰何されれば小説もおじゃんという意識があり、正直言って怖かった。
 トキ関連の取材を終えた後は、外海府に向かう。まったく予備知識のないまま車を走らせたのだが、金北山の息を呑む紅葉、尖閣湾の深い海の色、海沿いで売っていた烏賊の塩辛の美味、神の岩・大野亀の信じがたい巨大さなど、圧倒されてしまった。半日島を走り、その過程で当初構想になかった場面が一つ生まれ、作品のイメージはほぼ固まったようだ。阿部氏が「ここは日本の果てですね」と呟いた佐渡の雄大な自然が、いい影響を与えてくれた。
 2泊3日の取材行。主人公の鴇谷春生と我々は、ほとんど同じ行程を踏んでいる。最後には友達みたいな気分になった。エピソードを一つ。主人公はミラという軽自動車を借りているが、クラウンを選んだ編集子はひどい目に合った。加茂湖畔の道なき道に入り込んで、ほぼ30分、湖に落ちる恐怖と戦いながら運転する羽目に陥ったのだ。小さいミラならば、そこまで危なくない。草ぼうぼうの泥道から舗装道路に出るまで、お互い無言の行であった。
 あの「インディヴィジュアル・プロジェクション」から4年。今もっとも注目を集める気鋭が小誌で久々に放つ野心作をお楽しみ下さい。そういえば、トキの雛が続々と誕生していますね……。

Poet 伊藤聚を知っていますか
 支払った
 曇り空よりはいくらか小さい
 草色の馬市の大天幕が呼気で膨らんでいる。
 死骸を戸棚につっこんできたものたちと
 おれたち朝の挨拶をする。

 1970年に刊行した第一詩集「世界の終りのまえに」に収録された詩「馬の購入」の一節である。
 詩人・伊藤聚は、小学5年の時、大陸から引き揚げてきた三木卓氏と知り合い、その後、詩誌「氾」「壱拾壱」「飾粽」などに参加。1999年1月に63歳で亡くなるまで6冊の詩集を出している。早大独文科を卒業後、松竹に入社。1989年には大船撮影所シナリオ研究所の所長に就任している。
 彼は、独自のイメージに富んだ詩の他に絵やスケッチ、コラージュなどにも才能を発揮、100冊にも及ぶノートを残している。
 先月、初めての「伊藤聚展」が銀座で開かれ、葉書判の紙に描かれた作品150枚近くが展示された。偏愛していた猫のイラスト、写真のコラージュ、極細ペンで描かれたドローイング、釣り針を碇に見立てたオブジェなど繊細で多彩な、「言葉によらない」作品を見ると、このマイナー・ポエットの詩をもう一度読み直したくなる。こんな人が多いのか、先月、書肆山田から「伊藤聚詩集成」(7500円)が刊行された。詩人のささやかな復権である。


Experience 「新潮」編集部体験記
 私は、ドイツのベルリンに住んでいますが、祖母の住む日本に春の休暇を取ってやってきました。父はドイツ人のヴァイオリニスト、母は日本人で、ドイツに音楽留学をしていたときに父と知りあい結婚しました。私は17歳。女4人、男1人の5人姉弟の長女です。
 ドイツの学校では、2、3週間、一般社会での実地体験をする「プラクティム」という制度があります。私の通っている学校はイエズス会系の学校なので、なるべく人を助ける仕事を経験するようにいわれています。私は、以前病院でヴォランティア活動をしたことがありますが、友達の話を聞き、今度は「普通」の会社で社会体験をしたいと思いました。そこで休暇を利用し、母の紹介で新潮社の「新潮」編集部で働くことにしました。
 日本の文学はあまり読んでいませんが、補習校で森鴎外の「舞姫」を読みました。漢字がとても難しく、理解するのは大変です。吉本ばななの名前は知っていますが読んだことはありません。シュリンクの「朗読者」が日本で新潮社から刊行されて、ベストセラーになっているのを知り驚きました。
 家では母とは日本語で話しますが、妹弟と話すときや、家の外ではドイツ語で話しています。
 新潮社に来て一番驚いたことは、編集部のみなさん(たった5人です!)が、思っていたよりも堅苦しくないことです。徹夜で原稿を入れたり、休日なのに出勤したりで、戦場のようですが、みなさんユーモアを忘れていません。このような雰囲気の中からどんな雑誌が生まれるか、楽しみです。
 一週間という短い期間ですが、沢山の人と知り合い、日本語の語彙をもっと増やしたいと願っています。きっと良い体験になると思います。
ヨハンナ・ベルグ(日本名・星 閑)