立ち読み:新潮 2017年1月号

情熱か受難か 谷川俊太郎/尾崎真理子

はじめに

 まもなく八五歳を迎える谷川俊太郎は、いうまでもなく日本で最も有名な、ただ一人の職業詩人だ。しかし、人は彼のどんな作品を思い浮かべるだろう。まずは「二十億光年の孤独」の、〈ネリリし キルルし ハララしている〉火星人を想像した一節? それとも子どもの頃に覚えてしまった〈かっぱかっぱらった〉が反射的に出てくるのか。女性なら元妻、佐野洋子に捧げた開放的な愛の詩集『女に』なのか。東日本大震災後の今は、被災した人々の心を支えた「生きる」だろうか。
〈生きているということ/いま生きているということ/鳥ははばたくということ/海はとどろくということ/かたつむりははうということ/人は愛するということ/あなたの手のぬくみ/いのちということ〉(最終の一連)
 一九七一年に刊行された『うつむく青年』という、ベストセラーに近い売れ方をした詩集に収録されたこの作品は、震災の年に公開された是枝裕和監督の映画『奇跡』にも登場していた。小学六年生の教室、国語の授業中。「生きる」を朗読していた主人公の少年は、気分が急に悪くなったと教師に申し出る。親に内緒で級友三人で旅に発つ、その行動開始の合図の仮病という重要な場面で(本当は、〈ぼくもういかなきゃなんない/すぐいかなきゃなんない〉と始まるひらがな詩「さようなら」がまさにぴったりのシチュエーションだ)、この時、阿部寛演じる担任教師は、「生きる」全文を黒板に板書した上で授業していて、この詩への思い入れが画面から伝わったのだった。二〇〇四年、「朝のリレー」を朗読するネスカフェのCMをプロデュースしたのも是枝監督。おかげでこの詩は一躍、谷川の代表作に押し上げられた。
〈カムチャツカの若者が/きりんの夢を見ているとき/メキシコの娘は/朝もやの中でバスを待っている〉〈ぼくらは朝をリレーするのだ/経度から経度へと/そうしていわば交替で地球を守る〉
 三年前に刊行された岩波文庫『自選 谷川俊太郎詩集』には、しかし「生きる」も「朝のリレー」も入っていない。その代わり、ソネット(十四行詩)形式で書かれたもう一つの「生きる」が採られている。

 生かす
 六月の百合の花が私を生かす
 死んだ魚が生かす
 雨に濡れた仔犬が
 その日の夕焼が私を生かす
 生かす
 忘れられぬ記憶が生かす
 死神が私を生かす
 生かす
 ふとふりむいた一つの顔が私を生かす
 愛は盲目の蛇
 ねじれた臍の緒
 赤錆びた鎖
 仔犬の腕

 初出は谷川の唯一の私家版として一九五六年に三百部だけ販売された詩集『絵本』。自身で撮影した「手」をテーマにしたモノクロ写真を一枚一枚貼り付けた“幻”の詩集で、数年前に復刻版が出ている。
 谷川の創作した詩作品は、発表されたものだけでも優に二千五百作を超す。「ポップスのような」と谷川が呼ぶ口当たりのよい、わかりやすい詩は、さまざまな出版社のアンソロジーに繰り返し再録され、絵本作家や写真家とのコラボレーション作品も途切れることなく出ているので、詩集の数を特定しにくいが、二〇一六年十月、岩波書店が電子化して配信をスタートした谷川による単行本の詩集は五十四作。一九五二年の『二十億光年の孤独』から二〇一三年の『こころ』まで。これらの詩集によって、詩業の全貌がようやく姿を現したと言えるかもしれない。何しろ六十六年も現役でいるのだから、デビュー時から同時代で読んできた読者は、少なくとも八十歳を超えている計算になる。
 活動期間が異例に長いという年代的問題ばかりではない。読者は詩集と児童書の読者に大きく分かれ、評価は詩人、小説家、批評家、研究者、海外の翻訳者――これらの人々の間で分裂していて、擦り合わせ、統合する機会もないまま、谷川俊太郎像のギャップは放置されてきた。本人も世評や研究成果について一貫して恬淡としてきた。実験的な詩を書くことも、口語やライトヴァース、漢字を排してひらがなで書くことも、谷川俊太郎にとって自然なことだったのだろう。どんなふうに時代と向き合い、時代の共感を集める新鮮な言葉を、いつも、誰よりすばやく自作に取り入れてきたのか。それでいて時代につかまらず、流されなかったのはなぜ? すべては作為を超え、ただただ度はずれた才能の成せるわざだったのか。本人の考えを知る機会も乏しかった。
 だが、全詩集を年代順に読んでいけば、谷川俊太郎という詩人がいかに現代の日本語をやわらかく解きほぐし、詩と文学の最良の部分を独力で拓いてきたか。現在の口語全盛の小説も、時折、はっとするほど鋭いフレーズを放つポップスも、長く記憶される広告のコピーも、それらに影響を与えてきたことばの元をたどれば、かなりの断片は谷川俊太郎に行き着くのではないか。ポップスの歌詞を検証していけば、谷川の詩から意識的、無意識的に引用したものがどれだけ見つかるだろう。谷川自身は「ことばは個人の所有物ではない」が持論で、まるで頓着していないが、谷川の二千五百の作品群は、曲がりなりにも平和を保ってきた戦後七十年の日本人の生活と感情のほぼすべてを網羅し、この国の隅々にまで行き渡り続けていることを、私たちはもっと認識していい。
 谷川は壮年期の生活のリズムを維持しつつ、生まれた場所でもある東京・阿佐谷で一人暮らしを続ける。隣の家には音楽家の長男、谷川賢作の家族が住まう。詩の注文だけでなく、他の詩人のアンソロジー編集、インタビュー、詩のイベント出演の要請も、毎日のように舞い込む。気持ちが動けば、夏はTシャツ一枚、冬はダウンを羽織って、町中の小さな朗読会にも、老人福祉施設へも、幼稚園へも自分で車を運転して、または電車で出かけていく。もちろん日々の基盤にあるのは詩の創作で、「最近、詩を書くのが愉しくなった」と、朝も、事務仕事の合間にも、薄いマックを開いては小まめに推敲を重ねている。この十年はほぼ一年に一冊のペースで新作が詩集にまとまり、意気に感じた若い写真家に詩や文章を提供するコラボレーションも多い。
 時代は谷川の詩に書かれた通りの展開を見せている。たとえば、一九八八年の詩集『メランコリーの川下り』(思潮社)の表題となった長篇詩には、人工知能に労働と私生活のすべてをあけ渡して無力化する、未来人のつぶやきがあった。
〈機械ヨ働イテオクレ(中略)/人々ノ萎エタ手足ニ代ワッテ/サラニ新シイ機械ヲ造ッテオクレ/人々ノカスム目ニ代ワッテ/眩イ未来ヲ夢見テオクレ〉
 昭和の子どもに眩しい未来を夢見させた「鉄腕アトム」の歌詞が、一九六二年にはこの詩人から提供されていたことを思い出すならば、この詩人の中の未来は、私たちより優に半世紀は早く進行していたのかも知れない。この作品には、まったく調子の異なる、次のような抒情の一節もある。
〈夕暮れ……家々は静まりかえっている/めぐらされた塀の内側には……どんな思想の気配もない……/理由もなくふくらんでゆく欲望すら/今は息をひそめていて……/明日へと今日をやり過ごすために/……閉じられた扉の奥で/女が白いビニール袋から……こんにゃくを取り出している〉
 この作品が書かれた頃、まだ昭和は終わっていなかった。〈思想の気配〉ならば、いくらも残っていただろうが、思想の消滅が暗示されている。哲学者である実父、谷川徹三は九〇歳を超えてなお壮健で、身近に寝起きしながら活動を続けていたはずである。
〈utuと打てば一瞬にして/鬱……という文字が現れる/もう筆順の迷路をたどる必要はない//筆勢の風は止み/文字の檻に囚われて……〉(「メランコリーの川下り」)
 一九八〇年代のうちにワープロで創作を始めた作家は安部公房らごくわずかだったが、谷川の導入も同じくらい早かった。〈筆勢の風〉が止んだのは、ワープロという文字の檻に囚われたせいだろうか。それともこの頃から、現代思想の鎧を纏った詩の言葉は、印刷された本の檻から世の中に出ていき、人々の精神に届くことがなくなった虚しさが込められているのだろうか。

(続きは本誌でお楽しみください。)