夢を見た。
寒い風の吹く、凍りつきそうな海岸を、私と外山くんは歩いていた。
うみねこたちがにゃあにゃあとうるさく鳴いている。たくさんの白い翼が陽を受けて飛行機のようにきらっと光っていた。
ふたりの足跡が、砂浜に並んで美しい線を描いている。
海は満ちていて、もうすぐ波に洗われて足跡は消えてしまうだろうと思う。
彼に言いたいことがある。横顔を見上げる。
つたない言葉でいっしょうけんめい、言おうとする。
風に言葉がまぎれて、うまく届かない。いや、違うんだ。どんなに言葉を紡いでも、この気持ちは伝えられないのだと思う。
言葉に変えられるような思いではなかった。
そしてこの状況を知っていると思う。
昔知っていた歌だ。よく口ずさんでいた歌だ。
でも、思い出せない。
風に髪の毛がなびいて、いろんなことが散っていく。
そして私は気持ちだけになる。幽霊みたいに、気持ちだけの存在に。私は大きく広がっていき、世界を覆うほどの大きさになりそうなくらい。
ふっと気づいたら、となりに小学生か中学生か、どっちかな? くらいの年齢の男の子がいた。
砂で大きな亀を作っていた。甲羅が大きく盛り上がっているからリクガメだなと私は思った。とてもよくできている。今にも動きだしそうだった。
私によく似た顔立ちの、まん丸の目の男の子。
私の子どもか?
いや、違う。
私には、子どもが生まれない。では、これは誰なのだろう?
その子のひじのあたりが、私のひざにかすかに触れていた。温かく、懐かしい感触だった。
初めましてとわざわざ言うこともなくて、話しかけたりしなくても、もういっしょにいて、ただぼんやりとこうしているだけでいい。
こうして地上に共にいるのだから。
私は思ったし、それを肌で実感していた。
みんないっしょくたになって、ここに。
見えないだけで、いつだっていっしょに、ほんとうは。
だからいいんだ、気に病まなくても。
「こちらは林原ゆき世さんです。今僕は、この人とおつきあいしていて、結婚したいと思っています。」
と外山くんはあの日言った。
外山くんのお母さんは半身をベッドから起こし、私をまっすぐに見た。
「初めまして。」
と微笑んだ私を見て、外山くんのお母さんは曖昧に微笑んだ。
そして私をもう一回、じっと見つめた。
私もとりあえずお母さんを見つめ返した。
お母さんの目の中に私は吸い込まれていきそうだった。ぎゅるんと音がしそうなくらい、彼女は私を凝視していた。
外山くんにそっくりな丸い顎の線、手の肌の肌理、遺伝を感じた。
お母さんは手まねきして、私が近くに寄ると私の手を取った。
外山くんよりもうんと小さくてしっとりとした手。
小さな部屋は清潔に保たれてはいたが、ベッドの下にはほこりの玉。低く流れるTVの音。パジャマと毛布のこもった匂いが鼻に届いた。
そして彼女は涙をこぼした。
はらはらと、目を開いたままで。
泣き慣れている人なんだなと私は思った。呼吸をするように彼女は泣いた。
「あなたはなんて……なんて、私の……。」
お母さんは言った。
「その話は、僕がこれから彼女にします。」
外山くんが強めの言葉でお母さんを制したのをよく覚えている。
「ああ、私、手袋忘れてきた、最低気温マイナス十六度だっていうのに!」
飛行機を降りてヘルシンキに降り立ち、身が引き締まるような空気の冷たさを感じて、私が最初につぶやいたのはその言葉だった。
そうつぶやいたとて自分を保護する人もいない年齢なのに、そんなことを言ってしまう自分を子どものようだと思った。
外気に触れた手が刺されたように痛かったのだ。生きているだけで手が痛い? そんなことがあるだろうかと思うくらいに空気のつぶつぶは尖っていた。
見た目はふつうのきれいな夕空なのに、破壊的に寒かった。人の命を奪うことができる寒さだと感じた。
「この寒さで手袋なしは無理がある。雪や氷ですべるだろうから、ポケットに手を入れとくのもあぶないし。とりあえず買いに行こう。もし売ってなかったら僕のを貸してやる。」
外山くんは言った。飛行機に長く乗って、あまり眠らずに映画を観ていた疲れで彼の目の下には隈ができていた。その隈をかわいいと思う。キスしたいと。
外山くんのバランスのよい性格が好きだった。じんわりとしみてくるその言葉の効果。
僕のを使いなよ、でもなく。黙って手袋を差しだし自分ががまんするのでもなく。
売ってなかったら貸してやると。なんていい落としどころなの。
相手の好きなところを好きなままにするには、距離をちゃんと丸く置くことだと私はいつのまにか思うようになっていた。
この人しかいないと思った初恋の人を、十年以上ずっと追いかけ回してすっかり怖がられてしまってからの教訓だった。
彼は、人生でふたりめに好きになった人だった。相手からアプローチがあり、私もすぐに夢中になった。互いのために作られたような人だと、互いを思った。
まずそんな人が自分に出てきたことが意外だった。好みが偏屈な私には初恋の人以上には決して好きになれる人は見つからないと嘆いていたのだ。
そういう人生もあってもいいとずっと心から思っていたし。
なにごとも時間がかかる私なので、今やっといっしょに住んでいるということに少しずつなじみつつある。
まだぴんとこなくてぼうっとしているあいだに、引っ越しだとか、住民票だとか、電気ガスだとか、オーディオをつなぐとか、めんどうなことはみんないつのまにか終わっていた。いつのまにかと言ってももちろん手分けして自分たちでやったのだが、ほんとうに外山くんと暮らすの?
と思って目の前のことをやっているうちになんとなく過ぎてしまったのだ。
気づいたら新しい暮らしが始まっていた。
(続きは本誌でお楽しみください。)