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化蝶散華

玄侑宗久

 
 二階の窓から見おろすその男の頭は、長髪ではあったがいくぶん毛の薄いところがある。男は二階の理洲(りしゆう)をときおり見上げたが、話しているうちにだんだん顔の向きを水平に戻してしまう。たしかに上を向いたまま話すのは苦しいだろう。しかし男はまだ四十まえに見えるから、そんな苦しさを表現すべきではないと理洲は思った。日に焼けた精悍な顔も、こざっぱりした黒い上下のトレーナーも、いつも同じ服装ではあったがとても乞食とは云えない颯爽とした様子にみえる。そのことも、理洲には同情しにくい一因だと思えた。
「みんなそれぞれに、苦しい人生、送ってると思いますよ」
 理洲が堅い声でそう言うと、男はきりりとした眉を寄せて静かにまた二階を見上げた。つとめて穏やかな表情をつくろうとしていた。しかし自然に寄ってくる眉に気づいたのか、男は眼をまた庫裏の玄関のほうに逸らして黙った。
 男の背後の植え込みの上にも玄関の周りにも、まだ屋根から落ちた雪が山盛りに残っていた。きのう男が来たときには理洲も無理に仕事を作り、山門前と玄関前の雪をスコップで退(ど)けてくれるよう頼んだ。一時間程度だったが二千円渡してしまったのがいけなかった。大勢やってくる風来坊たちの時給は六百円ときめてあるのに、「特別だからね」と言って渡したその気持ちの揺れにつけこまれている。そんな気がした。
「きのうだって、別にあの雪があったらお客さんが通れないわけじゃなかった。言ってみれば無理に作った仕事ですよ。うちは働いた報酬としてしかお金はあげられないって決めてあるから。……だけど、こう毎日来られたって仕事はありませんよ」
 理洲はようやく黙った男に畳みかけるように言った。すこし興奮している気がした。
 男はさっきから、子供のころ自分がいかに不幸だったかを述べたてていた。母子家庭で生活保護をうけていたらしいのだが、そのお金を十年間以上、近所の人が着服していたと憤るのだった。「信じられますか、そんなこと」男は二度吠えるようにそう言ったが、正直なところ理洲には信じられなかった。それは信じられないほど非道いことだという意味ではなく、男の被害妄想か、そうでなければ虚言だと思えた。
 よく喋る風来坊にはまえにも一度騙されたことがある。田中さんと呼ばれて二ヶ月も離れに住み込んでいたその老人は、草引きが徹底していたので住職夫妻も重宝がっていたが、ある日近所のスーパーで万引きで捕まった。田中さんを引っ張ってきた店長と一緒に離れに入ってみると、六畳と四畳半の、敷かれたままの夜具の周りはさまざまな盗品で埋め尽くされていた。田中さんは初め、戦争から戻ったら弟と自分の奥さんが結婚していて居場所のない家を出てきたのだと語った。住職たちは涙を誘われ、風呂も入れ夕食もどうだと勧められるままに逗留し、田中さんはとうとう二ヶ月居続けた。むろん田中さんの場合もこの男にしても、その話が嘘だとは言いきれないし、だいいち労働に対する賃金を渡すだけの関係と考えればそれほどの誠実さを求めることもないわけだった。しかし理洲には、饒舌に過去を語るこの長身の男前が、なんとなく気に入らなかった。寺ならそういう不幸な人間を救うべきなのだと考えているらしいこともそうだが、あるいは自分自身、きのう決算書づくりで忙しかったという以外にはたいした理由もなく、「特別に」二千円渡してしまったことへの憤懣が男に跳ね返っていくのかもしれなかった。