立ち読み:新潮 2019年1月号

漂流/町田 康

 普通では考えられない異常な体験をした場合、人はどうするべきだろうか。おそらくは、秘して他に洩らさず心の奥底に蔵っておくのが一番だろう。なぜなら、そんなことを話したら世間から、おかしな奴、と思われるに決まっているからだし、ましてそれが国法に抵触するならなおさらのことだし、そもそもそうしたことを話すのにふさわしい言葉を私たちは持たないからである。
 だけどそれは健やかで強靱な精神を持つ人だけができることで、多くの弱い精神の持ち主はこれを自ら心に蔵しておくことに耐えきれなくなって人に話したくなってしまう。そして話す。しかし右に言ったように私たちはそのため、というのは異常な出来事について話すため、の適切な言葉を持たず、普通の言葉でこれを話すため、相手にそれがなかなか伝わらない。そこで、異常な言葉で話してみると自分としては意を尽くせたように思えるのだが、相手にはもっと伝わらず狂人と断ぜられ、疎んぜられ、孤独と絶望の淵で今度は本当に狂っていく。
 だからといって話さないで自分のなかにためていたらそれはそれで狂ったようになってしまう。
 なので私は人に話すのと話さないのとの中間的な方法、つまり文章でこれを表すことによって自分の内側に在る記憶を自分の外側に取り出して眺める、という方法をとることにした。ごく穏便な方法だが、これを誰かに読まれることは実際、危険だ。なぜならこのような文書を残すことは国法によって禁じられているからである。
 けれども此の文章がいつか私を救う可能性がないとも言えない。なぜなら私はここにそのとき起きたことそして思ったことを可能な限り、そのまま、記そうと思うからである。それによって私は狂気に陥ることなく普通に生きることができるのだし、人は私が国法に則って行動してきたことを知るだろう。私はそう信じて書こうと思う。その際、私の現在の感情が過去の感情に刺激されて揺れ、その結果、文章に乱れが生じてもそれを直したり、ましてや文章を飾ったりすることは絶対にしないようにして書こう、と思う。
 と、そんなことを言うと私が平生からちょっとしたことで狂気に陥りがちな、不安定な人間のように聞こえるがそんなことはなくて、私は普通より安定的な人間だと周囲、例えば日高与一左衛門や川上彦十郎などにも思われていたし、自分でもそう思っていた。
 だから大抵のことは自分の内側に蔵すことができた。にもかかわらずこんな文章を書いているのが起きたことの異常性を証し立てているのだが、いったい私たちになにが起こったのか。あれは、あの一連の出来事はいったいなにだったのか。

 まず最初から言うと、文化十四年の五月、薩摩藩家中である私(安田義方・三十歳)は沖永良部島に代官附役として赴任した。代官は同じく薩摩藩士・日高与一左衛門義柄(二十五歳)。同僚に同・川上彦十郎親詇(二十八歳)がいた。
 沖永良部島は薩摩の南方、奄美大島よりさらに南の海上に位置する島で、もうちょっと行くと与論島があり、その先に琉球がある。沖永良部島は薩摩藩領だが琉球に属している。私たちの任期は二年。その間、私たちは土民が砂糖黍や唐芋を真面目に耕作し、酒を密造したりしないように督励、日高、川上、そして私も三人が三人ともそろって真面目人間だったので役目をもの凄くちゃんとこなして任期を終えた。
 そんなことで文政二年の六月十四日、私たちは予定通り伊延港から出航しようとしていた。
「いやさ、安田君。二年というのは着いたときは長いと思いましたが、いざ過ぎて見るとアッという間でしたな」
「本当ですな、日高さん。その間、いろんなことがあり申した。こちらの人は考え方というか、人生観というものが私たちと違いますから、それにも随分と苦しみました。しかし、今考えるとそれも懐かしいというか、不思議ですね。厭な感じがまったくないです」
「過ぎたことだからでしょう。過ぎればすべてが懐かしい。愛おしい。人間とはそういうものじゃございませんかな」
 日高がそう言うのを聞いて私は不思議に思った。なぜなら日頃からなにかにつけ現実的なことしか言わない武士である日高がそうした哲学的詠嘆めいたことを口にするのは此の二年は勿論、在藩中も聞いたことがなかったからである。
 此の男も南海の珍奇な風俗や景色に少々当てられたかな。いやさ、そういう身共も。私はそんなことを思いながらやや沖合に浮かぶ私らの藩の船・亀寿丸を眺め、頼もしい、いい船だ、美しい帆船だと思った。
 そしてその吃水線を眺めて深い満足を覚えた。私たちは船に棕櫚皮、芭蕉布、牛馬の皮、麻苧といった島の特産品を初めとする大量の物資を積み込んでいた。それは私たちの二年間の労務の成果であった。物資の中には私たちが薩摩から持ってきた大量の漢籍もあったが、それらは二年間、ともすれば話が通じない土民とのやりとりで疲弊する私たちの魂を支えると同時に私たちの成長の証しでもあった。私たちはその内容を二年前より遥かに深く理解するようになっていた。その重みは私たちが二年で学習した知識の重みであった。それらが深い吃水という形で目に見えて現れていた。それが私の目に心地よかった。私はそんな偽らない気持ちもこの文章のなかに記述していこうと思う。けれどもそれは可能な限り少なく書こうと思う。なぜならその分量が増え、この記録がまるでnovelのようになってしまうことを怖れるからである。

 その吃水が深いこと=多くの行李・輜重を満載していることはしかし同時に私たちの悩みの種であった。伊延港は島の北側にあるとてもよい港で、こんなよい港から出港できるのはよいことだと日高も川上も、そしてもちろん私も喜んでいたのだが、ひとつだけ問題があったのは港の口が狭く、水深が浅いうえ、岩があちこちにあったという点で、斯うした港に、吃水の深い亀寿丸のような巨船をつないで数日間、風向きを待てば、船底が岩に当たって船がバラバラになる、というところまではいかないにしても確実に船が傷むのである。
 そこで伊延港には入港しないでいったん奄美大島まで北上し、そこの港で順風を待って、トカラ列島伝いに薩摩に帰ろうと考えたのである。
 昼頃になって東南の風が吹き始めた。帆を操って奄美大島に行くことができる風だった。そこで私たちは乗船した。
「川上さん、いい感じですね」
「そうですね、日高さん」
 代官と彦十郎はそんなことを言いあっていた。そのやりとりを聞いていた私は、此の二人はなにを根拠にそんなことを言っているのだろうか、とぼんやり思ったのを覚えている。
 船には私たち三名とそれに随う者十名、そして船員十二名が乗船していた。乃ち私たちの船には合計二十五名が乗船していたということになる。
 船が沖合に出るとそれまで沖合の様子や雲行きを見ていた日高と川上は、任期を終えて出帆したことで安堵したのか「少しく休息する」と言って船室に入った。私はとはいうものの誰かしらが督励しなければならないのではないか、と考え甲板に残った。
 私は船首の方を見た。そこには誰もいなかった。私はそんなことでこの先、大丈夫なのだろうか、と不安になった。そこへ船長の松元が水の入った桶を持って通りがかった。私は彼に声を掛けた。
「あの、いまちょっとよいか」
「ああ、安田さん。なんでしょう。なんかありましたか」
「うん、いやね、あそこに船首があるだろう」
「ええ、ありますねぇ。船ですから」
「その船首には普通、見張り番というのがいて風向き雲行きを見張ると思うのだが、いまは席を外しているようだ。この船では誰がその役目を務めることになっているのかね」
 私は私がそれを問うたら松元が恐縮してしまうのではないかと思っていた。ところが松元はまったく恐縮せずに言った。
「ああ、特に誰が担当っていうのは決まってませんねぇ。通りがかった者がその都度見るという感じです」
「そうなのか」
「へえ、そうでがす」
「ああ、なるほど。専門の、それに詳しい担当者が羅針盤を見てるから大丈夫ってことか。誰がそれを見ているのかな。担当は誰だ?」
「いや、それも誰が担当って訳ではなくて、交代でよいようにやってます」
 松元は事もなげにそう言い、「すいじゃあ」と言って桶を持って去った。

(続きは本誌でお楽しみください。)