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Special―― 水上勉氏「勘六山房」での近況

 水上氏がくらす「勘六山房」は、長野県北御牧村にある。今年は雪こそ少ないが、吹きつける風は相当に冷たい。門扉には、「猛犬注意」「噛み癖悪し」などと書かれた木札。それを横目にこわごわ敷地に入ると、なかには竹紙を漉く工房や焼き窯、“電脳教室”なる看板のかかった別棟がたちならぶ。吠える「猛犬」を背に玄関に上がると、流れてくるのは、神秘的な尺八の音……最近、氏がもっぱらお気に入りのBGMである。
 そして、原稿を執筆する書斎には、WindowsのバイオノートとMacのパワーブック。かたわらには手書き用の原稿用紙も積んである。「その時の気分によって、いろいろと使い分ける」のだという。低下した視力を補うために購入した、外科手術用の拡大レンズ越しにモニターをのぞくような格好だけれど、パソコンの扱いは手馴れたもの。編集者や友人知人、メル友からの電子メールをこまめにチェックし、返信を出す。ひらがなだけで書かれたメールは不思議にやさしく感じられ、特に女性に好評らしい。居間には、どうやら育てていない「AIBO」も置いてあったが、軒先に吊るし柿がならぶ信州の山荘で、淡々と先端機器を使いこなしていることに感心してしまう。
 2月21日からは東京・紀伊國屋サザンシアターで、地人会(出演は高橋惠子・金内喜久夫ら)による「雁の寺」の公演が予定されており、自身の「代表作」を観劇するのを楽しみにしている。また、つい先日、故郷の福井県大飯町にある“私立図書館”若洲一滴文庫が、地元NPOの手で再開されるという朗報も届いた。この3月には83歳になる水上氏。もちろん、次作にも取り組んでいて、遠からず小誌で発表の予定である。

Experience―― 三春福聚寺餅つき大会と岩盤浴

 昨年暮れのことだが、玄侑宗久氏と忘年会でもと考えていた折に、氏が副住職を務める福島県三春福聚寺のカレンダーが届いた。添えられた近況通知で、12月26日、恒例の親子餅つき大会が行われると知った編集部の二名は、校了明けだったこともあって、当日珍しく早起きして、いそいそと出掛けた。
 三春は新幹線郡山乗り換えで2駅目。数年ぶりの大雪も、好天続きで町なかでは消えかかっていたが、山麓に建つお寺(鎌倉後期開山で三春藩主の菩提寺。雪村筆達磨図やしだれ桜の巨木が有名)の境内1万坪は一面の銀世界。門をくぐる前から威勢の良い槌音とさんざめきが聞こえてくるのに、気持が高ぶり、早速玄侑和尚と交代して、替わりばんこで餅をつく。近隣の老若男女大勢の参加者に囲まれるなか、最初はへっぴり腰だったが、要領を会得するにつれ、しだいに心地良い音が響いて、甚だご機嫌。搗いたそばから夫人が伸し棒と包丁を使って巧みに形をつけていった。(ちなみに夫人は、昨年ベルギーのトリエンナーレ展で大賞を受賞した国際的なファイバー・アーティスト石田智子氏)。
 終って一同、六十人近い子供たちと一緒に大広間で搗きたての餅と雑煮をごちそうになり、帰りには正月のお供え用の土産までもらった。寺にほど近いその日の宿の向かいが、玄侑氏のデビュー作「水の舳先」の舞台「ことほぎの湯」のモデルになった岩盤浴場。医者に見放された重症の湯治客にまじって、われわれもラジウムの噴き出す玉砂利に茣蓙を敷いて浴衣のまま腹這いになり、大粒の汗を流すこと三十分。通夜帰りの和尚を待って宿で飲み始めると、たちまち酔いが廻ったが、翌朝は宿酔はおろか、心配していた腰痛も出なかったのは、さすが「ことほぎの湯」の功徳であった。

Talk―― 金井美恵子vs青山真治トークショウ

 去る1月18日、青山ブックセンター本店カルチャーセンターで、「「噂の娘」刊行記念 金井美恵子氏トーク サイン会」が開催された。「足かけ五年」の歳月をかけた、金井氏の新しい長編小説の刊行に合わせて開かれたもので、ゲストには小説「ユリイカ」で、第十四回三島由紀夫賞を受賞した、映画監督の青山真治氏が招かれた。会場には、百名近い両者のファンが駆けつけ、和気藹々の雰囲気の中、トークショウが繰り広げられた。
 青山氏は、「噂の娘」の魅力を「小説の中の時間の飛び方が、眩暈のするほど魅力的で、映画的豊かさを持っている。シーンの飛び方、カットの飛び方が、鈴木清順的。成瀬巳喜男の題材を鈴木清順が編集しているといった感じ」と、いかにも映画監督らしく表現した。
 金井氏も、執筆にあたり、舞台になった商店街の地図や、美容院の見取り図をボール紙でまず作ったという話を披露し、「最初にはっきりさせなければならないのは空間、位置関係で、映画でいえばロケハン、セット制作、衣装、録音、メークを全部1人でこなしたようなものです」と、これ又映画通らしい言葉で、小説と映画に共通する部分を語った。
 二人のトークは、小説、映画はもとより、9月11日のテロ事件にまでおよび、聴衆は個性的な二人の話術を堪能した。
 この青山真治氏、現在、次号での発表に向けて受賞第一作「HELPLESS」を鋭意執筆中。乞うご期待。

Brandnew―― カンヅメになった鈴木弘樹氏

 昨年九月、「グラウンド」で第33回新潮新人賞を受賞した鈴木弘樹氏。「写真を撮られるのは苦手」「大勢の人間の前で喋るのはもっと苦手」ということで、小誌に顔写真はのらず、授賞式にも来なかった。
 今回掲載された受賞第一作「雨」は、「グラウンド」と同じ時期に第一稿が書かれたものだが、今月号に掲載するため一から書き直そうとした矢先、前作が今期芥川賞の候補作にノミネートされた。自宅に電話がなく、携帯電話も持っていないため、自宅で取材したいと記者達が押しかける日々がつづき、とうとう都内某所に自主的にカンヅメとなった。
 出版社がホテルなどを用意して集中的に机に向かってもらうことを「作家をカンヅメにする」というが、鈴木氏のカンヅメは極端だった。一日一食しか食べず、部屋の明かりも消して、10時間でも20時間でもひたすらワープロの画面に向かう。行き詰まっても席はたたず、傍にあった広辞苑や英和辞典を一頁二頁と読みながら次に書く言葉が訪れるまでひたすら待つ。睡眠は一日三時間で、起きるとすぐワープロに向かう、その繰り返し。
 作中に主人公の高柳が部屋の中で紙飛行機を飛ばすシーンがあるが、編集子が鈴木氏の様子を見に部屋を訪れると、実際に紙飛行機が散乱しており(不要になった第一稿の用紙が使われていた)、真っ暗闇に顔だけがぼおっと浮かび鈴木氏に向って、「大丈夫ですか。気分悪くなってないですか」と思わず声を掛けてしまった。
 作品が完成したのはカンヅメに入って八日目。最後の三日間は一度も眠らずに完成した渾身の力作(文体まですっかり生まれ変わった)に御注目を。

Memory―― 辻征夫遺作集『ゴーシュの肖像』刊行

 辻征夫さんが急死したのは、一昨年の1月14日のことだった。小誌に掲載した「遠ざかる島ふたたび」を推敲する最中の死で、直後、編集子が確認のため氏愛用のパソコンを開いたところ、未発表の文書があちこちに眠っていた。その行方がとても気がかりだったのだが、「辻はエッセイ集のための目次案をいくつか準備しておりました。このたび、それらを軸に『ゴーシュの肖像』として一巻に編みました」と未亡人の辻郁子さんからの挨拶状にある通り、単行本未収録の散文作品が一冊の本に集成された。先年刊行された『貨物船句集』に続き、会社を辞めて実現するはずだった生前の夢が、また一つ世に送り出されたことになる。
「詩の終りの自覚は、ある日劇的に訪れたのではなかった。それは徐々に静かにやって来た」(「最終詩篇」)と自ら記している通り、詩歴のピークと思えた時期に辻さんは詩とひそやかに訣別し、しかもほぼ同じ時期に脊髄小脳変性症という難病にとりつかれた。今となって振り返ると、この符合は、自らの成すべきことを知る本質的な詩人としての証拠であるように思えてならない。「辻にとっても、私にとっても、思いもかけぬこと」(前出挨拶状より)という急死であったが、その生の中断は、戦後を代表する詩人・作家の静かで深いドラマのように思えてならない。
『ゴーシュの肖像』を読むと、退職後に予定していたフルタイムの書き手としての、さまざまな構想がはしばしに感じ取れる。担当編集者としては残念至極だが、辻さんの可能性をあれこれ想像するのが近頃では少し楽しい習い性となった。
 谷川俊太郎氏ですら「羨ましい」と書き、死後ますます声価が高まった感のある抒情詩人・辻征夫の世界。本書の刊行が、読者諸賢にとっても新たな発見につながることを期待したい。(書肆山田刊・2800円)

Discover―― 埴谷雄高と井上靖の新資料

「とにかく到達しました。(略)走っていず、殆ど歩いて、文学としてまことに足りぬ思いですが、歩いてでもとにかく完走しただけでよしとしましょう」
 1946年に書き始められた埴谷雄高の「死霊」は、1991年まで延々と書き継がれたが、著者の死とともに未完に終わったとされている。が、遺族から昨年11月に神奈川近代文学館に寄贈された2万6000点に及ぶ資料の中に「付記」と書かれた原稿が見つかった。この「付記」によれば、冒頭引用したように、著者の意識としては「死霊」は完結(完走)したことになっていた。
 果たして、「死霊」は完結したのか? 資料の中には、小さなメモ用紙に書かれた未整理の約500枚の「創作メモ」も残されており今後の研究が待たれる。この他、1965年から1982年にかけて書かれた「英文日記」(174枚)や、9000通にも及ぶ来簡が注目される。
 書簡は、本多秋五195通、久保田正文136通など評論家からの来簡が多いが、作家からでは、北杜夫、辻邦生がともに60通、藤枝静男54通、堀田善衞53通などが目立つ。
 また、同文学館では、井上靖の資料の整理も進めていて、最近の調査で戦前の詩稿「秋」「十一月詩篇」ほか42枚が、新たに見つかった。草稿は、原稿用紙などから1930年から1932年の間に書かれたと見られ、もっとも初期の井上文学の原型を垣間見ることが出来る。この他、シルクロード取材ノート55冊、「孔子」創作ノート33冊、「本覚坊遺文」創作ノート6冊などのノート類や、4000通にも及ぶ来簡なども整理を待っている。今後、これらの資料は、「埴谷雄高文庫」「井上靖文庫」として、まとめられる予定だが、それに先立ち、1月26日から3月3日まで一般公開されている。
(連絡先 045-622-6666)

Opinion―― 作家の疎外米谷ふみ子

 引っ越しの最中に積み上げていた机上の「新潮」一月号をぱらっと開いたカ所が「一九九○年代作品年表」の頁でした。字面通り過去一○年間の作品年表であるととりましたので、私にも「遠い国から来た二人の女」「0線に向かって」「エル・ニニョ」「ファミリー・ビジネス」「千一本の火柱」「余震」「モンゴリアン・スポット」七作があり、これから「0線に向かって」と「ファミリー・ビジネス」を新潮社が本にして下さいました。エッセイ集も入れますと本は五冊になります。それで当然リストに入っていると思って眼を通したのですが、私の作品名が何も入っていません。ショックでした。載っている人々のものと比べてみても理由が判然としません。
 前書きに誰それが選んだとは書いてありません。書いてあると個人の好みの作品と納得します。このようなリストが印刷されますと、一応客観性を唱えているかに見えますので、後世の研究者や学生が参考にする恐れがあります。私は作家として一九八○年代後半には存在していたが、九○年代には何も書かなかったか、死んでしまったように取られ、誰も読んでくれなくなります。それが怖かったのです。誰がどの作品を好むかは読者の権利で押しつけであってはならないと思います。このリストはその権利を取り上げています。作品が一読者の心の琴線に触れることが文学を書く動機ではないでしょうか?
 前田編集長は、名前はおっしゃいませんでしたが他にも洩れた人はいますと述べられました。それでは、その方達や私の作品を一作でもよいからリストにして欲しいとお願いしたのです。結果的には抗議した私の一作だけになってしまいました。校了日で時間が無くなったからです。でも抗議した者にはデモクラチックに考慮してくださったことを感謝しています。

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