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長江

加藤幸子

 
      一 部

 生後一ヵ月半のフゥ(福)がぼんやりした視力を獲得したとき、彼の目に初めて映ったのは混じりけのないいちめんの青であった。それは彼のまだふにゃふにゃの身体をすっぽり包んでいた、ガチョウの羽のつまったおくるみが、突然ずれたために起こったのだ。
 何てきれいなんだろう、これはいったい何なんだ、と彼はみとれてしまい、おかげで空腹を訴えようと泣きかけたことも忘れてしまった。
「あら、フゥちゃんたら空なんか見つめちゃって」とバスケットを抑えていた少女が、おかしそうに言った。彼女が年若い叔母でシャオリー(小麗)と呼ばれていたことも、自分の家族たちの脱出行に参加していたことも、もちろんまだ彼は知らなかったが、その音楽的な声だけはすでにお気に入りの一つになっていた。
「太陽は赤ちゃんの目によくないわ。フードをもっと深く被せてちょうだい」と少し離れてフゥの兄のイー(義)を膝の上に抱いていた媽媽(マーマ)が注意した。それでフゥはせっかく発見した広びろとした外界から閉めだされ、ふたたび自分の排泄物の匂いのこもった狭苦しい場所に引きもどされてしまった。腹だたしさと同時に空っぽの胃の感覚がよみがえり、彼は竹籠の中でそっくり返って泣きはじめた。
「この子は癇が強いな。イーはもっとおとなしい赤ん坊だったぞ」と妻の前に座っている??(パーパ)が首をかしげながら言った。
 でも母親にはわかっていた。フゥがいらいらするのには、りっぱなわけがあった。彼の体はたえず小刻みに揺れているばかりか、ときおり間を置いて突きあげられる衝撃のために、赤ん坊に必要な熟睡がとれなかったのである。彼はこの愉快ではない環境が、自分と自分の家族を乗せた馬車が石ころ道を進んでいるせいであることも、シャオリーのことと同様に知るよしもなかった。ただちょうど感覚の芽が双葉を開いた時期だったので、フゥはその不規則な“揺動”に対して、兄のイーよりも敏感に反応したのである。それを抵抗なく受けいれるまでには、時間以上のものを与えなければならないだろう、と媽媽(マーマ)は考えた。
 そのころ、一歳を過ぎていた佐智は、ベビーサークルの中で這いまわっていた。ママは台所で夕食を作っていた。彼女は家事をするときや本を読むときは、いつも娘をおもちゃといっしょに安全を保障するサークルに入れておいた。佐智は手のかからない赤ん坊で、セルロイド製のキューピーを掴んだり、ベティブープのおきあがりこぼしをたたいたりしながら、同じ場所できげんよく遊ぶことができた。静かすぎるのに気づいてママが行ってみると、うつ伏せになって眠っていることもあった。