立ち読み:新潮 2019年10月号

令和元年のテロリズム/磯部 涼
第一回 川崎殺傷事件から考える

 茹だるような熱帯夜に、和太鼓の音が響き始めた。ダンプトラックが行き交う道路が二股に分かれていく間の三角地帯につくられた、わずかな遊具が並んでいるだけの児童公園。今日はそのがらんとした広場に紅白に彩られたやぐらが建てられ、日が暮れると近所の人々が浴衣姿で集まってくる。たった2時間だけの盆踊りだが、提灯の明かりに照らされた踊りの輪は熱気に溢れていて、ニュータウンとロードサイドの交差点のような殺風景なこの街にもちゃんとコミュニティが存在することが分かった。あるいは、参加者は例年と心持ちが違ったのかもしれない。途中でマイクを握った町内会の代表は、暑いので水分をしっかり取るよう注意を促したあと、こう続けた。「今年から子供たちと“ヤングマン”を踊ることにしました。皆さんも是非、一緒に踊って下さい」。
「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」は脳梗塞の闘病の末に昨年、急性心不全で亡くなった歌手の西城秀樹が、昭和54年に発表した言わずと知れたヒット曲だ。アメリカのディスコ・グループ=ヴィレッジ・ピープルのオリジナルがゲイ文化の暗喩になっているのに対して、西城のカヴァー版は「ゆううつなど 吹き飛ばして 君も元気出せよ」と力強く歌い上げる率直な青春賛歌。近年、音頭として使われることも珍しくないようだが、そんな若者に捧げられた曲がこの場所で、さらに盆踊りという本来は死者の供養のために行われる祭事でかかることに意味を見出さずにはいられないだろう。子供たちがやぐらに上り、両手で勢いよく“Y”“M”“C”“A”というアルファベットを象りながら踊っている公園の、道路を挟んだちょうど向かいの歩道。そこで約2ヶ月前、スクールバスを待つ列に男が包丁で襲いかかった、いわゆる川崎殺傷事件が起こったのだから。
 横断歩道を渡り、事件が起こった場所で目を閉じて手を合わせる。こちらの歩道は人通りも少なく、背後の祭の喧騒はまるで此岸から聞こえてくるかのようだ。事件現場はブルーシートが張られた建設現場の前だったが、今や真新しいアパートが建ち、山となっていた献花を回収したことを告げる注意書きだけが2ヶ月前の悲劇の記憶を留めている。「この“令和”には、人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つという意味が込められております」(*1)。川崎殺傷事件は内閣総理大臣・安倍晋三がそう説明した新元号に改められて間もなく発生した無差別殺人だというだけでなく、「8050問題」を始めとする、前元号=平成の間、先送りにされてきた問題を露呈させたこともあって、新たな時代の課題を象徴する事件として盛んに議論された。しかし、犯人が自死したため早々と迷宮入りし、また世間では日々起こる陰惨な事件によって印象が薄れつつあるのかもしれない。それでも、こうして歩道に背を向けて目を閉じると、背後からいきなり刺された被害者の恐怖がありありと感じられるのだ。事件の真相を究明するという形での供養がなされる日はくるのだろうか。

       *

 令和元年5月28日、7時45分。小田急線・登戸駅から直線距離で250メートルほど離れた位置にあたる川崎市多摩区登戸新町の事件現場には、阿鼻叫喚の光景が広がっていた。歩道にはランドセルが散乱し、制服姿の子供たちが顔や首から血を流して倒れている。泣き叫ぶ子供もいれば、呆然と座り込む子供もいて、大人たちが「もうすぐ救急車が来るからね、大丈夫だよ」と励ましている。くの字型になって倒れているスーツ姿の男性の周囲には大きな血溜まりが出来ており、顔は真っ青で瞬きもしない。そこから数メートル先では丸刈りで黒いポロシャツにジーンズ、黒い作業用手袋という格好の男が何人かに取り押さえられているが、やはり血だらけで動かない。
 医師らが駆けつけた時には、11歳の女児とスーツ姿の男性が心肺停止状態だったという。女児は右鎖骨付近から首の左側にかけて深い刺し傷が、男性は背中2箇所、胸と首に1箇所ずつ刺し傷があり、胸のそれは心臓にまで達していた。ふたりは蘇生措置を施されたものの、搬送先の日本医科大武蔵小杉病院で死亡を確認。松田潔副院長は記者会見で「どうしても命を救えず、残念な気持ちでいっぱいだ。犯人に激しい怒りを感じている」と語った。同病院の他、計4箇所に19人が搬送。1人が自身で病院へ向かった。内、40代の女性と小学生の女児3人が重傷。被害者が負った傷のほとんどは顔やあご、首、肩など、上半身に集中していた。搬送者の中には件の丸刈りの犯人と見られる男もいたが、首に2箇所深い傷があり、話が出来る状態ではなかった。結局、何も語らないまま病院で死亡が確認される。
 一方、神奈川県警は犯人と見られる男が倒れていた付近で、血のついた刃渡り30センチの柳刃包丁2本を発見。また、50メートルほど離れたコンビニエンス・ストアの駐車場にはリュックサックが放置されていた。目撃者によると男はそこから凶器を取り出し、私立〈カリタス小学校〉のスクールバスを待つために列をつくっていた児童や、付き添いの保護者らに襲いかかったという。リュックサックからはさらにワイシャツに包まれた刃渡り約25センチの文化包丁と約20センチの刺身包丁、遺体のジーンズのポケットからは裸の現金10万円と保険証が発見された。県警は保険証の情報から男を、現場より西に4キロほど離れた川崎市麻生区多摩美たまみに住む51歳の岩崎隆一と推定。直ぐに自宅へ向かうと、伯父と伯母にあたるという高齢の夫婦が現れた。しかし、遺体の顔写真を見せられた彼らの答えは、「知らないひとです」というものだった。
 結局、自宅で採取した指紋及びDNAを鑑定した結果、犯人と見られる遺体を岩崎隆一だと特定。そのような手間もあって、県警は犯人の身元発表までに12時間をも要することになってしまった。ちなみに、事件発生から3時間後には週刊誌の記者が岩崎邸に電話をし、伯父が対応。その時も「こちらに隆一さんという息子さんはいますか?」という記者の質問に対して、彼は「……いるような、いないような」と不可解な答え方をしている(*2)。

 *1 平成31年4月1日、内閣総理大臣記者会見より
 *2 『週刊ポスト』6月14日号より

(続きは本誌でお楽しみください。)