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語り伝えるために生きてきた

G・ガルシア=マルケス

人の生涯とは、何が起こったかよりも
何をその人が記憶しているか、
どのように記憶しているかである。
――G・G・M

 母はあの過酷な世界のただなかで女として一人前になった。幼少時代こそ、しじゅう三日熱に悩まされて不安定な日々を送ったが、その最後の発熱から立ち直ったときを境に、彼女は鉄筋コンクリートのように頑丈な身体を手に入れることになり、自分の子供十一人と、夫の子四人に加え、六十六人の孫、七十三人の曾孫、五人の玄孫に恵まれて、九十五年におよぶ生涯をまっとうすることになった。わかっているだけでこれだけの数がいたのである。

 母の名はルイサ・サンティアーガといい、ニコラス・マルケス=メヒーア大佐とその従妹にして妻であったトランキリーナ・イグアラン=コテス(身内での通称ミーナ)との間に生まれた三女だった。生まれたのはランチェリーア川の岸辺の町バランカス、一九○五年七月二十五日のことである。これは度重なる内戦の被害から一族がようやく立ち直りかけたころだったが、彼女の父親はその二年前に名誉をめぐる諍いからメダルド・パチェーコを、決闘の末、殺害していた。彼女のひとつめの名前ルイサは、亡くなってちょうど一か月だった父方の祖母ルイサ・メヒーア=ビダルにちなんでつけられた。二番目の名前サンティアーガは、ちょうど七月二十五日が、エルサレムで首を刎ねられた使徒ヤコブ、通称大サンティアーゴの祝日だったことによる。彼女は人生の半ばすぎまでこの二番目の名前を隠して暮らした。いかにも男の名前のようで仰々しく感じられたからだが、結局、不忠な息子のひとりが小説に書いたせいでばれてしまったのである。
 陽気な罪人を輩出してきた一族のカトリック的な規範の範囲内で、彼女は金持ちのお嬢さんとしてごく当たり前の教育を受けた。サンタ・マルタ[カリブ海に面したコロンビア北部の町で、マグダレーナ県の首府]のプレセンタシオン小学校ではよくできる生徒として通っていたが、ピアノの授業だけは別で、これは、まともなお嬢さんならピアノぐらい流麗に弾きこなせるのが当たり前だと考えた母親が無理強いしていたからである。ルイサ・サンティアーガはしかたなく三年間はピアノを続けたが、シエスタの時間のあのうだるような暑さのなかで毎日練習をしなければならないのにうんざりして、ある日を境にぱたりとやめてしまった。ところが、花咲く二十歳のころになって、このきっぱりとした性格的な強さこそが彼女を支える長所となったのである。アラカタカ[サンタ・マルタの70キロほど南にある小さな町]の若くて気位の高い電報技師に彼女が恋していることに家族が気づいたのもそのころのことだった。