立ち読み:新潮 2019年4月号

ショパンゾンビ・コンテスタント/町屋良平

 ぼくが源元げんげんに
「お前のこと、かいていい?」
 あたらしい小説に、とたずねると、かれは「いいよ」べつに、と応えた。
 いつものぼくの部屋。毎度のショパンコンクール。最近閉めきるようになった夜の窓。源元は真剣にPCの画面をみつめていて、ぼくのことばをきいていないようにみえた。
 なので、
「というか、もう書いているんだけど」
 小説、というと、もう一度源元は「いいよ」べつに、と応えた。一度目とまったくおなじように。
 ぼくたちはぼくのアパートで、ショパンコンクールのサードステージをみていた。季節は十月。まだまだぬるい日と、真冬のような風が吹く日が交互にやってきていた。きょうは冬の日だった。源元はピアニスト志望だったのだから、みながら「ゴミ」「まあまあ」「ポーランドのクソヘタ」とかつぶやいていた。ぼくもピアノを真剣に弾くのは止めたつもりだったけど、源元におしかけられるままみていると、ついお気に入りのコンテスタントにはまってしまって、それはアジア系アメリカンのケイト・リウというのだけど、宇宙との言語交換をしているようなかのじょの瞑想的演奏にすっかり魅了されてしまっていた。ユリアンナ・アヴデーエワの優勝から、もう五年。ぼくたちはその当時ちゃんとショパンコンクールをみたことはなく、はじめてのライヴ鑑賞を、たのしんでいた。なんてったって、これを逃したらもう、次回開催は二〇二〇年だ!
ケイト・リウは技術的にきびしい場面いがい鍵盤をみない。ずっと天井をむいている。時折り目をあくときだけみえるなにかを、探しているみたいに。
 ぼくがかきだした小説はこんな感じ。

 源元は弱いものいじめをするのがすきだ。
 かれには人望がある。動物にもどういうわけかすかれる。じつのところ、嗜虐性があるというのは生きものにとっていったん悪感情をもたれども、けして致命的にははたらかない。それは源元をみてはじめてしったことだった。いきものがいきものにきらわれる、それは嗜虐性とは関係のないもっと非意識的な言語レベルのはなしであり、つまるところ出会ったときに大体決まっている。あとは気づくのが早いかどうかの違いだけだ。
 たとえば公園の猫と接するとき、かれは二度目にはその猫にすかれていたりする。こういうことは、人外の隔てなく、ときどき起こるのだった。一度目に眠っている、かなり人馴れている猫に寄っていき、いやなさわりかたをする。眠気を一気に飛ばしてしまう、本能に障るようなさわりかた。もっと慎重に、首のしたから頬にかけて、片手でツボを探るように馴らしていけば、さわらせてくれるはずの猫だった。もう寝てはいられない。猫は逃げる。かれは笑っている。しかし二度目には、猫はかれにさわらせる。みずから身を擦り寄せて。
 人間の女にもそれとよく似たことが起きた。

「読む?」
 と聞くと、源元は「読まない」という。
「なんで?」
「よむとイライラしそう。お前の小説」
「読んだことないだろ」
「ないけど」
 なんか気がすすまない、という源元は、かれが目下肩入れしているエリック・ルーの二十四の前奏曲を聞き、目をきつくつむり、顎をあげ、音楽への没入をしめしたまま瞼で涙を止めていた。ケイト・リウとエリック・ルーは先生がおなじだ。ベトナム・ハノイ出身で一九八〇年のショパンコンクール覇者、ダン・タイ・ソン。だけど源元はぼくの好いているケイト・リウの演奏は酷評している。
「スピリチュアルを気どってるけど、いちおう伝統にも目が行き届いている、そのバランスのよさがしっくりこない……ポーランドの聴衆に愛されてるけど」
 おれはすきくない、という。
 しばし沈黙がただよった。夜のなか。ぼくの部屋は二階建て四棟づくりの古アパートの、階段をあがったすぐそばの六畳間だ。ユニットバスつき、二○一号室。深夜に反対側の二○四号室のアフロの男が帰宅すると、階段がゴンゴン鳴る。錆びた、鉄の軋む音すら鮮明にきこえる。しかしぼくはそのどでかい帰宅音に文句をいったことはないし、こうして深夜に大音量でとおくワルシャワからのライヴをながしつづけていても、まだだれにも怒られていない。部屋を閉めきってもどこぞから侵入するすきま風がさしこむ、音が風にまざってすごくきもちいい。真夜なかにきくピアノの音はとてもひびく。風がしずけさをきわだたせるみたいだった。
 エリック・ルーの演奏がおわると、「ファイナルは、いったな」と源元はいう。満面の笑み。ぼくはポットから白湯をつぎたした。源元は充ち足りた顔をしている。
 小説か……と源元は眠気と昂揚の共存しきったような、穏やかに暖色の肌色をにやけさせて、つぶやいた。
「お前の屈託を考えれば、お前のつくった小説なんて、へんにキラキラしててきもちわるいにきまってる……」
 ショパンの苦悩にみずから深入りしていくようなエリック・ルーの演奏に、陶酔しきった恍惚のまま、そんな嫌なこといえるのがこのおとこ、源元。
「お前のことをしらなければ、よろこんでよむけどな、ことばがキラキラしてる小説は、すきだ」
 書くのはすきにしな、という。
「ありがとう」
 だれに求められているわけでもない小説を書きあぐねているぼくはじくじく嫌みな気分になりかけたが、小説のモデルを快諾してくれたうれしさが勝った。寝ころんだまま中空に両手をあげて、源元の指はピアノを弾きたがっている。パタパタと空気を叩いている。
 ぼくの小説のなかの源元はその後、小説のなかで女のこにつめたくし、女のこにキラキラとすかれる。実際、女のこはやさしい放任より、誠実な奔放のほうが、紙一重ですきなんだ。こんなこと、小説にしかぼくはかけない。現実には、そんなこと信じてもいない。しかし書く小説の世界ではきっとそれでしっくりくる。小説のなかでも外でも、源元は体力がありあまって、才能がありあまって、勇気がある。つぎつぎ、どんどん他人の心をのぞいて、他人の才能を見尽くした気分になっては飽きてしまうのだろう。
 源元には中学時代から七年もつきあっている彼女がいた。美容師志望で、文化への関心は人並みで、芸術にはさっぱり理解を示さない。その潮里という女のこのことを、
「もう、すきとかきらいとかじゃない。愛してるとかでさえない」
 結婚してといわれたらウッカリしちゃいそう。と、源元はいう。
「でも、潮里ちゃんはお前のことすきじゃん」
「そうかなあ」
 そうだよ、とぼくは心のなかで苦くおもっている。ぼくはずっと、潮里のことがすきだからだ。ぼくは、音大に入ってからできた唯一の友だちである源元の彼女の潮里のことが、すきだった。

(続きは本誌でお楽しみください。)