立ち読み:新潮 2018年6月号

藁の王/谷崎由依

 扉の音が聞こえている。
 旧式のドアノブをまわして廊下へひらいてから閉じる。ぱたん、と音がする。やがて床を、こつこつと鳴らして通ってゆく靴の音。ロの字型の廊下にはたくさんの扉がならんでいる。
 四角い建物は無機質で、白く、もしくは灰色で、コンクリートを塗っただけの壁は硬く、古い病院を思わせる。個室ばかりの病室に似た部屋からまたひとり、誰か出ていく。一日の終わりに、仕事をすませて帰っていく。わたしは自分に与えられた部屋のなかで、扉のこちら側からその音を、気配だけを聞いている。ひとつ、ふたつと灯りが消えていくところが目に浮かぶ。やがては廊下の灯りも。ぱたん、ぱたん、という音は、次第に間遠になっていく。ブラインド越しの夕空が青の底へと呑み込まれていく。
 窓の向こうにはべつの建物があり、そこから視線をわずかにずらすと生い茂る樹木の影が目に入る。身を乗り出すように近づけば、植物のいとなみが見渡せる。構内にはいたるところに木が植えられているけれど、なかでもとりわけおおきな木々がかたまって生えている。秋に色を変え、冬には葉を落とし、春にふたたび芽吹く広葉樹。森なんて呼ぶのはきっとおおげさだ。けれども夜が近づいてひとの気配が希薄になると、それはゆっくりと膨れていく。旺盛に茂った葉のひとつひとつが風を孕み、昼間の時間には隠していた表情をあらわにする。机の前に座ったまま、目を閉じて思い浮かべる。壊れかけた空調の動作音。蛍光灯の白々しくひかる高い天井の下で、少し眠ったかもしれない。
 ぱたん、と音がする。わたしは椅子から立ちあがり、そっと扉をあけて、廊下を見る。誰もいない。
 ふたたび、ぱたん。真っ暗な廊下の、どこかでまた、扉があいた。そして閉まった。またべつの扉があいた。ぱたん。こつこつ。足音がする。ひとつの扉から、べつの扉へと。こちらからあちらへ、あちらからこちらへ。誰もいないはずの建物を行き来している無数の何か。扉をあけて、閉じて、またひらいて。
 自分の部屋のなかで、扉に鍵をかけて、聞いている。ささやかな賑わいを、不思議と怖いとは思わない。あれは、幽霊なんだろうか。またふいに、しんとなる。空調の音だけが耳につく。ふたたび、森のことを考える。ざわめきながら広がってゆくもの。幽霊たちは、あの森を目指して部屋を出ていったのだ。

   *

 ここに来る以前、わたしの職業は小説家だった。いや、いまだってそのはずだ。本は一冊しか出ていないし、それすら絶版になってしまったけれど、小説家だということになっていた。記憶が間違っていなければ、確かそうだ。ここにいるといろいろなことがうまく思い出せなくなっていく。
 わたしがここへ来たのは教えるためだ。この場所は大学と呼ばれている。四月の構内には若者が溢れる。最寄り駅で降りて歩いて向かうと、大学に近づくにつれてその数は増えていく。大抵はおおきな荷物を思い思いの鞄に詰めて運び、まだ肌寒いから上着を着込んで、赤い髪で、または黒髪で、スニーカーを、またはパンプスを履いて歩いていく。年齢は皆ほぼおなじ二十歳前後のはずなのに、こんなにも違っている。それが構内へ続く門へと一様に吸い込まれていく。
 少し離れたところから、足を止めて眺めてみる。彼らは学生だが、それはわたしが教師だからだ。敷地に入っていくまでは、まだ教師ではない。教師とそうでないものの中間みたいな何かとして、そのあいだから覗いてみると、彼らも学生とそうでないものの中間のように思えてくる。学生でない彼らと教師でないわたしのあいだに関係はない。それどころか年齢が隔たっているぶん、いっそ相容れないものかもしれない。このキャンパスが、大学という制度が地滑りを起こすみたいに揺らいで、崩れて壊れてしまったら、一切の繋がりはなくなる。
 構内の木々は緑色のリボンを枝先にたくさん結んでいる。行き交うひとびとは急いでいて、またはひっきりなしに喋っていて、または下を向いていて気づかない。この土地から何かを吸いあげ、べつのかたちにして芽吹かせる数々の木立の群れに。
 校舎に辿り着くと、教師という名の職業を着込んでなかに入っていく。縫い目の粗いその上着は馴染んでいるとは言い難いが、それでもわたしを包み込み、ほんとうの姿を隠してくれる。赤っぽい煉瓦造りの、内側は真っ白な建物。敷居を跨げば、わたしはわたしが誰だったかを忘れる――。
 玄関を入ってすぐのエレベーターは混みあっていた。台数が少ないところに、新学期ともなれば大勢の学生が詰めかける。なかなか来ないし、来ても滅多に乗れない。腕時計で時間を確かめ、階段を使うことにした。二段飛ばしで駆けあがりたくなるのを我慢する。この建物のなかでは飽くまで大人らしく、教師っぽく振る舞わなければならない。
 二階と三階のあいだの踊り場で、階段を降りてくるひとと眼鏡越しに目が合った。
 ――あ。
 ちいさな声が聞こえた。けれどもそれは気のせいで、袴田はかまだ マリリはひとことも言葉を発してはいない。
「おはようございます」
 はっきりとした挨拶が響く。彼女の真後ろから階段の手すりをまわりこんでやってくる。魚住うおずみ エメルだった。このごろの若いひとたちは変わった名前を持っている。
 袴田マリリは会釈だけして、すぐに目を伏せて通りすぎた。魚住エメルは数歩を詰めると、黒目の輪郭が明瞭な目でまっすぐにこちらを見て、「寒いですね」と言った。とくに寒いとは感じなかったが、「そうだね」と応えた。続いて上階から次々と、どこかで見た覚えのある学生たちが降りてきた。必修の授業か何かだったらしい。
 振り返ると魚住エメルは袴田マリリを追い越して、どんどん距離を広げながら幅の狭い階段を駆けおりてゆくところだった。アネモネのような薄地のスカートがくるくると落下する花びらに似ていた。袴田マリリは見るからに重い肩掛け鞄を一歩ずつ運んでいる。教科書と、図書館で借りた本が詰まっている鞄。
 同時にあらわれたのは偶然で、教室移動を一緒にしていたわけではないらしい。面白い取り合わせだと思ったのだけれど。

 袴田マリリがはじめてわたしの部屋――研究室にやってきたときのことはよく憶えている。わたし自身や自分の仕事のことはすぐに遠ざかってしまうのに、学生についてのある種のことは、この建物の白い壁にペンキで書きつけたみたいにくっきりと記憶にあとを残す。去年の秋のことだった。大学での仕事用に使っている受信箱に一通のメールが届いた。
〈相談したいことがあります。オフィスアワーに伺ってもよろしいでしょうか。二回生の、袴田マリリと申します。先生の講義は受講していました。よろしくお願いします。〉
 学籍番号と、繰り返して名前が、末尾に添えられてあった。不思議な名前には見覚えがあったが、どの学生かまではわからない。
 わたしはその年着任したばかりで、新任教員への興味もあってか、学生の訪問を頻繁に受けていた。最初は張り切って面談していたが、次第に消耗しつつあった。彼らは不安を解消したいだけだったり、授業でさんざん伝えたことをいまさらのように質問したりと、忙しいなか待っていた甲斐の感じられない相談ばかり持ってくるのだ。
 約束した時間の五分ほど前に、部屋の扉をノックするくぐもった音がした。この建物の扉はスチール製で、叩けばことごとく甲高い音を立てて鳴るようにできている。ノックの音を伝えることもまた、扉の重要な機能であるかのように。そんな材質と構造を持ったものを、彼女は周到な技術でもってぼそぼそと鳴らすのだった。
 まだ時間になっていなかったから、わたしは机いっぱいに書類を広げて作業していた。自分の場所に他人がやってくるのは苦手なのだが、仕方ない。ここは半分しかわたしの部屋ではないのだろう。返事もしないうちから扉があいた。
 ――失礼します。
 どうぞ、とわたしは、動揺など少しもしていないふりを装った。差し出した椅子に、袴田マリリは浅く腰掛けた。いつでも立ちあがって出ていく用意がありそうな座り方。息せき切ってやってきたくせに、ええと、と口のなかで繰り返すだけで話そうとしない。もったりと重たげな圏が、そのころようやく馴染みつつあったわたしの場所に入ってきて、彼女を中心に居座っていた。女子学生を前にすると、服装や髪型などの装飾的なことに目を引かれる。けれどマリリは違った。毛羽だった薄地のセーターは、茶色ともピンクともつかない奇妙な色合いで、下に重ねたタートルネックは白地に紺の水玉模様。穿いているズボンも含めて、この大学に通う多くの女子学生なら部屋着にでもしていそうな代物だった。
 ――どうしたの、相談があって来たんでしょう。
 問いかけると今度は、呼び水に応じて流れ出すように淀みなく話しはじめた。
 ――小説家に、なろうと思ってるんです。
 と彼女は言った。なりたい、ではなく、なるつもりなのだ。
 ――毎日たくさん書いています。でも読んでくれるひとがいなくて。先生は、学生の作品を読んで意見をくださると聞きました。
 ――まあ、それはそうなんだけど。

(続きは本誌でお楽しみください。)