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日高

立松和平

 
しるべし、自己に無量の法あるなかに、生あり、死あるなり。
道元「正法眼蔵」

 天の神(カンナ・カムイ)が水の流れるのを見たくて、海のほうからやってきた。それが幌尻岳(ぽろしりだけ)に源を発する沙流川(さるがわ)となったのである。川は海から山にのぼっていく大きな大きな生きものなのだ。
 北海道の日高山脈最高峰の幌尻岳は山また山のその向こうにあり、山と山とを結んで流れているのが沙流川である。幌尻岳の上には大きな海があり、カモメが多くて、トドやアザラシもたくさん暮らしている。わかめもいくらでも生えている。アザラシは折々に川筋を下ることがあり、わかめも流れてくることがある。山にはいると和語を話すことを神(カムイ)は嫌い、浜のことを語るのはそもそも禁じられている。山上の海には大波が立ち、波の音が遠くまで聞こえるのだが、波音が聞こえるあたりまでいくと、白熊の姿を見ることができるという。その姿を見たとたん大風が吹き、人間など木の葉のようになって遥か麓まで飛ばされてしまう。
 アイヌのいい伝えを、小田桐昇(おだぎりのぼる)はスキーを前方に踏み出して滑らせながら思い出していた。ここは林道で、雪はちょうど滑りやすい程度に積もっていた。曇り空からはナイフで削ったような雪がはらはらと落ちてくる。大学の山岳部の六人パーティのリーダーとして、昇はわずかな不安を感じていた。三人は卒業を間近に控えている四年生だが、あとの三人は、一人は二年生の女性で冬山は一度経験があるものの、二人の一年生はまったくの新人である。高校で山岳部だったとはいえ、行動九日停滞五日の十四日間の山行は初体験である。今回の春山登山計画は山岳部の正式の山行きとして決定し、登山本部に計画書を提出していた。万一遭難事故が起きた場合、登山本部はただちに出動できるよう若いOBの動静を掌握し、山行が終了するまで留守本部としての体制を崩さないということになっている。昇たちはいわば登山に公的な責任を負っているのだ。
 前足のスキーに体重をかけたら後足のかかとを上げ、爪先で雪面をこするように後足のスキーを引きつける。両足が交差しても、腰を前に押し出す気持ちで後足にあったスキーをすべらせつづけ、かかとがつくまで送り出す。送り出した足に急激に体重をかけると、バランスを崩して転倒しやすくなる。腰に体重を乗せるような感じで、じんわりと重量をかけるのだ。滑らかな運動を、無意識のうちに際限もなくくり返す。筋肉が心地よく温まり、肌がうっすらと汗ばんでいるのがわかった。昇は時折振り返り、全員がほぼ等間隔でついてくるのを確かめた。初心者のうち、二年生の長谷川裕子は教養学部理類に所属していた。一年生の二人は、教養学部文類の土居敬三と、教養学部水産類の会津一郎である。
 下りの緩斜面になっていた。工事事務所のプレハブ小屋があり、工事は冬期休業中で人影はない。今日は三月十二日であった。昨夜札幌を夜行列車で出発し、早朝に帯広に着いた。登山の準備のため睡眠不足の日がつづいたので、車内ではよく眠ることができた。車内も混雑してはいなかった。帯広駅からは山岳部OBの赤坂さんのトラックで最終人家のところまで運んでもらった。赤坂さんは日高山脈の麓の牧場で牛を飼っているのだ。持参した握り飯は凍る寸前だったにせよ、どうにか食べられた。昨夜ラジオを聴いて天気図をとった。前線が移動中だったが大荒れになることもなさそうだったので、山にはいることには決めていた。十四日間の長期で、もちろん晴れた日ばかりであるはずがない。
 工事事務所を風除けにして、小休止をとった。スキーをはいたまま、立って休むのだ。身体が冷えないうちに前へと進みだす。札内川は凍りつき、雪の白い帯になっていた。すべてが雪と氷とでできているのだが、訓練のつもりで夏にもきたので、地形は頭にはいっていた。夏は岸辺で渓流用シューズにはきかえ、流れてくる水を踏んで川を溯っていく。水の冷たい感触がこの上なく気持ちよかった。川幅は広いのだが、時に暴れ川となるとみえ、ところどころ細い流れに分流してまた合流する。まわりはミヤマハンノキの木立ちであった。太陽の強い光線が木洩れ日となって射し込み、裏の白いマタタビの葉が森の奥へ誘い込むようにひらひらと揺れているのだった。