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仮装について
坂上弘

 幽かに庭の樹木のにおいがしのびこんでいた。田久保さんの仕事部屋に続く小さな客間で、通夜にかけつけた髪茫々の小川国夫さんから、思い出話を聞いていた。ソヴェト旅行に一緒だったとき、日本語のつかい方になると、頑としてこだわったという。ご親族のいるはずの階下の部屋があまりに静かなので、妙に落着かなくなった。そういえば私は田久保さんとくつろいで家の中のことなどを話したことがなかった。が間もなく、この下町の裏路地の突き当りにでもいるようなひそやかな別離の時は、彼の望んだもので、彼の作品のように思われた。
 若い頃彼は、小説を、好きな象徴詩より、意識的なものと考えていた。下町の生活者の意識が立ちのぼり、生命を持続させる唯一の芸術世界として最も信頼していた。その意味で、現実を再構築していくのが本領であった。彼は、倫理的でも、そのうらがえしの破滅的な私小説作家でもないし、教養主義者でもない。むしろ演劇的な緊迫感のなかに、人々の哀感がとじこめられているのが彼の小説の特質だった。
 舞台のように構図されている。台詞のようにはっきり独白されている。そして彼が最も好きな季節は、秋であった。こんな文章がある。〈秋になった。事務所の窓からよく晴れた空を眺めていると、季節がまるで一匹の透明な獣のように見えてくる。ビルの谷間や、街路樹の根もとに落ちている陽射しも、するどいが柔軟な毛並を感じさせる「秋」のものだ。〉これは彼が、仏文を卒業後山川方夫たちとはじめた「三田文学」の銀座にある編集室で、独りきりで机にむかって書いていた編集後記の中にある。この時間を共有していた私などは、一匹の透明な獣は、彼自身であったことを知っている。
 最後の長篇となった「仮装」を最初から通して読んだ。手入れもおわっており、どんなにか単行本になるのが待ち遠しかっただろう。この傑作の幕明けも初秋で、田久保英夫は、一種動物的な感覚でそれを嗅いでいる。主人公はいままでの彼の作品にあらわれた人物の集大成である。小説書きであり短大に教える、という設定の、いまどき珍しくない知識人の姿は一目で彼自身の分身とわかる。それから舞台は、浅草、向島、深川と馴染み深いところで、ここにうまれ育った人々の血と気質そのものが、透明な獣たちのようにうごくのである。
 小説家が小説家小説を書くのは珍しくないが、行きつく所は自伝的という陳腐な場所だ。そうではなくて、小説書きを仮装した主人公に仕立ててそれを客観視したらどうなるかが、「仮装」の主題だ。〈不意に小説と聞いて、太陽の光の下から、地下坑へひき込まれるような気がした。〉と主人公は思う。この主人公の小説家としての宿命は、こんなふうに書かれている。〈長い年月を考えると、いつの間にか表現の作業は、自分の闇の中へ樹木のように、深い根を張っている。しかしその葉脈から出る酸素の気泡が、内がわの細胞を酸化し、腐蝕するようだ。〉下町の人々のように現実を自分のものとして生きることのできなくなった小説家は、人生が〈腐蝕〉されて行く。だから、主人公がつき合っている、娘ほど年齢に開きのある美術学校生にとって、〈独身〉っぽく〈世帯臭くない〉〈自由勝手な図太さ〉がある男の、その仮装の下にあるものを、あらわにする必要があるのだ。
 相手がわかりはじめるなかで自分も何者であるかがわかりはじめる。下町の路地や、小料理屋での会話はのびのびとして、稚気もユーモアも入っている。そこに棲息する男女は、〈血縁に似た紐帯〉をもった関係をもっている。田久保英夫の独壇場だが、〈異様な激しさを潜めた娘に執着し、しかも相手に大した支援も保障もせず、こっそり家庭を保っている〉仮装した中年の男、これを〈渇愛〉と〈欺瞞〉にさいなまれた人間と設定しながら、その関係を、最後まで追いかけてみようという話だ。そこにいる老若男女にながれている下町という、透明な獣じみたものに回帰するように、この作品を書く田久保さんは、ある意味では高揚していただろうと思う。
「仮装」の山場では九十三歳の母親が入院し死の床につく。これを境に、美術学校生の娘が妻子のいる男の家にのりこんできたり、妻が娘の実家に行き、逆襲にでる。仮装の脱げない主人公の哀しみはこうだ。〈萌子の言うように、自分を特別な人間などと思わないが、長年、物書きをつづけて、自分を対象に投げこまず、たえず距離をとろうとする習癖が、無意識にあるかも知れない。〉
 母親の死を前に思い出す光景はとても美しい。少年の頃母と二人で家屋を再建するためにもらった材木を、夜中何回にもわけて運ぶ。これも晩秋の記憶である。それがうかぶと主人公は意識のない老母の人工呼吸装置を止めてもらう決心をする。〈お袋、もういいよな、荷車も精一杯押してきたよな。もう停めてもいいな。〉このしぼり出されるような喪失感には心を打たれる。火宅を回避できたのは老母の存在のせいだろう。
 この小説の終熄はむしろおだやかである。娘とは下町という共有しているものがあるから、妻子を捨てて、共に生活できるかも知れないという、不思議な幸福感がただよう錯覚を主人公にもたせる。が、世代のちがう娘には愛情という軸が見当らない。
 だがこの「仮装」には、仮装など必要としないカップルもいるという明るい仕掛けがある。娘の弟の視点から書かれる何章かが、並行して挿入されている。この章はカタカナ表記によって若々しく書かれていて、巧みなサービスだ。このカタカナの章は生前読みにくいと言われ出版する際にはひらがなに直すことに決めていたというが、私はカタカナのままがいいと思った。次元のちがう文体が重苦しい章の息抜きになる。しかしそうした技巧的な手法をたのしむだけではなく、田久保さんは、若い世代を描きこむときに、そこに未来を託すとでもいうような、仕合せを感じていたように思えるからである。