彼の顔だちがあまりにかわいらしく、目がぱっちりしていてまつ毛も長かったので、しかしそれに反して彼の身長が185センチくらいあってさらにガチガチでムチムチの鍛えあげられた立派な肉体をしていたので、私の第一印象は、
「なんだか合成写真みたいな感じの人だなあ。」
というものだった。
闇の中にぽつんと浮かんだ、そんなおかしな印象だけ。
人と知り合うなんて、ただそんなことだ。その小さな印象がだんだん絶えない流れになり、少しずつ無視できない水流を作り、そこにまた大きく気持ちが注がれていく。
いつかこの小さな流れが海に出ることもあるかもしれないなんて、はじめは決して思わないものだ。
亡くなった母の遺産が入って来て、そんなにたくさんではなかったけれど、ひとりっ子の私には他にだれも分ける人がいなかった。それはいいことのように見えるけれど、悲しみを分かち合う人もいないということだ。
ちょっとだけなら自分の楽しみのためにむだづかいしてもいいと思って、友だちのライブがあることにかこつけて台北に遊びに行くことにした。
私はずっと母とふたりぐらしをしていた。母は長患いしていたので、彼女を失うことに関して気持ちを整える時間は充分にあったはずだった。
それでもずっと続いていたはりつめた気持ちでの看病が(入院しているときはお見舞いが)急に失くなったことでぽっかりと穴があいたようになり、母に会えない毎日が思いのほか重く悲しくて、三ヶ月もの間、ほとんど誰とも会わず、なにもできなかった。悪い夢の中にいるようにただ暗い気持ちの中で毎日が過ぎていくだけだった。
しかし、過ぎていってくれるというだけで、何かが勝手に回復していく。
そんなとき、友人のマサミチというシンガーソングライターが「台北のライブハウスにツアーで行くけど気晴らしに来ない?」というメールをしてきた。
マサミチはちょうどファンだった若い女性と結婚したばかりで、その台湾への旅は新婚旅行をかねていた。ライブを終えたらそのまま日月潭や台南をめぐるということだった。
新婚さんにくっついて歩くわけにもいかないから、ライブの打ち上げを終えたら台北からそのまま帰ることにした。そういう、半分ひとり旅みたいな感じがいいと私は思っていた。
私もまだ人に気をつかえる状態ではなかったからだ。
荷造りしている最中に何回も母が死んだことを忘れ「お母さんになにをおみやげに買ってこようかな」と思ってしまった。「ああ、そうか。もうなにも買ってこなくていいんだ」とまた涙が出た。
身も心もふわふわとしていて、まるで実際に旅をするための荷造りではないみたいだった。現実には日々着替えをして洗濯物が出たり、歩けば靴が汚れたりもしているのに、そういう生々しいはずのことをいくらやっていても、一切が自分から切り離されているような不思議な感じだった。
だれかといっしょに暮らすっていうのは実はとても大きなことなのだ。おみやげひとつとっても、義理で配るおみやげとは違う。なになら喜ぶかな、るすにしているあいだ淋しかっただろうから、奮発してこれを買っていってあげようかな、そんなきれいなブロックだけで、いっしょに暮らしている人へのおみやげを選ぶ心はできている。
前に台北に行ったとき、松山空港の中の色とりどりの椅子やオブジェが並ぶゲートの前で、最後の最後までお茶やバッグや虫さされの薬や健康食品やCDを選んでいたあの日の私には、確かに家で私を待っている人がいた。
「ああ、もう時間もないのにお母さんにおみやげを選ばなくちゃ、どうしよう!」
失くしてみるとよくわかる、それが家族がいるという幸せの、本質なのだ。
昔は母とよく旅をしたけれど、母が入退院をくりかえして体力が落ちてきたら、一緒に旅に出ることはなくなった。
それでも母は私が友だちとどこかに行ってくると「写真見せて」と言って、まるで孫の写真でも見るみたいな顔で私のスマートフォンを眺めていた。ほんとうはうらやましく思ったり、起き上がって自分もいっしょに行きたかっただろうに、そんなふうにずっと親であろうとしてくれた。
それに応えようとして私も心をこめておみやげを選んだのだ。
おみやげの選び方ひとつで母の寿命が延びるんじゃないかくらいの真剣さで。
それもまた幸福というもののひとつの顔だ。
私の父と母は私が幼い頃に離婚していて、母は父によほどの用事がなければ会いたがらなかったので、私だけが父とたまに食事をした。そうしてくれるとほっとすると母が言っていたこともあったし、決して父のことを嫌いではなかった。
ふだん行かないようなちょっと気取ったイタリアンだのフレンチだののレストランに行って、お互いの近況を話して、そのレストランで出てきた食べものについて笑顔で話して、それにまつわるお互いのエピソードを話して……この間、半熟卵作ったら失敗して、サラダの上に黄身をぶちまけちゃったの。俺はアメリカ出張に行って、着いた日にいっしょに食事するはずだった人がインフルエンザで倒れたから、ひとりでホテルのレストランに行って、時差ぼけで頼んだらグラスを頼んだはずがよく値段も見てなかったから、ほら、老眼鏡持ってないと暗いところでは字が見えないんだよね、それでボトルでワインが出てきて、しょうがないからひとりでがんばってほとんど飲んだんだ、とか。
高いお店でごちそうしてもらっているから、たとえ苦手なものが出てきてもなにも言わないで飲み込むようにいただいて。
そんなふうにお互いが今どんなに遠いところにいるか、自分たちの関係がどれだけ親しみのない、取り返しのつかないものかということをしみじみと確認しあって、それでも深いところで嫌い合っていないことにすがりつくような気持ちを持ち寄って、しっかりおこづかいをもらって、お母さんになにか買ってやってと言われて、血の繋がった手と手で握手して別れる。
好きな時間でも嫌いな時間でもない、少し目の前が暗くなって早く家に帰りたいなと思ってしまうような、そんな時間を過ごすのが、父と私の関係だった。
だから、母が亡くなったからといって、もう別の女性と結婚してお子さんもいる父の元に私が行く可能性は全くなかった。
実の親がいるのに行き場がないなんて少しだけ淋しい感じがしたけれど、私はもう大人で、あの人はもう別の家のお父さんなんだと心から思っていた。
東京にいるときは、友だちといっしょだろうがひとりだろうが関係なく、母と行った全ての場所に行くたびに涙が止まらず、何を見ても母を思い出した。まるで恋している人のように母のことばかりを考えていた。
台湾であれば母との思い出はおみやげを選んだことやホテルから毎朝電話をしたことくらいしかない。それが私をほっとさせるかもしれない、そう思った。
しかし考えが甘かった。
台北は大都会になってきているけれど、ちょっとした路地や人々の素朴な優しさや露店が並ぶ雰囲気がまるで私が小さな頃の日本のようだった。必然的に私は母と二人で過ごした子ども時代のことを、ただ歩いているだけでいやというほど思い出すことになった。でもそれは思ったよりも悲しい感じではなく、自分がいい思い出を持っているという幸せを、綿菓子を食べるみたいにふわふわと確認する良い感じだった。
(続きは本誌でお楽しみください。)