立ち読み:新潮 2019年3月号

三たび文学に着陸する
――古事記・銀河鉄道の夜・豊饒の海/古川日出男

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 ビジョンを見たい。
 なぜならば私は書きつづけたいからだ。書きつづけられるのか? これを切実に考える。時勢(時局?)に絶望しているがゆえに考える。思考を突きつめるためには言い換えが要る、とは私がいつも思うところで、冒頭の「ビジョンを見たい」との一文もそうしてみる。どのような言い換えが可能か?
 私は運命という名の作家になりたい。日本人作家になりたい。
 なんという妙な宣言だろう。一文を二文に敷衍して、より混沌とした。私は、そもそも日本人であってまた作家でもあって、だから「日本人作家」にはすでになっている。だが、そのように鉤括弧で括ってよいのか。もしかしたら二文めには、何も自明なものはないのだ、との懐疑が孕まれているのではないか。日本人作家とは日本語で執筆する作家のいで、そのように解釈するならば鉤括弧は「日本」人「作家」と付されてよい。だとしたら、ここに表われているのは「日本」にも「作家」にも将来性がない、との仄めかしであって、なるほど、私が絶望している時代状況とはそれだ。何かが大崩壊している。あるいは、何もかもが大崩壊している。さて。
 一文めに移れば、そこに噴出した私の欲望は運命という名の「日本」人「作家」になりたい、だ。運命になりたい、とは文章化されていない(そのような文章の形では脳裡に閃いていない)。ここには鍵がある。
 少し思考を横にずらす。
 幾千幾万幾億の文芸作品が書かれた。つまり生まれた。作品にはそれぞれの運命があった。または、ある。読まれもしたし読まれはしなかった。歓迎されたし歓迎されなかった。いろいろあった。または、ある。
 作家も同様だ。作家にも運命があった。または、ある。
 個々の作品、作者に焦点を合わせず、もっと引いたら――巨視的になったら――どうか? たとえば小説だ。私の携わる文芸の(主な)形式。小説にも運命があった。または、ある。
 なるほど。
 この「小説」を「近代文学」と言い換える。要するに今文学ということだが。たちまち私はさらに、なるほど、と頷いている。

 ここに二冊の、もはや「かつて読まれたようには読まれない(読めない)」作品がある。
 二冊というのは嘘で、なにしろ一方は四部作、対するは一冊の本に製するには枚数不足、しかも前者にさらに註するならば、その四部作は四部めの完結を前にその相貌――仮に“相貌”と形容する――を変えてしまって、この時以前のようには読まれない、とするのが正しい。この時とはいつか、の日付は出る。一九七〇年十一月二十五日。上記の日付以後、『豊饒の海』四部作という三島由紀夫の著わした小説は、それまでのようには読まれない、読まれていないのだし、読めない。たとえば二部めの『奔馬』で、主人公の青年は割腹して、そこに三島の自決を重ねあわせないで読むのは不可能である。にもかかわらず、同年同月同日の午前までは、あるいはひる過ぎまでは、それら(とは『豊饒の海』を構成する『春の雪』『奔馬』『暁の寺』の単行本三冊、そして雑誌「新潮」連載中であった『天人五衰』)は別な形で読まれた。または、読みえた。
 このことを私が「『豊饒の海』四部作なる小説は運命を有している」と言い表わしても、そこには過誤がない、はずだ。
『豊饒の海』は露骨に運命を生き、流転――ただ一度は決定的に転化――した。
 流転、運命と飾るのならば、そうした言葉の装飾はいま一冊に対しても適当で、しかし私はすでに「一冊の本に製するには枚数不足」と言った。だから一冊ではないわけだが、それが一冊ではない根拠は他にもある。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』は生前に刊行されていない。刊本を持たない。ゆえに一冊ではない、なかった。雑誌に載せる、発表する等とも無縁で、要するに未活字化に終わった。しかし死後、これは賢治の死が一九三三年九月二十一日のことだから一年後のことになるが、一九三四年十月に初活字化されて、以降、さまざまに形を変えて流転する。まさに何度も決定的に転化した。エピソードの位置(配置)が変更される、のみならず、なにしろ(現在から見れば、の言い方になるが)『銀河鉄道の夜』にはエンディングが二種類あって、このうちの一種は、物語が「銀河鉄道を主人公(たち)が旅する」との駆動状態に入る前の章内に配されてもいた。そうした版があったのだ。それどころか二種がほぼ接しながら「大きな一つのエンディング」を成すように構成された版もあって、これは現在も流通しているのだが、つまり、私が言いたいのは流転の始まりや途上の版を読んだ読者は、そのようにしか読めなかった、との一点だ。かつてはそう読まれた。いまではそれは、賢治本人の肉筆の稿(草稿)の調査をもって誤りだとされる。すなわち「かつて」にはほぼ戻れない。
『銀河鉄道の夜』なる小説は――賢治はこれを少年小説とメモ上に定義した――運命を生きた。「流転の運命を有している」と私は言う。

 さて、ここまでは私は私の直観に頷ける。鉤括弧を付けるならば「運命」を有した「小説」があって、しかも説得的に存在していて、挙げるならば『豊饒の海』と『銀河鉄道の夜』だ、と私はひろげたのだった。けれども私はビジョンを見たい。私は、「ビジョンを見たい」との一文をパラフレーズして、例の二文に換えたがために三島の『豊饒の海』と賢治の『銀河鉄道の夜』に至り、しかし、この二作品(の外貌程度のところ)に臨んでいるだけであって、到底ビジョンそのものには臨めていない。ふたたび鉤括弧に頼る、というか思考の筋道をもここで顧みるが、私は「小説」に「運命」があると言って、かつ「小説」を「近代文学」と言い換え、この戸口とばくちに到達した。しかしながら足らない。何が、どう? 私は、ここでも最初の鉤括弧に戻れば、「日本」人の「作家」として思考しているのであって、これによって『豊饒の海』『銀河鉄道の夜』双方に「運命」ありと理解した。が、不足を感じる。
 だとしたら鉤括弧の付し方に問題があった。
 括り方に。
 どれだ?
 即座に気づけたが、それは「近代文学」である。他にはない。可能性を他の語は含みえないから、この鉤の括弧は外して、近代文学について考える。すると概念規定の不足というのが明らかになる。私は日本人作家とは日本語で執筆する作家だと言った、そのようにもう説いた、つまり欠けているのはそれだ。私は日本近代文学としなければならなかった。そのように脳に刻み、思考しなければならなかった。では鉤括弧は、この六字のどこを、どれを、どのように括るか?
 たとえば――「日本」近代「文学」。
 この瞬間に、私はさらに論考的に先に進めると悟る。

(続きは本誌でお楽しみください。)