立ち読み:新潮 2016年10月号

新連載 編集者 漱石 第一章・正岡子規長谷川郁夫

 すぐれた文学者は、誰れもが自らのうちに編集という機能を備えている。表現することは見せる、聞かせる、読ませることであるからだ。言葉をもって表現する者は、言葉の有効で適切な生かし方を考え、文章を操作し、構成に工夫を凝らすことだろう。見せる、読ませる技術は編集のはたらきである。
 この目に見えないはたらきを意識的にせよ、あるいは無意識にではあっても自らの作品に対してだけではなく、外に向って、とは具体的には読者という存在に向けて発揮させようとする者を編集者と呼びたい。編集者は、――
 一、集める、並べる、分類する。
 一、見つけて、育てる。
 そこに自ずと一つの主張が生じ、やがて世界観が構築される。編集という機能が立体物である「本」に作用するとき、作る、という要素が加わる。装飾的な美の世界が現出する。これらの諸要素は、それぞれが密接に有機的な繋がりをもって、十全なはたらきを示すのである。無から有へ。編集もまた、創造であることは記すまでもない。
 私が見るところ、日本の近代文学において最初の、そして最高の文学者=編集者は夏目漱石である。
 森鴎外にも、永井荷風にも、編集者としてのすぐれた資質はあった。鴎外には評論雑誌「しからみ草紙」をはじめ「めさまし草」「藝文」「スバル」などの創刊があり、「東京方眼図」(明治四十二年)のアイデアマンでもあった。荷風は「三田文學」との関わりが深く、自ら籾山書店・籾山仁三郎(庭後)らと図って雑誌「文明」を発刊したりもした。與謝野鐵幹は詩誌「明星」を創刊する。
 しかし、例えば、出版文化史の観点に立てば、漱石以前と以後では「本」そのものの型態までが歴然と変化する。わが国における最初の装幀家といえる橋口五葉を見つけ、育てたのが漱石だった。
「朝日新聞」に文藝欄が設けられ(明治四十二年)、漱石はその編集を任された。
 また、漱石が晩年に芥川龍之介の「」を激賞して励ましを与えたことは、文学史上にあまりにも有名なエピソードとなっている。
 文学史にほんの少し照明をあてただけでも、寺田寅彦、鈴木三重吉、長塚節中勘助志賀直哉、と漱石がその稟質を直覚した何人もの文学者の名前が並ぶ。
 漱石とは何者か、という疑問が渾然たるままに湧きおこるのである。
 理想の編集者には、無私であることがもとめられる。無私、などといっても、たんに化学反応における触媒のように、自らは変化しない境地をいうのである。欧米諸国の実情は知らないが、日本では、編集者は作家の蔭となり、作品に編集というはたらきの痕跡を残さないのが理想とされる。一冊の本の内容は、作者が一人で百パーセント仕上げたものとのである。また、オリジナリティーを尊重することは、必須の条件だろう。そして編集者の多くは、世話好き、人間好きといえる。飲酒、食、美術、観劇、スポーツなど、なるたけ多趣味であることが望ましい。“遊び”の余裕が欲しい、などと記していくと、編集者が作家に要求するところと変らなくなる。
 漱石なら、と思う。こんな課題にも応えてくれそうな気がする。

 編集者・漱石の誕生には、正岡子規との出会いが必須の条件であった。子規が桁外れの実行力をもち、すぐれた編集感覚を備えた青年だったからである。
 夏目金之助(漱石)は明治十七年九月、東京大学予備門予科に入学して伊予・温泉郡(松山)出身の正岡常規(子規)と同級になった。予備門予科は一年半後に第一高等中学校と改称されるが、四年半近くの間、二人が親しい交渉をもったという記録はない。交流が生じたのは、本科一年の第二学期が始まった二十二年一月頃のこととされる。ともに満二十二歳となる年である。切っ掛けは、それぞれの漢文趣味によるものだった。
 子規の記述に「余知吾兄久矣而与吾兄交者則始于今年一月也(余、吾兄を知ること久し。而れども吾兄との交りは、則ち今年一月に始まれり)」とある。これは漱石が二十二年九月に脱稿した漢語による紀行「木屑録」を示された子規が記した感想中の一文だが、そこには「余始得一益友其喜可知也(余ははじめて一益友を得る。その喜び、知る可し)」という文言も見られる。
 二十二年の五月。――
 一日、常規は漢詩、漢文、俳句、和歌など小品を集めて「七艸集」と題する小冊子を作製して友人たちに回覧したが、その一冊が金之助の遊びごころをいたく刺戟した。常規青年の創作意欲に共振した、といってもよい。
 九日、常規は喀血、肺結核と診断された。その夜、「卯の花の散るまで鳴くか子規(ほととぎす)」などの句を詠んで自らを子規と号することにした。
 十三日、金之助は本郷の常盤会寄宿舎に子規の友人二人とともに子規を見舞った。帰宅後、手紙を認め、末尾に「帰ろふと泣かずに笑へ時鳥」など二句を書き添えて、子規を慰めた。
 二十五日、金之助は「七艸集」の巻末に七言絶句九篇による批評を記して、そこにはじめて漱石と署名する。翌日、それを携えて子規を訪ね、長い時間話し合った。
 と、漱石、子規の「年譜」を眺めているうちにも二人の交流が漢文、俳句を仲立ちとして深まっていく様子が察せられるのである。

(続きは本誌でお楽しみください。)