立ち読み:新潮 2010年1月号

【特別対談】情報革命期の純文学/東 浩紀平野啓一郎(「新潮」2010年1月号より転載)

批評家はなぜ小説を書いたか
読者との関係の中で考える
批評のコンテクスト依存
日本文学最大の危機
文壇復活の意味
情報の過多をいかに統合するか
文体・プロット・場面
世界観の代理人としてのキャラクター
純文学の淘汰と再生

編集部 平野啓一郎さんの書き下ろし長編『ドーン』(講談社刊、2009)と東浩紀さんの単著としては初の小説『クォンタム・ファミリーズ』(小社12月刊)には興味深い共通点があります。まず、二〇三〇年代の近未来が舞台である。そしていずれも、超高度情報化社会の人間あるいは世界の〈同一性障害〉を描いた作品です。人間の同一性障害は『ドーン』における「分人dividual」という概念に象徴され、世界の同一性障害は『クォンタム・ファミリーズ』における並行世界という設定に象徴されます。お二人が、シンクロするかのように近未来の視点から現在を照射する力作を書かれたのに際して、初めて語り合っていただきます。

平野 『ドーン』の設定では、主人公である宇宙飛行士が火星から地球に帰還したのが二〇三六年なんですが、東さんの『クォンタム・ファミリーズ』(以下『クォンタム』)を読んだら、時代設定がほぼ同じだったので、驚きました。僕の場合、人類が火星に行って帰ってこれるのがいつ頃なのかを調べた結果、最短で二〇三〇年代だろうって意見が多かったんですね。それと物語に大きくかかわるアメリカ大統領選の四年周期を考えると、二〇三六年という年号が自ずと出てきたんです。さらに言えば、今マンションを買う人が三十五年ローンを組むと、二〇三六年はまだ支払い終わってなくて、未来ではあるけど現実感がある時期です。小説の後半に、老人になったブルース・スプリングスティーンを登場させたんですけど、ブログの感想を読んでると、あそこに反応した人がけっこういました。二〇三六年ならまだ彼も生きているかもしれないと(笑)。ですから、単なる寓話として未来を書くというよりも、もう一回そこを経由して現代を考えられる距離感が大切だったんです。

東 僕のほうも一応は設定上の理由があるんですが、直感的なものでもありました。うちの娘が二〇〇五年生まれなんですが、彼女が三十歳になるのが二〇三五年なんです。結局平野さんがおっしゃったのと同じことで、現在から手の届くギリギリの未来という感じですね。

平野 『クォンタム』では並行世界を描かれていますが、そのせいで、現在からリアルに想像できる未来も、実際にはありえないような未来も同時に描けるというのは設定の強みだと思いました。

東 ありがとうございます。

平野 『クォンタム』の最初のほうでは、「量子脳計算機科学」の理論にけっこうなボリュームが割かれてますけど、あれはどうなんですか。あれだけ詳しく書いたのは、やっぱりあそこが重要なんですかね。

東 確かに長すぎたかもしれませんが、あれは作品の中で本質といえば本質なんです。『クォンタム』っていくつも世界がある話のようですけど、実は、全部が計算機が見てる夢という話でもある。

平野 ええ。ちょっと円城塔さんの『Self-Reference ENGINE』を思い出しました。

東 でも円城さんとはちょっと違っていて、この物理的な世界そのものが計算機みたいなもので、だからデータを別様に解釈するとまた別の世界が出力されてくる――そういう世界観を書きたかったんですよね。というわけで、それを支える世界観の部分が長くなってしまうのはしょうがないというか、あれがないと単純な多世界宇宙SFになってしまうと思って。

平野 僕はボルヘスの「八岐の園」という短篇を思い出しました。物語の中で何か出来事が起こるたびに、あれかこれかのプロットの選択をせずに、そこから考えられる分岐の可能性を全部書くという人の話です。すごく好きな作品だったんだけど、『クォンタム』を読んでもう一回考えた時に、なんかあの話って変だなと思ったんです。
どういうことかというと、あれはフィクション論ですが、何か起こった時にすべての展開のパターンを網羅的に考えられるという前提の話なんですね。なんとなく納得するんですが、他方、実際の人生の分岐点って、結局、過去を振り返って、主体を中心に、恣意的に決定されるポイントなんだと思うんですよ。東さんが小説で書いた人生の折り返しとしての「三十五歳問題」みたいなのも、自分の人生を振り返って、現時点からそれを言語化していく中で、あそこが自分の分岐点で、違う選択をしていたら違う人生があったというようなことを、想定するわけですよね。そこから並行世界の想像というのが湧いてくる。こうなり得たかもしれない自分と世界という。だけど、それは言語化の中で起こることだから、Y字路みたいな物理的な実体として過去に分岐点があるわけでは当然ない。過去をどういう言葉で語って、どこを分岐点と定めて、どんなパターンを考えるかによって、想像される並行世界は全然違ってくる。
だから、忘れてしまっているような、どんな些細な一瞬でも、原理的には分岐点として想定しうるし、東さんが言われてるみたいにバタフライ効果みたいなことまで考えだすと、分岐点が一体どこに潜んでるかわからなくなってしまう。大学入試の合否とかは分かりやすい分岐点かもしれないけど、ぼーっとテレビを見ていた時に、突然何かを思いついたはずだとか、どっかの蝶が羽ばたいたかもしれないとか、そういう分岐点が潜んでいたのかもしれない。そうすると、極端な話、三十五年間の無限に細かい一瞬一瞬が全部分岐点になってしまって、並行世界は収拾がつかなくなってしまう。
結局、フィクションに於ける分岐点っていう発想は、外部からの影響がない世界の中で、主体を中心に組み立てられたプロットだからこそ出てくるんだなと思ったんです。中心的なプロットを設定せずに、完全に等価な並行世界を描くのはボルヘスが考えたほど簡単じゃないなと。実際の創作では、その無数に細かい分岐点を排除しながらプロットを考えてるんだと思いますけど、『クォンタム』を読むまで、そういうふうに考えてみたことがなかったんですね。東さんが描こうとした世界観を理解しそこなっているかもしれませんが。

東 『クォンタム』で書こうとしたのは、哲学書と小説という違いはありますが、僕がデビュー作『存在論的、郵便的』以来、考えている問題です。つまり、一方において僕たちは無数の可能性の世界を想像することができ、他方において一回の生しか送れない。普通はどっちかが大切だってことになるわけですが、それをもう少し上のレベルで統合できないか。今回の作品で言えば、さっき言ったみたいに単純に並行世界を書いたつもりではない。むしろ、人はどうしても並行世界があるように感じてしまうし、そんな錯覚によって人生が変わってしまうこともまた真実だ、そういう意味で可能世界があることとないことは等しいのだ、という寓話を書いたつもりです。

平野 思ってしまうってことですね。計算機の夢みたいな感触は、第二部で特によく出ていたと思います。全体として、批評では扱えない設定やテーマが盛り込まれているし、あと、文章の勢いというのか、すごいエネルギーを発散しながら書いてる感じは、作家がこれを書く必然性があったということが伝わってきました。

批評家はなぜ小説を書いたか

東 なんで僕が小説を書いたか。これから何回も問われる質問でしょうから、何かいい説明を考えとかなきゃいけないんでしょうが……僕の場合、なんで小説を書いたかが問題なのではなくて、なんで批評を書いてきたのかのほうが問題なのかもしれません(笑)。

平野 どういうことですか。

東 まず言えるのは、ここ二十年間ぐらい、思想や批評の表現が驚くほど不自由になってきてるということです。そこでやれることには限界がある。その点では僕は批評家としては割り切ってきている。批評で世の中を動かそうと思ったら、ちまちま評論を書くより、テレビに出たりブログを書いたりするほうがよほど効率がいい。

平野 ああ(笑)。

東 その状況であえて文章を書くことの意味を考えた場合、もう趣味で書くしかない。だとすれば小説でもいい、というか小説こそいいのではないか。小説ではまだ、趣味で書くことと社会に影響を与えることがそんなに分化してないように見えますしね。小説であれば、僕が昔使っていた言葉でいえば「誤配」される可能性があるかもしれない。残念ながら、いま批評や思想の世界で誤配を起こすのはとても難しい。

平野 評論の部数が減ったというよりも、書いたことが広がらないためにモチベーション上がらないということなんですか。

東 うーん、なんといえばいいか……。

平野 部数でいうと、今、純文学って一万部売れれば出版社もけっこう喜ぶくらいの規模になってて、それって単純に日本の人口の〇・〇一パーセント弱とかでしょう。僕自身もやっぱり自分の作品の影響力ってことは考えるんですけど、そういう意味では悲観することもあるし、同時に、まあ結局は、好きで書いてるってことが何よりも先に立っているところもある。東さんがあえて小説を選ぶというのは、趣味的なレベルのもうちょっと先にある話ですか?

東 批評というのは、ある意味で小説よりもはるかに競争が過酷なところがあって、一時代に一人しか残らないんですよ。せいぜい二人か三人。同時代にいろんな人が書いていても、完膚なきまでに忘れ去られる。批評の歴史というのはそういうものなんですよね。

平野 でも、それは環境の変化によって変わるものでもないんですか。

東 いや、そうじゃないと思います。批評もしくは思想というのは、ある種の時代精神を体現せざるをえない、というか時代精神をむしろ作ってしまうものなので、決定的な書き手はそんなに共存できないんです。だから、それは必然的にゲームになる。批評は別にゼロ年代にゲームになったわけじゃない、本質的にそういう部分をもっているんです。そして僕は、この十年間で比較的そのゲームに勝ったと思うんですが、「三十五歳問題」とも密接に関係する話ですが、最近いろいろ面倒になってきてしまった。

平野 文学史の場合、戦後は結局、「第三の新人」とか「内向の世代」とか、完全に世代論になってしまいましたが、明治の頃ってそうじゃなかったでしょう? 耽美派と自然主義は同時代にあったし、硯友社のように結社的なものもあった。あれは中央集権化される前の藩のイメージを引き摺っている人たちの感覚だったと思うんです。それが戦後になって世代論的になりましたけど、元々、一時代の多様な作家を同一性の下に一括りに出来るはずないんだし、「J文学」にいたっては名称は完全に形骸化してしまいました。僕は今みたいに作家の多様性が確保されているのはいいことだと思うんです。批評の場合、そういう話にはならないんですかね?

東 批評という言葉で何を指すかですけど、例えば「折口信夫が好きだから折口論やってます」というスタイルは、それは今後も絶対に残るでしょう。でもそれは文学研究ですよね。学者が時々文芸誌に書くというタイプのものはあるだろうけど、それは批評じゃなくて文学研究の多様性です。僕の実感として言えば、批評というのは、すごくアクロバティックなメタゲームなんですね。要はだれが一番頭がよく見えるか、だれがいちばんメタに立てるかってことだけをやっている世界で、スポーツに近い。多様な可能性を生かすという条件にないんです。批評というゲームそのものが。

平野 それはその政治性も含めてということですか。

東 政治性というか……。昔だったらイデオロギー的な対立があったけど、今はそれもないですよね。

平野 どれぐらいの規模で批評のプレゼンスを考えるのかによると思いますけど、実際に頭のいい人が影響力を持つようになってます?

東 いや、それは本当に頭がいいかどうかとは関係がない。ただそういうゲームがあるというだけです。

平野 そのことにうんざりしてると?

東 そうですね……。僕の場合、両義的に答えざるをえないですね。一方で、思想や批評には、潜在的にはおそらく三万か四万ぐらいの読者がいるので、僕はその市場をきちんと掴み、後続を育てるべきだと考えています。たとえば今『思想地図』という批評誌をやっていて、初版一万部出ていますけれど、あの読者はもう少し増えると思うんですよ。そうすれば批評は活気づくし、市場も再起動する。そういう試みは粛々とやるべきだと思いますし、今後も続けていく予定です。しかし、同時にそれはやっぱりゲームだとも思っている。やったほうが世の中のためになると思うからやるけれども、やりながらうんざりするときもある。というわけで小説を書いたって感じですね。
ちなみに批評家・東浩紀としてしゃべりますが、僕は『ドーン』を評価しています。二〇〇九年に純文学から出てきた小説で、若手作家で残るものは平野さんの『ドーン』と川上未映子さんの『ヘヴン』なんじゃないでしょうか。というのも、『ヘヴン』と『ドーン』だけが、外部の読者に向けて純文学を再生しようと試みているように見えるからです。ただこの二作にも違いはある。『ドーン』は純文学の外部をなんとか取り込もうとしているのに対して、『ヘヴン』はむしろ純文学のなかに箱庭を作ろうとしているように見える。

平野 まあ、そうかもしれません。

東 だから、よく知りませんが『ヘヴン』のほうがおそらく評判はよいのでしょう。けれどもあの方向は逃げ道がない。これは小説の出来不出来ってことじゃありません。『ヘヴン』はよくできている小説です。でも未来がない感じがする。そういう点でいうと、『決壊』から『ドーン』にいたる平野さんの試みは、応援するべきであると僕は思うわけです。
それは言い替えれば、平野さんは純文学を外部の読者に対して開こうと思っているということだと思います。つまり文学に責任を感じているわけです。僕はその点で、平野さんや川上さんのような作家が出てきて本当によかったと思っています。だれということはないのですが、芥川賞をとったから後は自分の好きなものを書きます、それが文学的良心だと思います、みたいなことを言う人とは僕はあまり同席したくないんです。そういう発言は、自分は逃げ切れると思います、と言ってるだけのように聞こえますからね。

平野 でも、いずれ逃げ切れなくなるでしょうね、今の状況からすると。

読者との関係の中で考える

平野 今、東さんに好意的に解釈してもらったのはすごくうれしいんですけど、はっきり言って、さっきの読者数問題だけでも、純文学で日本語を変えるとか、美しい日本語がどうとか言ってても、ネットの世界で起こってる言葉の変化に比べたら、黄河の片隅の清らかな小川みたいなものじゃないですか(笑)。そこにコネクトする経路が何もないまま、「文学は素晴らしい」みたいなことを言ってても仕方ないと思うんです。何の意味もないとは言わないけれど。

東 いや、端的に何の意味もないですよ。「何の意味もないとは言わないけれど」とか譲歩してるから、ますますひどいことになっている。そこは平野さんのような方がはっきり言ったほうがいいかも。

平野 いや、まあ僕は、そうしばらく言ってたけど、だんだん、自分のことだけでいいような感じがしてきてるんです。

東 それは残念だ(笑)。

平野 僕が文学シーンの全体に対して責任を持つという感じはないんです。そう期待されてるとも思いません。ただ、対社会という意味では、自分は文学者だと思っています。そして、今の世の中では、俺は本当にマイノリティに属してるんだなと思うんです。で、マイノリティの重要さというのを確信すればするほど、いかにマジョリティに対して戦略的にアプローチするかってことを考えざるをえないんですね。啓蒙主義的に「マイノリティのことを尊重しなさい」とか言っても意味がないし、そういう中で、マーケットに食い込んでいけるように、文学をコンテンツのレベルから徹底的に考えないと絶対にうまくいかない。どんなに宣伝を頑張っても、今や文学の評価が全面的に読者の側に移ってきてるから、いくら同業者や批評家が褒めても、実際に評価軸を動かしているのはブログやアマゾンのレビューです。
そういう中で、文学の世界の住人である自分としては、読者との回路を考える必要を感じるんです。文学を内側から考えるのも勿論、大事だけど、今は外側から考える時期でしょう。そもそも、ポーみたいな人の詩論でも「効果」っていうことを強調するわけだし、漱石の「還元的感化論」でもなんでもいいけど、もっと読者との関係の中で小説を考えるべきだと思うんですよ。で、その時に理想的な文学愛好家をナルシスティックに想定してもしょうがない。今のリアルな読者を考えないと。文学が変わるってそういうことだと思う。
けど、そういう話を文壇の世界で言っても通じない局面がいっぱいあって、だんだん面倒くさくなってきてるんですよ。関心を持ってくれる人には熱心に話しますけど、なんか軽薄なこと言ってるくらいにしか思わない人もいるでしょう。

東 文芸誌の作家の多くが、自分は好きなものを書ければいいって人たちになっちゃったんでしょうね。それは深刻な問題ですね。

平野 ネットの登場が如実でしたけど、大きな世代間ギャップができてしまいました。それは作家のあいだにもあるし、読者のあいだにもありますね。
僕はメディアに着目して、人間の時間の使い方を三層ぐらいに分けて考えるんです。時空間的に、どれくらいの規模の人とコミュニケートできるかということだと思うんですけど。身体を媒介にするコミュニケーションの層と、それから出版印刷を中心とするマスメディアの層、それからインターネットというメディアの層ですね。その三層の中で小説を考えた時に、伝統的な私小説は身体を媒介にした対面コミュニケーションだけを書いてきました。他方で、漱石や鴎外は明治の作家であっても、書物というマスメディアの層を通じて計ったコミュニケーションの成果を取り入れながら書きました。日常生活を描きつつ、ゲーテがこう言ってるとか、書くわけですね。そして今、ネットという新しい三層目が登場して、人間の生活に圧倒的な影響を及ぼしているにもかかわらず、いまだに一層目と二層目しか扱わない小説の方がやっぱり多いです。だけど、さっき『ヘヴン』について言われた話に関係するかもしれないけど、その二層は、かなり書き尽くされてるんですよ。九〇年代の感覚はそれだったと思う。確かに一つの事件を書くにしても、層が一つずつ増えていくわけですから情報量はものすごく増えていて、にもかかわらず、読者が本を読む時間自体はどんどん減ってるわけだから、どういうふうに情報を圧縮して読ませるかというのはすごく考えるべきところなんですが。

東 まあ、それは構造的な問題で、文芸誌はそもそも高齢の読者に支えられている。だから彼らに向けて最適化したコンテンツを出そうとすれば現状になるんでしょう。そしてそういう古いシステムに寄生していれば、若い書き手もそれなりに生きていける。だからみんな局所的には最適です。しかし全体としては沈没していく。
とはいえ僕は文芸誌の人間ではありません。だから僕はある意味では平野さん以上に冷めていて、当事者が望めばなんでもいいと思うんです。それに僕はサブカル評論家でもあって、ネットしか知らない人たちの無教養や問題もよく知っている。けれどもそれでも、新しいことしか知らないやつと古いことしか知らないやつのどっちがいいかって言ったら、まあ新しいことしか知らないやつといたほうが楽しいかなあと。ひとことで言えば、それが僕が批評家としてサブカルやオタクに比重を移した理由ですね。

平野 僕はその考えに、今はわりと賛同するんです。僕の経歴はそう見えないかもしれないけど。たとえば、過去の小説を読むことが創作する上で意味があるというのは、勿論そうですけど、外向きという意味で言うと、いまや教養の共有が不可能になってるでしょう。しかも、今後ますます膨大な情報が、淘汰もされずにデータ化されて蓄積されていく。そんな玉石混交の中から何を自分でチョイスして、どうやって自分の中の教養として編集するのかというのは、完全に各自バラバラになっていくと思います。そういう意味で僕は、いいものなら残るはずだみたいな考えも、今はあんまり信用してないんです。ちょうど音楽でレアグルーヴのブームが起こった時に講談社文芸文庫が出たのは同期的だったと思うんですけど、ああいうことはもう起こらない気がする。知られざる傑作を見つけてきても、そんなの別にグーグルの図書館にデータ化されてあるんだから、それをある人が自分の好みで編集しただけでしょって話になる。

批評のコンテクスト依存

東 少し話が戻りますけど、さっき僕が言ったのはもっと素朴な話で、つまり文学というか小説は時代を越えて共感することが可能ですよね。というか、そういう装置として作られてるわけです。ところが、思想や批評はコンテクスト込みで作品なんですよ。ここは難しいところで、僕が考えるに、多くの小説家が評論をうまく書けない理由はまさにそこにある。というのも、小説家はテクストだけで読者を感心させようとするわけです。けれどもじつは評論はそういうものじゃなくて、そのテクストの外のコンテクスト全部込み込みで作品なんですね。だから、たとえば「なんで東さんはブログやってんの?」とか言われると、僕はそういう人は批評がわかってないなあと思う。批評の読者は僕のテクストを、ブログを書いてるとか『朝まで生テレビ!』に出てるとか、すべての情報を込みで受け取り読むわけです。批評というのは原理的にそういうものです。だからブログも僕にとっては不可欠な一部になっている。
これは言い替えれば、批評というのは、自分で自分が読まれるコンテクストを演出していく表現だということです。だから、さっき言ったみたいに、一つの時代に少数の批評家しか残らない。自分のテクストの価値をうまくセッティングできたやつが勝つんですね。これは批評の本質なんですよ。

平野 平たく言うと、マスメディアでのプレゼンスをそれなりに維持しなくてはいけないということなんですか。

東 いや、必ずしもマスメディアでのプレゼンスってだけじゃなくて、セッティングの方法はなんでもいいんです。僕はもともとフランス現代思想の人間だったわけだけど、現代思想のテクストってすごくコンテクスト依存的なんですよね。とくにデリダについては、従来の哲学がいかにコンテクスト依存的だったか、それを発見するのが中心的な思想でしたからね。
しかし、そういう思想のコンテクスト依存性は必ずしも弱点ではなくて、例えば今も僕たちはカントを読みますね。カントの思想それ自体は単に非科学的だったりするのに、今も読めるのは、つまりはその後の二世紀の哲学がカントが作ったコンテクストでの内部で動いているからです。だからアクチュアリティがある。けれども、カントと同世代にいた人間は、単純に生き残ってないので、時代を越えて読み直すコンテクストがもう作れないわけです。

平野 そのコンテクストを複数化することってできないんですかね。

東 それは互いに話が通じない島宇宙になるだけですね。やっぱり批評は、領域横断的にいろんな人たちが交流する場を提供するのが役割なので、できるだけ多くのコンテクストを統合したほうがいい。でも、その時の統合のしかたが、さっき言ったみたいに、純粋にテクストだけを統合するという感じにはならないんです。これは理論的な話というより、僕がずっとやってきての実感です。

平野 まあ、レジス・ドブレも『メディオロジー宣言』でそのような話をしてますけどね。

東 小説はコンテクストを作らなくても読者が勝手に感情移入してくれる装置、具体的には「登場人物」という装置を持っている。バフチンがドストエフスキーの作品世界をポリフォニーと呼んだように、小説には登場人物がいっぱいいる。その意味では、批評には登場人物が「私」ひとりしかいないんですよ。

平野 それで言うと、小説の場合、世界観のエージェントとしての登場人物たちが具体的にぶつかってくれないと、話が動かないところがありますね。映画でも、『ターミネーター』だったら、あのスカイネットというのを代表するエージェントとしてターミネーターがいなきゃいけないし、『マトリックス』はまさにエージェントだし。だから、ドストエフスキーの場合も、複数の思想のエージェント同士が議論してる感じですね。

東 そう。この問題はけっこう重要で、思想の専門家というのは思想史を小説のように読んでるんですよね。

平野 ええ、そうですね。

東 というか、私見では批評の才能はそれに尽きます。現実の人間を登場人物のように見なす能力。そのレベルに立てるか立てないかは、身体感覚みたいなもので、立てるひとは最初から立てる。

平野 確かに、フーコーの『性の歴史』とかを読んでて面白いのは、「こう言われてきたけど、違う、こうだ」というような、徹底して対話篇的に、議論が擬人化されてるせいですね。

東 本当にいい思想史は小説のように読めるんですよね。とはいえ、いずれにしろ、僕はそういうゲームの中で一人の登場人物として振る舞うのに疲れてしまった(笑)。少なくとも僕の半分は。

日本文学最大の危機

東 現代は、明治維新以降で日本文学が最も危機にさらされている時だと思います。

平野 ええ、そう思いますよ、僕も。

東 だから文学はいま、明治維新の時に直面した問題ともう一度向き合っている。例えばライトノベル。人はサブカルチャーの問題だと思ってるんだけど、僕はあれは新しい言文一致の問題だと思う。そのうえで明治には、江戸期から続く戯作と漢籍とヨーロッパから輸入された新しい文学をどういうふうに接続するか、みな一生懸命考えたわけじゃないですか。水村美苗さんが褒め称える漱石がまさにそうですね。しかし、じつはいま、まさに同じことが足元で問われている。その時にひとつ思ったのは、明治期には、出版社兼批評家兼小説家みたいなやつがけっこういたじゃないかと。それに比べて今はどうか。全然いない。

平野 今難しいのは、言と文とがそれぞれに多様化し過ぎていて、どれかとどれかをコネクトさせても明治のような言文一致に見えないことだと思うんですよ。

東 うーん。どうでしょう。僕の考えでは、問題はむしろきわめて具体的に市場の分割の問題だと思うんです。ラノベと純文学の融合なんて、理念でもなんでもなく、『涼宮ハルヒの憂鬱』読者の半分ぐらいが手に取る純文学作品を書けばいいという、ただそれだけの話なのではないか。それは原理的に無理というものでもない。明治期の言文一致もそういう話だと思うんです。戯作しか読んでない人がいる一方で、漢籍しか読まないやつがいたり外国文学を読んでいるやつがいたりする。そのマーケットをどう統合するか、どう「共通言語」を作るかという話だったのではないか。言文一致という言い方をしてしまうと、まずは言と文を一致させるって理念があって、それに向けて書いたみたいに見えるんだけど、実際にはもっと切実な問題だったんじゃないかな。

平野 ただ、西尾維新さんの本とか、今どれぐらい売れてるかわからないんですけど、仮に二十万人読者がいるとして、さっきの話で言えば人口の〇・二パーセントでしょう。本を読む人の中でそれがどれくらいの比率なのか分からないけど、そこのマーケットとの統合が、新しい言文一致になるのかなって。もっと趣味的な話になりそうですが。

東 いや、平野さん、それは違うと思う。今ライトノベルとかケータイ小説とか、もしくは『ダ・ヴィンチ』系のエンタメ小説がなんで優位なのかというと、あれは映像文化へのアクセスを持ってるからです。

平野 ああ、それはありますね。

東 つまり、彼らは実際の部数の何十倍の影響力を持つ可能性がある。純文学からはその回路が開けていない。ここに決定的な差があって、部数だけで見ると、川上未映子さんの『ヘヴン』が西尾維新と極端には違わないじゃないかといっても、それはやはり違うんです。もちろん、売れてりゃいいってわけじゃないですよ。ただ、想像力の源泉として何回も再利用される場に純文学がアクセスできなくなっているのは、まあ問題なのかなあと。

平野 それはそう思います。

東 そういう点では村上春樹はずばぬけている。部数の問題じゃないんです。純文学は読まないけど、村上春樹だけは読んでいるという作家たちがエンタメには大量にいる。そしてそれを通じて想像力の感染が起きている。となってくると、純文学の書き手も、少しは映像化される小説を書いたらいいのかなあと、えらく具体的な話になってしまうのだけど(笑)。

平野 いや、それは自覚的な作家はみんな考えることだと思いますよ。

東 ところが、このあいだ宇野常寛さんに聞いたら、二〇〇八年に純文学作品で映画化され劇場公開された作品は、小谷野敦原作の『童貞放浪記』だけらしいですね。

平野 僕は文学が特に好きな五千人くらいの読者層と、けっこう本を読むっていう五万人くらいの読者層の性格って、かなり違うと思うんですよ。二千人刻みくらいで、変化するんじゃないかな。で、出来れば、複数の層の読者にマルチに対応するような作品を書きたいと思うわけです。数万人単位のレイヤーに向けて、どれくらいアクセスポイントを設置できるかということを考えるんですが、大きな映画会社の人と話すと、彼らは逆に百万人へのアクセスポイントはあるけれども、より深い層に向けてアクセスポイントを作っていきたいと言うんですね。で、現に文学の原作を探している。僕にもアプローチはよくあるんですが、実際には、なかなか企画会議に通りにくいというのが実情です。

東 「企画会議つぶれる問題」はよくわかりますね。先行世代を批判してもしかたないですが、彼らが好き勝手にやっていたために、文学や批評そのものへの社会的信頼が地に墜ちているという現実はある。だから、平野さんとか川上さんとかの本がちゃんと売れて、しかも作家としてのキャラクターが立ち世の中に出ていくのは、とても重要なことですね。そういう努力なしに、水村美苗さん風に「われわれには尊い日本文学の伝統がある」と言っても、だれも耳を傾けてくれない。

平野 まあ、九〇年代までは一般の読者が何考えてるかというのがあまりにも可視化されなかったから、気がついたら文学と読者の間にすごい距離が生まれてたというのはありますね。

東 純文学がもしエンタメと自分を区別したいのであれば、そこで文学者が果たすべき社会的な役割って、要は「小説を書くことに対して自覚的である」ということしかないと思うんです。その自覚性がなくなってしまえば、純文学作家とエンタメ作家は区別不可能です。純文学作家が部数が少ないのになぜ偉そうな顔をしているのかといえば、「俺らは文学について考えているからだ」ってことにしかないでしょう。

平野 まあ、そうですね。実際、このご時世で、出版社の中でも一、二万部しか売れない文芸編集者が大きな顔をしてたら、漫画の部署の人たちが「俺たちは二百万部売ってるのに」と思うのは当然です。

東 純文学は市場原理では適わないわけですから、じゃあ、どうやって勝つかといったら、「こっちが頭いい」と言うしかないわけです(笑)。

平野 「いいこと言ってる」とか「人生変わった」とかね。

東 それなのに今の純文学はどうだ、と僕は時々文芸誌の対談を読みながら一読者として思うわけです。こういうことを言うとまた批判されるのだろうけど、本当に素朴に読者として思うんですよ。とても頭がいいように思えない。これでは売れている作家に負けるに決まっているなあと。

平野 大体、社会適応能力がない人が作家になるわけじゃないですか。だから、その人が好きなことを書いて、社会がウェルカムと言って受け入れるはずないんですよ(笑)。で、これは僕が文学の現場で感じる実感ですが、出版社に入って文芸をやりたい人って、もちろん、文学好きの人が多いし、作家に対してある種のリスペクトがあるんだと思います。だから、作家がわけのわかんないものを書いた時に、編集者自身がそれを、良くも悪くも理解しようとする。その結果、作家と編集者のあいだで盛り上がっても、営業部では「いや、これはちょっと……」と言われ、で、書店でも「うーん」となって、結局、読者に持っていった時にもさっぱり評判にもならないという。

東 そうですね。

平野 今、演劇ではサイモン・マクバーニーにせよ野田秀樹さんにせよ、俳優たちとワークショップをやりながら作品を作っていくという方法がうまくいってますけど、作家もここぞという作品に取り組む時には、たとえば二、三人の編集者と組んで、複数の視点から作品を検討して、社会化を図るというような手立てが講じられてもいいと思いますね。文学シーン全体でいうと、若い人が面白いことをやって、それが社会に受け入れられ、それを無視できない先行世代が影響を受けるというような循環的な回路があるべきなんですが、このままの状況だと、若い人たちは本を出せなくなってしまう。今は食っていくためには売れなきゃいけないみたいなとこから泥臭く考えていくことがすごく必要だと思うんです。

東 そうですね。でもあまり危機感はないかもしれないですね。少なくとも僕の仄聞するかぎりでは。

平野 でも、今、文芸誌で書いてて危機感がないという人たちは、もう滅びるしかないんじゃないですか。

東 長期的には滅びるんだけど、十年間ぐらい滅びない。ほら、郵便局とかそういうのと同じですよ(笑)。繰り返しますけど、僕は文芸誌の人間ではないので、その内部の論理はよくわかりません。ただ外野の人間として感想を言わせていただくと、「もしかりに」文学に市場主義とは別に価値があるというのであれば、やはりなんらかのかたちでその価値を提示しなければならないし、具体的に読者からも信頼を調達しなければいけないだろうと思います。そのためには、もっと外部に向けて文学の価値をちゃんとプレゼンテーション、しかもポジティブにプレゼンテーションしなきゃいけない。だけど、今あるプレゼンテーションは「ケータイ小説は文学じゃない」とか基本的にネガティブなものだし、あとは「自分の書きたいものを書きたい」というとても内向的なものに見えます。むろん、これはあくまでもぼくの感想ですが。

平野 問題意識としては僕も一緒です。僕は「分人主義dividualism」ということを『ドーン』に書いたんですけど、あれは深遠にして複雑な思想を語りたいとかじゃなくて、なるだけプラグマティックな、生きていくうえで使い勝手のいいデザインの概念にしたかったんですね。キャラとか仮面とか、いろいろな言われ方をしてたけど、その比率を考えるとか、仮面を愛して生きるとか、あるキャラを愛してそれをベースにして生きるというのは発想として難しいから、対人関係ごとに自分が分化するという考え方に整理して、分化した複数の自分のバランスを考えつつ、その中にひとつでも好きな「分人」があれば、そこを足場に生きていけばいいということを、分かりやすく言いたかったんです。文学作品が、社会に対して実践的に関わっていくためのアクセスポイントみたいなものとして書いたんです。

文壇復活の意味

平野 今、分析的なことに関心を示す読者って本当に少なくて、やっぱり共感を求めてる読者のボリュームが一番多いですけど、三千人ぐらいの人が共感するストーリーと、それこそ十万人が共感するストーリーって全然違う。それはもう無視できない現実です。そのとき、マルチな読者層にアクセスしつつ、時間を忘れて読んで、ああ、面白かったというエンターテインメントの満足だけじゃなくて、読み終わったあとにも、何か重要なものが残るというような作品を考えるべきだと思うんです。実際、海外のTVドラマ、例えば『ER』とか見ても、けっこう人間の生き死にについて考えたりする人、多いと思うんですよ。

東 アメリカのエンターテインメントって、やはりすごくよくできてますからね。

平野 視聴者の生活時間の中から、絶対に毎週一時間は取ってくるっていう感じで、ものすごく考えて作り込まれていますよね。それは、ドラマも映画もそうですけど、文学も時間芸術である限りは、どうしても人を作品の前に括り付けるということが必要なんですよ。
絵画とか写真ってどんなに壮大で、メチャクチャな表現でも、極端な話、五秒ぐらいで見れるじゃないですか。だけど文学は数時間から数週間をかけないと鑑賞できない。時間をかけることに対してみんながすごくシビアになってる中で、よっぽど面白くて、よっぽど何か得るものがないと読まれなくなってる。そういう意味で、文学はどうしても詩みたいに純化しきれないジャンルだと感じます。おまけに、アートみたいにクオリティを価格に転化できない。同じ薄利多売でも料理や服はそれが出来ますが。

東 いま平野さんがおっしゃった文章のクオリティって、つまり文体ですよね。ところが、文体ほど誰も読んでないものはない(笑)。

平野 今は特にそうです。

東 極論を言えば、文体はいまや作家の自己満足の領域なんですよ。

平野 僕のこの十年ぐらいの感触で言うと、文体に対する評価は、本当に、読みやすいか読みにくいかってことだけになってる。ブログの感想を見てても如実です。

東 むろん、だからといって、文体のよさを捨てる必要はまったくない。ただ、文体のよさに時間をかけることができる、その余裕をどうやって調達するかというだけの話です。だから面白い物語を作ればいい。単純にそう思います。ただ、その時に、文体のよさこそが、それだけがわれわれの売りなんだというロジックがありますね。純文学は文体だ、エンタメは物語だ、みたいな二分法。蓮實重彦氏が広めたものですが、いまではそれは自滅のロジックです。

平野 うまくいかないですね、それは。

東 いい文章を書くためには余暇が必要だ。そのためにはいい物語を書いて売れなければならない。これはとても明確な話だと思います。さきほど平野さんは、エンターテインメントはパッと読んでハイ終わり、純文学は残ると言ったけど、問題は「残る」ということの意味です。個人の中で残るというのもあるんだと思うけど、やっぱり文学に力があるとすれば、集団の中で残っていくことなんですよ。

平野 ああ、そうですね。

東 それはつまり、その作品が語られ続けるってことです。今でも純文学は、かろうじて中間小説誌の小説より話題になっているかもしれない。部数が低くても議論は呼んでいるかもしれない。だとすれば、純文学が持っているそんな議論喚起の能力をもう少し研ぎ澄ますのもひとつの道です。この点では、純文学が批評を敵視するのもまた自滅の道だと思います。日本において、批評と文学は明治の草創期から二人三脚でやってきたわけで、もう少し批評家の価値を文芸誌も認識したほうがいいとは思いますけれど。純粋に功利的に。

平野 コミュニケーションは、高尚であろうとなかろうと、とにかく自己目的的に成立してることが大事なわけですが、文学の話をすることでコミュニケーションが成立しなければ、ブログに感想を書いて公開する意味もないわけですよね。

東 まさにそうです。

平野 だから、そういう意味では、本を刊行して批評が出るってことはいいことだけど、やっぱりそれは、読者がそれについて言及するための経路として重要だと思うんですね。

東 まあ、とりあえずの対策は文壇の復活でしょう。文壇の復活をどう仕向けるか、それが今の文芸誌のほとんど唯一の使命だとすら言える。けれども、文壇なんてなくても、天才が登場すれば状況を変えてくれるみたいなロジックってあって。

平野 ありますね。

東 二〇〇八年、「早稲田文学」の十時間シンポジウムやった時、福田和也さんも僕に対してそういうこと言っていて。そりゃあ、すごいやつが来ればすべては変わるのかもしれませんよ。けれども、その天才を受け入れる場所そのものがなかったらどうするんでしょうね。

平野 すごいやつがそこで書きたいと思うかどうかっていうのもありますね(笑)。

東 天才を受け入れる場所を維持するためには、凡人を生かすシステムが必要なんです。本当の才能なんて、十年に一人ぐらいしかいない。だから十年間システムを維持しなければならない。

平野 実際、今、十年に一人の逸材がどこのジャンルに進むかという選択肢がいっぱいあるわけですからね。批評にも小説にも行かないという可能性はあるわけで(笑)。

東 そういう点で福田さんはロマンティストだと思いました。

平野 出版社なり文芸誌なりが長期的な展望の中でこの作家に何を書かせて次に何を書かせていくというような計画が立たなくなっているという問題もあります。僕自身も結局そうですけど、いろんなところからオファーを受けて、その都度作品を書いていくので、五年単位くらいのヴィジョンを編集者と共有しにくくなっています。それは編集者の側も言っていて、ある作品で可能性が開かれたとき、次の作品でさらにプッシュしたいと思ってるのに、売れてる人ほど三つも四つも先のスケジュールが他社と詰まっている。だから、今ここで頑張っていても、それを次につなげるモチベーションが持ちにくい。あともう一つ、これはもう本当に市場の問題ですけど、漫画雑誌だと編集部に数十人という編集者がいて、そのおかげで一人が最大で三人までしか担当作家を持たないということが可能なのに対して、文芸編集者は一人で担当作家を何十人も抱えていて、ある一人の作家に深くコミットして、数年がかりで仕事をするということが難しくなってます。

東 どうでしょう。漫画家は漫画家でキツイはずで、編集者が漫画家の生殺与奪権を握っていて、いろいろ問題も起きている。あれは導入するべきじゃないし、実際に純文学の規模では導入できないでしょう。むしろ、小説、とくに純文学では作家の自由度がきわめて高い。出版社を移ったりしても大丈夫ですよね。これは作家にとって利点なので手放すべきじゃない。そこを伸ばすべきじゃないか。つまり、作家が自己プロデュース能力を持たなきゃいけないってことですよ。

平野 そういうことになりますね。

東 とはいえ、作家が自己プロデュース能力を成長させるためにも、文芸誌にも独自の色がなきゃいけない。けれども今はそこが両方ともおかしくなってて、雑誌にも色がないし、作家のほうもただなんとなく書いてるみたいな世界になってるようですね。

平野 作家も複数の関係を維持してリスクヘッジしてるんだとは思うんです。

東 それはあるでしょう。しかし、制度の問題以前に、とにかく今は派閥もなければ文学観の対立もなくて、「ライトノベルやケータイ小説はいかがなものか」とツッコミを入れているだけで。

平野 でも東さんがそこまで怒ってるというのは偉いと思いますよ(笑)。

東 いや、怒っていません(笑)。いまはただそういう流れになったから感想を述べているだけです。本当に、もうだれにもなにも口を出すつもりはないんです。僕は僕のやるべきことをやるだけで。

情報の過多をいかに統合するか

東 そういえば僕は今回小説を書いていて、自分が批評家として何をやってるかが分かったことがひとつあるんです。それが分かったから、『クォンタム』の連載版を単行本にするときに全面的に書き直すことになったと言ってもいいんですが、じつは連載の時、僕は一人のキャラクターにかなりいろいろ悩ませてしまっていたんです。そうすると、みんな同じ悩みを抱えるようになる。当たり前です。だってみんな僕の分身でしかないんだから。で、これはよくないと思って、単行本では大修正をしたんですよね。そのとき、何をやったかというと、要はキャラクターを当てはめるということなんです。こいつはこれしか考えてないことにしよう、あいつはそれしか考えていないことにしよう、とそう割り切った。なるほど、小説を書くというのはこういうことなんだなと思ったんです。
と同時に、僕が批評家としてやってることも同じことだと思ったんですね。つまり、東浩紀という批評家はこういうキャラクターを引き受けますと割り切っているわけです。本当の僕はいろいろなものが好きだし、たとえばカルチュラル・スタディーズだって、今の若い人たちは、単純に僕が反カルスタ派だと思ってるみたいだけど、実際には僕は骨絡みで彼らとの付き合いがあるし、『批評空間』にもいわゆる表象派にもじつに深く関わっている。だけど、ある時点で、彼らのことを分からないふりをする。知らないふりをする。その無知を引き受けることによって、状況が明確になるし活性化するわけですね。
話を戻すと、小説の登場人物を設定するのはそういうことなのだな、とあるとき気がついたんです。人物に悩ませようと思ったらいくらでも悩ませられる。しかし、それこそ恋愛でいえば、このひとが好きかもしれないし嫌いかもしれない。そもそも僕は好きという感情がわからない……みたいなことばっかり考えていたら、リアルかもしれないけど物語は始まらないわけで、その時にあるひとつのキャラクターを設定し、責任を与えることで、ようやく物語は動き出す。

平野 ある人物についての情報量が多過ぎる中で、それをそのまま提示しても読者が受け止められないというときに、どう縮減するか。その縮減のしかたの一つとして、キャラクターというのがあるんだと思うんですね。ちょっと飛躍しますけど、最近、『発達障害当事者研究』(医学書院)という本を読んで、小説を考える上ですごく興味深かったんです。著者は自閉症なんですが――本の中では「発達障害」という言葉を遣ってますけど――、普通の人はお昼頃にお腹がグーと鳴ったら、空腹を感じてご飯を食べるけど、その人は、お腹のあたりに何か違和感があったり、なんとなくボーッとするとか、血の気が引くとか、そういう情報が一挙に殺到した時に、それを空腹という判断にうまく統合できないんですね。等価的に、バラバラのまま受け取ってしまう。これは、小説の登場人物の話でいうと、彼についての関連性が分かりづらい情報が次々と与えられる時、読書体験が豊富な人は、それらにアクセントをつけながら、自分なりに、一つの人物像へと統合していけるかもしれないけど、なかなか難しいと思いますね。物語全体に関してもそうで、複雑多岐に亘る情報が書き込まれると、それらをリニアにつむいで、一本のプロットを描き出す能力が誰にでもあるわけではない。
そういう時に、登場人物の内面を奥に向かって複雑に掘り下げていくパースペクティブと、プロットを前進させるパースペクティブとは、互いに干渉し合ってしまう。片方が強まるともう片方が弱くなってしまうんだとしたら、個々の登場人物のキャラクターを類型化するというのは、小説の深さをある意味、外挿しつつページを前に進める工夫ということになるんだと思います。さもなくば、前進するプロットのラインをものすごく濃くしないといけない。

文体・プロット・場面

平野 さっきの話に戻っちゃうんですけど、小説家としての僕の中には、やっぱり最後は「小説家は文体だ」という信仰はあるんですね。

東 それはそうでしょう。

平野 それを手放すと、僕の小説を読む必要なんかなくなってしまう。他方で、エンターテインメントがただ面白いだけだとは勿論思ってなくて、実際、読んですごく感動する人もいるわけだし、それを悪いとは誰も言えないと思うんですよ。

東 そうですね。

平野 だから、自分は作家として、文体こそ文学だという信仰は否定しないけど、環境としてそれを今喜ぶ人がどれぐらいいるのかということだと思うんです。今、本を読む人たちのジャンル分けって、純文学かエンターテインメントかというよりは、「重たいの読みたい」とか、「癒されるの読みたい」とかいうようなものになってきてますよね。

東 いわゆる動物化ですね。このあいだ『クレア』で文学特集をやってて、驚いたのだけど、年下の草食系男子に恋して困ってる時に読む五冊とか(笑)。

平野 ものすごく限定的(笑)。今っぽいですね。

東 この合目的性はすごいなと。そういう時は小説は読まなくてもいいんじゃないかと思いましたけど(笑)。

平野 それは内面の「動物化」なのかもしれないけど、同時に、環境として処理情報が増え過ぎてることが大きいと思うんですよ。みんな最短経路を求めるようになってる。

東 ですかね。

平野 『ドーン』を書いていても思ったし、東さんの小説を読んでも思ったのは、世界観がテーマの小説で、読者に設定を伝える難しさです。設定を後出しにすると「分かりにくい」と思われ、前倒しして説明が続くと、そこでつまずかれる(笑)。そのバランスは『ドーン』を書いてる時にかなり調整しようとしたところで、結局、読者数をどれぐらいに設定するかってところに行き着くと思うんですね。『ドーン』でいうと、政治議論の話をどれぐらいのボリュームにするかってけっこう考えて、もっと売ろうと思ったら、絞ったほうがよかったと思うんですけど、僕自身が面白いと思って、担当編集者も面白いと思ったことで、あれくらいになったんですが。
そういうことを考えるようになったのってわりと最近なんです。二十代の頃は正直一切考えなかったし、それで生活も成り立ってたんですけど、三十代になった今、ネットとケータイにみんなが膨大な時間を費やしていて、あらゆるエンターテインメントのジャンルが人間の余暇の壮絶な奪い合いをしている時に、文学だけは常に優先的に読むなんて人は限られてると思うんです。みんなそれこそ、等価に並べて、気分次第で選択してる。

東 批評の話にずらして答えます。僕は若い人から彼らが書いた批評を読んでくれと言われることが多いわけですけど、批評の良し悪しって本当に驚くくらい簡単にわかるんです。段落の長さとか、一段落の中にどのくらい固有名が入ってるか、そういうリズムだけですぐわかる。なぜかというと、そのリズムは構造化のリズムだからです。構造化の精度は、結局その人間がどのくらい頭がクリアになってるかを示している。
さっきメディアのレイヤーという話がありましたけど、たとえば段落の長さは、視覚情報として文章の理解を支援するわけです。そういう技術をどう使うかが、実は評論を書くうえですごく本質的です。おそらく小説も同じだと思うんです。

平野 そこで東さんが瞬時に判断するのは、文体も含むんですか。

東 文体はもっと細かい判断になります。「である」とか「だ」とか、あと句読点とか接続詞のリズムですよね。だからそう瞬間的には判断できませんね。けれども、評論だと、やはり構造化の力のほうが重要です。だから原稿の質は印刷された時の形でわかる。
じつは僕が評論を書く時に一番最初にイメージするのは、画面上での長方形の形なんですよね。五段落ぐらいを一ユニットにして一行空けて、というのが僕の評論のスタイルなんですけど、その五段落の中で問題提起と結論があるという構造に大体なってて、その中にどれぐらいの固有名が入るか、それがかなり経験則で決まっているんです。だから、今回僕が小説書いてて一番きつかったのは、そのような経験がないことでした。何がいい小説か、視覚情報として見えてこない状態で手探りで書くほかなかった。

平野 僕もメタ視点から構造を考えたりする方ですけど、どういうフォーマットがいいのかというのも、これまた、どういう読者をどれぐらいのボリュームで意識するかによると思うんですね。伊坂幸太郎さんがエンタメに徹するということで書いた『ゴールデンスランバー』を読んで、「ああ、今みんなこういうのが気持ちいいんだな」ってすごいよくわかったんです。謎解きと逃亡っていうページを捲らせる二大エンジンがあって、伏線とその回収がものすごくシンプルに、前半と後半とできれいな線対称になっている。構造的には、問題集みたいな作りです。

東 そのとおりですね。

平野 そういうのを浅薄だって思う人もいるかもしれないけど、認知のパターンとして、強いんだと思いますね、そのフォーマットは。小説を読ませる一番強い力って、やっぱり「知りたい」っていう欲求だと思うんです。ただ、行き先が提示されてないバスに乗る人はいなくて、やっぱり行き先が見えてるからこそ乗るわけですね。そういう意味では、話がどこに行くかが適度に示されつつ、でも絶妙にそれが確定しないような感じで先延ばしされていく時に、人はページをめくるんだと思います。『クォンタム』は、物語の途中の込み入ったところで、僕はプロットをトレースしきれないところがあったんですけど、ただ時々、ぴょーんと跳んだあと、着地する場所が何箇所かあって、それはやっぱり文章を書き慣れてる人の感覚なんだろうなとは思いました。

東 それはよかった。

平野 あとやっぱり僕は、小説家が見せ場を描く力って重要だと思うんですよ。ドストエフスキーとかやり過ぎなぐらい、コテコテにやるでしょう?(笑)

東 そう、彼はすごいです。

平野 で、東さんの小説を読んでの感想ですけど、ひとつは場面に力強さを感じましたね。どんなに考えていることが面白くても、場面の立ち上がりが緩い小説はしまらないですけど。自作でも場面の強さはかなり気にするんですが。

世界観の代理人としてのキャラクター

東 そういえば、『ドーン』の分人主義の描写を読んでも感じましたし、自分の小説でも第二部を書いていて痛感しましたけど、一つの体の中に複数の人格があるという状態は、小説で書くのは無理かもしれませんね。それをやろうとすると、描写がどうしてもおかしくなる。そのせいで、小説の後半部は本当はもう少し複雑なことをやりたかったのに、できなかった。

平野 読んでいて、その感じはわかりました。

東 設定上は可能だったはずなのに、能力の限界で不可能になってしまったというか、そういう歯がゆさがあります。『ドーン』ではいかがでしたか。

平野 それについては、技術的なこともあるんでしょうけど、小説という形式の問題もありますね。結局、小説って記号の連なりによって登場人物ができてるから、先ほどの内面の葛藤の話と同じで、主人公がさっき言ったことと違うことを言ってると何なのかわかんなくなってくるんですよ(笑)。

東 そうそう。

平野 だけど、舞台だと、いくら不条理な、とんちんかんなこと言ってても身体というのが常に現前して、一人の人間の形に纏め上げている。だから、東さんがキャラクター化といわれる通り、ある種の類型化によらないと、記号の連なりの中から一人の人物を立ち上げづらい。

東 小説はじつは、人間を単純化させて描くほかないメディアなのかもしれないですね。平野さんが舞台についておっしゃったことは映画でも同じだし、アニメーションでも同じだと思う。

平野 ええ、そうですね。

東 ビジュアルとして同一性が保たれていれば、多重人格だろうが何だろうが描ける。だって同じやつがしゃべってるから。

平野 だからツンデレとかっていうのはアニメだと描きやすい(笑)。小説自体の問題についてずっと考えてたことが一つあって、映像を通じたコミュニケーションが圧倒的に増えてる中で、文字記号からビジュアルイメージを喚起する力というのは、相対的に弱まっていると思うんです。昔の文字しかない時代、たとえば平安貴族は『源氏物語』を読んでも、文字数の短い和歌を読んでも、そこからすごいイメージを喚起できたと思うんです。だけど今、読者自体の喚起能力が必然的に下がらざるを得ない中で、小説を、登場人物の複雑さを単純化しつつ、読者の感情や頭の中を動かす機能的なインターフェイスとして仕上げるというのはすごく難しくて、そういう意味ではキャラクター化というのはわかりやすい方法だとは思いますね。

東 ドストエフスキーの小説で「キャラが立っている」ことには、とても大きい意味があると思うんです。僕はもともと小説家ではドストエフスキーが一番好きなんですが。

平野 僕も、最近はそうかもしれない。

東 主人公が延々と悩み、描写がどんどん複雑になっていくタイプの小説ってちょっと苦手なんですよね。それが僕がSFやミステリーに近づいてしまうことの原因なんですが、ただ、それは小説というか文学の本質でもあるかもしれないと今回小説を書いて思いました。悩む主体を書こうとすると、主体を一個にせざるをえない。私小説にせざるをえない。「俺は、俺は……」と悩み続ける主体はたしかに書けるんだけど、キャラクターをいっぱい作ってそれぞれが悩んでたら、物語がまったく動かない。というより、何が起こってるのか、読者にわからなくなってしまう。

平野 そうですね。分人主義も、結局、あれを通じて登場人物の人間性を立ち上げようとすると、接触する人間の数を増やしていくしかない。しかし、そうすると、三人称体では限界があります。
あと、自問自答って、やっぱり小説の効果としては地味なんですよね。だけど、議論は派手に書けるし、ドストエフスキーは身体表現の記述がうまいから、登場人物たちが歯を剥き出しにしてフーフー言いながら議論してるのは、劇的ですよ、すごく。彼にそれができるのは、自身の中に分裂があったからでしょうけど、もうひとつは、『死の家の記録』を読むとよく分かりますけど、極端な人間のサンプルをすごくいっぱい見てるでしょう? 奇人変人の博物館みたいなところで(笑)。いきなり『悪霊』とか読むと、こんな人間いるのかなと思いますけど、『死の家の記録』を読むと、スタヴローギンのモデルらしき人とか、何となく分かりますね。

東 ロシア文学はああいうところがすごいですね。

平野 前回の三島賞の選考では、世界観から発想された小説とキャラクターから発想された小説が本当に明確に分かれていたんですね。青木淳悟さんの『このあいだ東京でね』を僕は面白いと思ったんですけど、選評にも書いたように、建築の分野で批判的工学主義というのを唱えてる人たちがいて……。

東 僕に近い人たちですね(笑)。

平野 ああ(笑)。そういう議論があるところに『このあいだ東京でね』が出てくるのが面白いなと思ったんですが、あの小説の場合、ああいう世界観の代理人みたいな強いキャラクターがいないから、それに対するアクションが起きないんですね。不動産屋はそうなのかもしれないけど、やっぱり小説として盛り上がりを欠くところはありました。他方で、世界で何が起こってるかは直接書かないけど、この世界の状況をシャーマンのように受け止めているような人物を造形できるんであれば、キャラクターから出発しても広がりのある作品を書けるんだと思うんです。ただ、下手をしたら、単に近くにいる面白い人を書いたって話になってしまう。

東 そのとおりだと思います。

平野 だから、世界観とキャラクターの両方が備わってる作品がいいと思うんだけど、『ドーン』は、全体的には世界観のほうから入った小説なんです。で、その世界観のエージェントをどういうふうに作っていくかというところで発想していったんで、キャラクターに回収しきれないような揺らぎを、些細なエピソードで積み重ねていくのは、書いてて難しかったことの一つでした。
結局、人間を一人描くというのは、とてつもない情報量で、しかも、その人間が人格的に分化してるとなると、大変なことになるでしょう? だけど、それが現代人だと思う。で、その時に、小説の場合、読者の記憶の中に残るのって、細部の書き込みよりは、特徴的なエピソードとかクセとかなんだと思うんです。それでマーキングしていく。「キャラクターに仕立てろ」と言うと反発があるかもしれないけど、印象的なエピソードで人格を固定していくということは誰もがやってることです。『悪霊』のキリーロフはいつも白湯を飲みながら部屋の中をずっとうろうろしてて、客が来ると「白湯を飲みなさい」とかって勧めますけど、なんとなくああいうことを考えてるやつは白湯を飲んでそうという感じがするんですよね(笑)。上手く説明できないですけど、すごくよく彼の特徴が表れてます。

純文学の淘汰と再生

平野 僕はまあ、言葉そのものに興味があったから、辞書を読んだり、古典だとか、明治の文語文なんかから言葉を掘り返してきたりして、初期には蒼古とした文体を試したりしてましたけど、ネット登場以降は、あらゆる言葉が本当に平べったくなっている。情報交換のスピードにあわせて、スリム化せざるを得ないところもあります。かつて読むだけだった人たちがフィクションもノンフィクションも含めてネットで書く中で、小説家の文章を差異化するために、「最後は文体だ」みたいな話になるのは、一つの考え方だという気はするんですね。つまり、この文章はあいつだなというようなマークみたいなものを作るというのは。

東 そこは難しい話ですよね。僕はすごくツルツルした文章を志向してる人で、僕がネットに親和性が高いのはそのせいもあると思うんです。これってあまりサブカルとかそういうのとは関係なくて、例えば宮台真司さんなんかはかなりゴテゴテした表現が好きな人ですね。柄谷行人さんも一見ツルツルしてるように見えるけど、実は修辞が多い。僕はかなり極端にツルツル志向ですね。

平野 僕はやっぱり小説が好きだった人間だから、辞書を見て「あ、こんな単語があるんだ」とかってことに喜びを感じるほうですけど、批評に関しては、思わせぶりな、何言ってるのかわかんない文体は好きじゃないですよ。簡潔に言えることをもったいぶって書いてるのはいやだし、極端に重い、例えば「超越論的間主観性」とかいう用語って、もうコミュニケーションの流れの中に乗りようがないでしょう。そういう意味では、東さんの言葉は今のメディアとマッチしてると思うんですよね。ただ、東さんが小説を書く時に、とくに何作も書いていった時に、その平板さが気になりだすかもしれない。反復が増えるでしょうから。そのとき、作家の側がいろんな文体を使うことを読者が求めているのかどうかが問題なんですが。

東 じつはこれは、なぜ僕が小説を書いたのかという最初の話題と関係します。つまり、三十五歳まではできるだけツルツルのマイナスの文章でよかったんだけど、これから長いあいだ生きていくうえでこの方向でやっていくと本当に書くものがなくなる、そんな気がしたんですね。生きてる僕というのは身体もあるし、いろんな体験をして楽しんだりしてるのに、それがまったく文章に結びつかないということはなんかいやだなと。
ちなみに、僕より平野さんのほうが詳しいと思いますが、フランス語って非常にシンプルな言葉ですよね。ヨーロッパの言語の中でも、語彙が少ない。

平野 ええ、そうですね。

東 僕はジャック・デリダを研究していた。そのときの実感なのですが、デリダの文章というのは、すごく複雑なのに語彙はむしろ単純なんですよね。直感的に思うに、デリダのほうがドゥルーズよりも使ってる語彙は少ないんじゃないか。統計は取っていないのでわかりませんが。フーコーなんかは歴史家だから、むろん語彙はとても多い。だから僕はデリダのフランス語は最初、むしろ読みやすいと思ったくらいなんです。語彙は少なく、読もうと思ったら読めてしまうんだけど、何言ってんだかよくわからない(笑)。

平野 村上春樹さんの文章は、やっぱりそういうことなんだと思うんですよね。

東 そうそう。語彙としてはツルツルしてるんだけど。

平野 そこに独特の陰影を読者が見出してるということなんでしょうね。ちょっと変な例ですけど、イチローって多分誰にも理解できないような複雑なバッティング理論を持ってるんでしょうけど、アウトプットとしてはヒットを打つって単純なことしかないでしょう? 誰が見てもわかるんですよね。だけど、文学も含むアートって、複雑に考えていった時にアウトプットも複雑になりがちだと思うんです。

東 同意見です。複雑なこと考えてもアウトプットは単純、というのでいいと思う。だからこそ、小説家はまずプロットで勝負するべきだと思うんですよ。

平野 同感です。要約できない文学のほうがいいって言う人がいますけど、間違ってると思う。

東 それはたいへんな倒錯だと思う。本当に知的なのは要約されて生き延びる小説のほうですよ。文体は要約できないけどプロットは要約できる。その伝播能力はすごい。それで改めて思うけど、ドストエフスキーはやっぱりプロットが強力なんですよね。

平野 強いし、切り方がまたうまいんですね。日本の小説は、海外で読まれようと思った時、特にヨーロッパ系の言語に訳される時には、文体は大半が失われますけど、プロットというのは文化的な差異をかなりたくましく越えていきますね。神話が広まったのはそういうことでしょう。ちょっと前までは、物語批判の文脈で、プロットが強いと説話論的な還元に屈するみたいな感じで全否定されてたけど。

東 説話論的還元で全然OKですよね。説話論的に還元されるからこそ人は読む。

平野 ドストエフスキーが分析的に考えてたかどうかはわかんないですけど、彼は、人間の認知パターンにとって何が自然かをすごく理解してたんだと思うんですよ。どういう場面が人間の頭に残りやすいとか、どういうプロットだと喜んでページをめくるかとか。

東 ご存知の通り、『地下室の手記』に「二掛ける二は、ぼくの意志なんかなくたって、やはり四だ。自分の意志がそんなものであってたまるものか!」って有名なセリフがあって、二×二=四に抵抗するんだとか言ってるけど、ドストエフスキーこそ、じつは物語作家として二×二=四を粛々と実行している人ですよ。彼は、人間の頭の中の物語的な認知パターンに極めて忠実に作品を作っている。

平野 しかも、そのパターンを熟知しつつ、絶妙なタイミングで物語を中断して議論を挟んだり、内省させたりするんですよ。すると、そこを読まないと最終的に伏線が回収されないから、読者はついてくる。音楽のメロディというか歌に対応するのが、小説のプロットだと思うんですよ。どんなに馬鹿にしても、メロディの強い曲の方が聴く人は多いというのは現実ですよ。

東 音楽でmp3が出た時に、というかすでにLPがCDになった段階で、音楽マニアは「これじゃ音楽のよさはわからない」とか言っていた。けれどもいまや着うたですよ。しかしたとえどれほど音質が悪くても、メロディがよければ人は聴いてしまう。それこそが音楽の力です。文体にこだわってるのって、その点で再生の音質とか環境にこだわってるというのとすごく似ている。

平野 しかも今、乖離が激しくなってますよね。それこそ昔は、文学というのは文体だというような価値観を共有してる人たちが多いということになってたと思うんですけど、みんながブログを書くようになった時に、そういうことを気にしてる人が実はものすごく少ないことが判明した。それでいいとは、書き手として言いませんけど。

東 小説って、モニターにさえ向かって書いてればコンテンツができる、一番気軽な発表媒体じゃないですか。この気軽さが今はすごく不利に働いていて、参入障壁も低いし、作ってる側も責任感がないという状態になっている。そして全体の質がどんどん下がってると。

平野 去年から今年にかけて、いよいよ出版業界自体も尻に火がついて、作家の淘汰も現実的な問題として語られ始めましたが、ただこういう話は、今の四十代以下ぐらいの作家が一番考えるべきことなんだと思うんです。今の情報環境の中にあって変化しつつある読者と、文学が今後、どうつきあっていくのか。例えば古井由吉さんなんかと議論するなら、もっと別に話したいことがあるなと思うんですよ。

東 そうですね。彼らはもともと考えてたし、責任感を持った上で、いろいろ崩してきた人たちですから。
いずれにせよ今後、純文学の作家があるていど淘汰されるのは止めようがない。僕は現在の文学を、隕石が落ちてさまざまな種が絶滅したけれど、生き残った種がつぎの時代に多様に花開くみたいな、そういうイメージで捉えているんです。短期的に貧しくなるのはしかたないかもしれない。しかし、そこを生き残った想像力こそが、次世代に多様に伸びていくのではないか。
今日は、批評家として半分、小説家として半分で話していて自分でも混乱しました。僕としては、その新しい時代に対しては、批評家として参加するのではなく、むしろひとりの作家として、片隅でこっそりいい小説を書いていたいですね(笑)。

(2009・11・5)
新潮 2010年1月号より