【冒頭部分掲載】

秘花

瀬戸内寂聴


    序
 漆黒の闇の中で、鵺に襲われていた。
 恐怖と不気味さに息が詰り、総身に鳥肌が立っている。纏いつかれ、圧えつけられ、締めつけられ、身動きが出来ない。
 闇に夢が塗りつぶされている。夢かとわかってからが、もっと恐ろしい。初めての夢ではないからだ。渾身の力を振り搾って、鵺から逃れようとあがけばあがくほど、鵺の怪力がみしみしと躯に加ってくる。
 その化物を見たこともないのに、わたしはよく識っていた。頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎、声は獰猛で、この上なく暗いという怪獣だ。
 この化物に取り憑かれたのは何時からか。
 鵺に殺されるか、わたしが鵺を殺すか。どうあってもわたしが鵺を殺さねばならぬ。鵺はもう一思いに殺してもいいほど痛めつけておきながら、最期にふっと気を抜いて、その場から消えていく。そんな死闘をつづけて、数えてみればすでに三年の歳月が消されていた。
 拷問と恐怖の涯に残る極限の疲労の中で、犯されきらなかった安堵が、いつの間にか、中断された凌辱への不満に変っているのに気付くのであった。
 能の大成者で能聖と崇められている世阿弥の晩年の謎に迫りたいと思ってから三年が過ぎている。
 世阿弥のおびただしい作能の中で、「鵺」ほど哀しい作はないと感じた時から、わたしは鵺こそ世阿弥の心の闇だと思いこみはじめていた。
 犯されまいと抗ったのではなく、犯されたくて夢の中まで身悶えしていたのではなかったか。そう気がついた時、ようやくわたしの錆びかかったペンが、たっぷりとインクを吸いあげていた。


続きは本誌にてお楽しみ下さい。