本・雑誌・ウェブ
四天王寺の黒鳥

谷川健一

 
第一章 マクベス夫人

       守屋と馬子

 戦前の日本の通史では、蘇我氏と物部氏の葛藤を崇仏派と排仏派の宗教的な争いとして捕えるのがふつうであった。これは云うまでもなく、日本書紀の記述に則とったものである。それは聖徳太子を登場させるための伏線でもあった。日本の仏教興隆の礎をきずいた聖徳太子は、蘇我氏側に立って、物部守屋滅亡の戦いに参加している。しかし太子が弱年であることから参戦を疑問視する史家は少くなかった。
 久米邦武のように、守屋が頑迷守旧の排仏論者であったから誅せられたとするのは枝葉末節の説であるとする歴史家もある。(「聖徳太子の研究」)久米は守屋が穴穂部皇子を擁して皇位を争うことを謀ったのが、主因であるという。
 ここで日本書紀の記述をおさらいしてみよう。
 穴穂部皇子は欽明天皇の皇子で小姉君【おあねのきみ】を母とする。小姉君は蘇我稲目の子である。この穴穂部皇子が、敏達天皇の皇后で、のちの推古天皇となる炊屋姫【かしきやひめ】に乱暴しようとする事件が起った。炊屋姫は亡くなった敏達天皇の殯宮に奉仕していたのである。その殯宮を守っていたのは敏達天皇の寵臣であった三輪君逆【さかう】で、彼は隼人の兵士に命じて殯宮の門を固めていた。穴穂部皇子は無理に押し入ろうとするが、それを三輪君逆は拒んだ。穴穂部皇子は立腹して、蘇我馬子と物部守屋を前にして、三輪君逆は無礼千万だからこれを斬りたい、と激昂して云った。馬子と守屋は、「勝手におやり下さい」と云った。穴穂部皇子は物部守屋大連と一緒になって、用明帝の宮居をかこんだ。逆は用明帝の側近として宮殿に仕えていたが、いちはやく察知して、三輪山にかくれた。三輪は三輪君逆の本拠であった。その夜半、逆はひそかに山を出て、炊屋姫の別荘にひそんだ。そこは海石榴市宮【つばきいちのみや】と呼ばれていた。こうした行動から炊屋姫と三輪君逆の親密な関係がうかがわれる。ところが密告する者がいて、逆の居所が知れてしまった。穴穂部皇子は守屋大連を派遣して、三輪君とその二人の子を殺せと命じた。穴穂部皇子も守屋と行動を共にしようとしたが、馬子にいさめられて、皇居にとどまった。守屋は逆たちを殺して復命した。このことを知って、馬子は天下の乱が間もなく起るだろうと歎いたが、守屋はお前のような小者に天下のことが分かってたまるか、とうそぶいた。このことがあって、炊屋姫皇后と馬子は一緒になって穴穂部皇子を恨んだ。
 あくる年の夏、用明天皇は磐余【いわれ】の河上で新嘗し、病を得て宮居にかえり、自分は仏教に帰依しようと思うと云った。物部守屋と中臣勝海【なかとみのかつみ】はどうして国神【くにつかみ】にそむいて、他神【あだしかみ】を敬うことをされるかと反対した。蘇我馬子は詔にしたがって天皇を助け奉るべきであると主張した。ところで用明天皇の腹ちがいの弟である穴穂部皇子は、豊国法師をつれて内裏【おううち】にやってきた。守屋はそれを見て大いに怒った。このとき、ある男があわててきて、守屋にそっと耳打ちし、群臣はあなたの退路を断ってしまおうとしています、と告げた。それを聞くと守屋は急いで、自分の別荘のある河内国渋川郡跡部郷、今の大阪府八尾市跡部の地に退【しりぞ】いて兵を集めた。一方、中臣勝海も自分の家に兵を集めて、守屋を助けた。
 用明帝のあとは、崇峻天皇が継いだ。欽明帝の十二番目の子で、母は小姉君【おあねのきみ】であるから、穴穂部皇子の同母弟にあたる。守屋はもともと穴穂部皇子を立てて天皇にしようと画策していたが、今の段になって、それを急がねばならぬと考え、皇子にたいして遊猟【かり】をすることを誘った。この計画は馬子の側に洩れてしまった。そこで蘇我馬子は炊屋姫の詔を奉じ、部下に命じて穴穂部皇子と、皇子と仲のよい宅部【やかべ】皇子の二人を誅殺した。ここにおいて、守屋大連はまったく孤立した。馬子大臣は時を移さず諸皇子と群臣にむかって守屋大連を滅すことを相談した。そして軍兵をひきいて、守屋の本拠である今の八尾市に攻め入った。

       暗い欲望の流れ

 日本書紀の記述を長々と述べたが、これだけを見ても、守屋の敗死にいたる経緯は排仏派と崇仏派のあらそいというよりは穴穂部皇子の皇位を狙う野心に守屋が加担したことが、事件の重要なきっかけであることが分かる。しかし私は物部氏の滅亡にはもっと暗い欲望の流れが渦を巻いていることを感じる。それは歴史の暗部では、事件に女性が絡まることが多く、女性の意向や言動が歴史を左右することが余りに多いからだ。日本書紀の報ずるところでは、蘇我馬子が崇峻天皇を弑【し】いたのは、天皇の寵妃であった大伴糠手【あらて】連の女【むすめ】小手子【こてこ】(大伴嬪小手子)が天皇の寵の衰えたことを怨み、使を蘇我馬子の許にやって『この頃、山猪を献上する者がいたが、天皇は猪を指さして、「猪の頸を切るように、いつか自分が嫌いだと思う者を断【き】りたい」と云われた。また宮中では兵器をたくさん作っている』と告げ口したことに端を発している。馬子は天皇が自分を嫌っていることを知り、一族郎党をあつめて天皇を殺す決心をした。崇峻天皇が血を頒けた兄の穴穂部皇子を殺した馬子を恨んでいたことは、充分にあり得る話である。同じ蘇我稲目の娘でありながら、堅塩【きたし】媛と小姉君はそれぞれ対立した関係にある。堅塩媛の子は炊屋姫と大兄皇子(用明天皇)である。まえに述べたように、馬子は炊屋姫皇后の詔を奉じて、穴穂部皇子を殺している。