立ち読み:新潮 2017年10月号

キュー/上田岳弘

 幼い頃、祖父と二人してスタジアムの観客席に座り、オリンピックの開会式を見た記憶がある。でもこれは何から何までおかしな話で、絶対に現実であったはずがない。もっとも、誰にでも一つや二つ、そういった記憶はあるものなのかもしれない。
 その時、僕は祖父と二人きりでテレビを眺めていた。29インチのブラウン管テレビ。僕が生まれる前から、祖父はいわゆる全身不随の寝たきりで、会話もできなかった。介護ベッドに横たわった祖父の上半身は少し持ち上がっていて、足の先にはテレビがあった。この辺りはたぶん、現実の記憶だ。画面に映し出されているのは、どこかのオリンピックの開会式だった。祖父に映像の意味がわかっていたのかは怪しいものだ。僕は祖父の声を聞いたことがなかったし、視覚や聴覚まで麻痺しているのかもしれなかった。僕にしても幼すぎて、オリンピックのことをあやふやにしか知らなかったはずだ。
 祖父母の家にはたまにしか来なかったが、お風呂に入っておばあちゃんが用意した清潔なパジャマにも着替え、幼い子供だった僕はすっかりくつろいでいた。その時の部屋の様子は、まるで上から眺めでもしていたかのように、よく覚えている。祖父がいて、僕がいて、祖父の頭上の柱には軍帽が飾ってあって。
 僕はふと思いついて、テレビのリモコンをいじって音量をゼロにしてみた。そうしておいて、オリンピックの開会式を眺めている、いや、眺められていないかもしれない祖父の顔を見つめた。でも祖父と目が合った時、僕にはなぜかはっきりとわかった。祖父はテレビの内容を理解しているし、自分の置かれている状況もよくわかっている。それなのに、何もできないでいるのだ。
 僕は祖父の顔から目を逸らすことができなくなっていた。奇妙なのはここからだ。いつの間にか、僕は祖父と一緒にオリンピックのスタジアムに座っていた。二人ともパジャマ姿のままで、観客席は知らない人でいっぱいだった。祖父の表情は家にいる時と同じだが、背筋を伸ばして、僕の隣の座席にしっかりと座っている。前を向こうと思ってお尻をずらした僕は、ぐらついて椅子から落ちそうになる。その僕の肩を、祖父の乾いた手が抱き寄せて支える。
 スタジアムの中央では、たくさんの人が動物の毛皮の被りものをして走り回っている。別の人たちがそれ目掛けて棍棒を振るい、矢を射かけていじめている。オリンピックの開会式とはそういうもの、つまり開催地の歴史を振り返っているのだということを、幼い僕が知っていたはずはない。おまけに、目の前でやっているのは一国の歴史ではなくて、人類全体の歴史らしい。その時、僕は唐突に、僕と祖父以外の観客が全員、本物の人間ではないことに気づいた。みんな、人の形をした人造人間だ。スタジアムで動き回っているのもそうだ。
 開会式は続いている。人々は獲物を食べる傍らで、植物を育て食べ物を蓄える。仲間を増やそうとして、敵の陣地を襲う。馬に乗った勇ましい征服者の目は、いつからか敵ではなく、広大な土地を見ている。棍棒も刀剣も最早使っておらず、銃が機関銃になり、爆撃機の一撃で破壊されるものは、家屋、集落、町を丸ごと一つと、徐々に大きくなっていく。海を越えた大きな戦争が始まっている。だらだらと流れる血の色を、目視しきれないほどの大きな戦い。
 突然、スタジアムの上に巨大な光の玉が現れる。空全体を明るく照らしながら、それは重力を無視するようにゆっくりと降下する。閃光があり、気づけば人造人間たちの姿が消えている。大粒の黒い雨が降り注ぐが、これは水気を含まない幻の雨だ。
 雨の音が止んだ時、隣にいたはずの祖父もいなくなっていた。その場に一人取り残された僕の頭の中に、一連の言葉が響き渡る。それは、子供の僕にはただ謎めいて聞こえた。後にそれが何であったかを知るまで、僕は無垢な探究心を引きずることになる。

 第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


Lost language No.9(日本語)
《名・ダナ》物事の起こり方・進み方などが、早く激しいこと。
   *
Genius lul-lul様

Knopute CS八戸センター 所長代理

 貴殿のCold Sleep契約が現時点で満了したことを通知します。この度無事にお目覚めになったこと、誠におめでたく、心よりお祝い申し上げます。
 さて、貴殿の設定した覚醒時期は戦争が撤廃された時点とのことでしたが、厳密に言えば、戦争は終わったわけではありません。最後の全体戦争の後も、小競り合いは延々と続いています。しかし貴殿との契約は、契約金で常識的に可能となる保証範囲を超え、幾多の機器の修理や交換を経て継続されてきました。Knopute社の金融部はたいへん優秀で、Cold Sleep事業はお客様から頂戴した契約金の運用益だけで保守運用していました。しかし金融システム自体がとうの昔に崩壊しています。つまりコスト面は、契約終了のタイミングと無関係です。
 貴殿以外の利用者全員の契約が既に終了しています。そしてこの度、現時点でKnopute CS八戸センター所長代理となっている私が、貴殿のパートナーでもあるあの人、、、より指示を受けて、貴殿のお相手を務めさせていただきます。貴殿は長期睡眠を目的とするあらゆるプロジェクトの中で、最良のプランを選択されました。
 余談ですが、実は貴殿が入眠されたすぐ後に、ドナルド・トランプ様が同じプロジェクトに参加し、同時に最高額の出資を行いました。アメリカ合衆国大統領の任期中ではありましたが、そちらは影武者へ任せました。ドナルド・トランプ様にとって、政治家としての活動よりも、このプロジェクトへの参加と投資の方が優先されることだったのです。後に政府が情報公開するまで、影武者のことが表面化することはありませんでした。影武者は実業面でのセンスは本家に劣るものの、政治的能力においては勝っていました。整形技術を駆使し容姿をそっくりにしたことに加え、喧騒を具象化したような振る舞いも模倣しました。そして誠心誠意で大統領の職務にあたり、二期目までを務めました。
 余談が長くなってしまいましたが、貴殿のご関心のある戦争に話を戻しますと、二度目の全体戦争が終結した際、貴殿の生まれた極東のこの土地で《原子力の解放》がなされ、「九条」が残りました。この二つの事柄は、人類のパーミッションポイントを決める際の俎上にものぼった――のですが、これについては順を追って説明する必要があるでしょう。貴殿の入眠された後に人類に起きた変化は甚大であり、貴殿の精神に負荷を与えすぎることなく理解を進めるためには、丁寧な説明を要します。
 幸いにして、私は語ることが本職であり、得意でもあります。まずはお手持ちの端末で続きをお読みになるのがよいでしょう。もちろん、このまま音声で再生することも可能です。その他のツールも様々用意されていますが、ご希望はありますか?

(続きは本誌またはYahoo! JAPAN『キュー』連載特設ページでお楽しみください。)