立ち読み:新潮 2017年10月号

新しい宮沢賢治 第一回 太平洋にタイタンは要らない/今福龍太

水よわたくしの胸いっぱいの
やり場所のないかなしさを
はるかなマヂェランの星雲へとゞけてくれ
――宮沢賢治薤露青かいろせい

 海はわたしたちに、自然と相対あいたいするときの、もっとも根源的な謙虚さの感情を教えてくれる唯一無二の存在です。海は、一個の生命体としての人間がいかに小さなものであるかを教え、人間のスケールをはるかに凌駕するものが持つ奥深い息吹いぶきへの深い敬虔けいけんの情をかきたてます。そしてこの、つつしみうやまう心持ちの底には、「おそれ」があります。「畏れ」こそ、海が私たちにもたらすおそらくもっとも深い情動ですが、そのとき、私たちはどこかで、海というものを自分自身の内にも抱えていることを直感しています。だからこの深い畏れの感情は、自分の外部にあるものにたいするだけではなく、自己内部にある得体のしれない深淵、おのれのうちなる謎にたいする感情でもあるといっていいでしょう。
 事実、私たちの身体に流れる血液は、ナトリウム、塩素、カリウム、カルシウム、マグネシウムなど、多くの成分を海水とほぼおなじ比率で共有しています。地球上の最初の生命体は、海中をかすかに動く小さな単細胞生物だったと考えられていますが、それから三五億年がたっても、進化の先端にあるとされる私たち人間の身体は、いまだに体内に塩辛い海の水をたっぷりと抱えているのです。海水と同じ成分の、約五リットルの血液の循環によって維持される私たちの個としての生命。海という外部に広がる大いなる神秘は、また、自己の内奥にある謎でもあったのです。謎ですが、それは深い道理の帰結でもありました。この事実こそ、私たち人間が、自己の存在のもっとも深い部分に宿す、究極の「倫理的な態度」を決定づける根拠であるとはいえないでしょうか。
 そんなふうに考えたとき、生まれて初めて海を見るという人間の経験は、誰にとっても特別の生命記憶をよびさます体験であったはずです。とりわけ、生まれながらにして海辺で育ったのではない者が、長じて海を初めて見たときの感慨は、言葉として知っていただけの「海」が、物理的で肉体的ですらある生命体として初めて自分の傍らに出現するという意味で、世界感覚のおおきな変容すら呼び起こすことがあります。そしておののきと共にそこに感じる、いわれのない懐かしさの感覚。おそろしいほど巨大な海が、同時に自分の内部のどこかで波打っていたことの発見。
 そのような啓示的な発見をたえず意識しながら、世界と人々の幸福を願いつづけた一人の途方もない直感力をもった詩人・作家こそ、宮沢賢治でした。

 賢治が初めて海を見たときの情景は、彼自身がきちんと文字に残しています。それは盛岡中学校の四年生となってまもない五月、彼が一五歳のときでした。修学旅行で盛岡から一関─石巻─松島─塩釜─仙台─平泉とめぐる旅の途上、初めて海を体験したときの感興を賢治は故郷花巻の父親に手紙で知らせているのです。それによると、一九一二年五月二八日の朝一○時、彼は石巻から船で海に出て景勝地松島を回ったようです。そのときの手紙に「初めての海」という言葉が登場しています。

 船は海に出で巨濤は幾度か甲板を洗ひ申し候 白く塗られし小き船はその度ごとに傾きて約三十分の後にはあちこちに嘔げる音聞こえ来り小生の胃も又健全ならず且つ初めての海にて候ひしかばその一人に入り申し候 (……)松島は小生の脳中に何等の印象をも与へ申さず……

(『宮沢賢治全集 9』ちくま文庫、一九頁)

 松島湾を行く遊覧船の上から初めて見る海は、賢治にまだそれほどの強い印象を残してはいなかったようです。慣れない揺れる船の上で気分が悪くなったことだけがここでは微笑ほほえましく報告されています。その日の午後、賢治は引率の先生の許可を取り、仙台で夜に一行と合流することを約して、塩釜から一人で伯母(父の姉ヤギ)に会いに近所の小さな漁村(現在の宮城郡七ヶ浜町菖蒲田)に歩いて行きました。一時間ほど歩くと「再び海を見」、そこには「黒き屋根の漁夫町」があり、「波の音は高く候ひき」と書かれています。その漁村にある一軒の宿屋で静養していた伯母と無事会えた賢治は、思いがけない訪問者に喜んだ伯母に引き止められ、夕食をご馳走になったばかりか、尽きぬ話につきあううちにそこで一泊することになりました。寂れた海辺の宿で一晩過ごすことで、ようやく海は、潮の香や、波や烈風の音とともに、賢治の体内にしっかりとその存在を刻み込んだようです。手紙にはこうあります。

 海は次第に暗くなり潮の香は烈しく漁村の夕にたゞよひ濤の音風の音は一語一語の話の間にも入り来りて夜となりその夜は遂に泊められ申し候。

(同書、一九―二○頁)

 伯母との会話の一語一語のあいだに海の波音が忍び込んでくるという感興は、賢治ならではの鋭いものです。波や海鳴りの神秘的な重低音が、畏れとともに、自らの体内を振動させる大いなるワタツミ神の音声おんじょうのようにして、人間の言葉の隙間に入り込んでくるのです。このとき、海はたしかに賢治の畏怖の感覚をよびだし、それとともに彼の心のなかの震えと共振したのです。彼が海なるものと一体化した瞬間でした。
 ここではただ「海」とだけ書かれているものは、地理的に言えば「太平洋」にほかなりませんでした。この頃の賢治が、どの程度精確な世界地図を頭に描いていたかはわかりませんが、すでに中学四年生、鉱物採集に熱中し、学校の教科書など見向きもせずに難解な科学書や哲学書に読みふけっていたことを考えれば、自分が初めて見た海が太平洋と呼ばれる地球最大の海であり、その水平線の彼方にはアメリカがあるという感覚を、賢治はおそらくはっきりと持っていたにちがいありません。
 さらにもう一つの重大な事実があります。賢治が修学旅行で初めて海を見たのとまったく同じ年、賢治の手紙が書かれたわずか一ヶ月半ほど前の一九一二年四月一四日に、イギリス・サウサンプトン港からニューヨークに向けて北大西洋を処女航海していた豪華客船タイタニック号が、濃い海霧の夜、氷山に衝突して沈没していたのです。一五○○人にものぼる犠牲者を出したこの出来事は、当時史上最大の海難事故として、ただちに全世界に報道されました。それから一ヶ月と少し、初めての海である太平洋を見たとき、賢治もあるいは、この出来事に心をはせる瞬間があったでしょうか? もちろん、豪華客船が沈んだ海は「大西洋」と呼ばれる海であり、それが賢治の暮らす小世界、すなわち岩手県(=イーハトーヴ)が接している海「太平洋」からは大陸一つ隔てたはるか遠くの別の大海であることをよく知りながらも……。
 塩釜ちかくの寂しい漁村に一夜を明かした賢治が聞いたあの海と風の咆哮のなかに、タイタニックの溺死者たちの苦悶の叫び声がこだましてはいなかったのか? そのことがなぜか私はとても気にかかります。そしてそのような問いをたててみる理由も、賢治が書いた物語のなかに、タイタニック号の事件に言及しているとても示唆的な箇所があるからなのです。

(続きは本誌でお楽しみください。)