立ち読み:新潮 2019年11月号

ミチノオク 第一回 西馬音内/佐伯一麦

 東北新幹線こまちの窓の外側に滴が付きはじめたと思うと、すぐに雨脚が強まり、数本の水のすじが震えながら横に走った。視界がにわかに灰色に煙り、未知の土地を走っているような心地となる。トンネルに入ると、雨滴はまたたく間に風圧に吹き飛ばされ、鏡となった窓に車内の光景がぼんやりと映し出された。
 仙台市内の自宅を出て、朝八時ちょうどの市営バスに乗るさいには、これなら夜まで何とか天気が持つかもしれない、と薄曇りの空を見上げたものだ。立秋を過ぎると東北の短い夏は終わりのけはいとなり、半袖シャツの二の腕がいくぶん涼しく感じられた。一時は小笠原諸島近海でほとんど停滞し、超大型となった台風十号が、勢力はやや弱まったものの中国地方を暴風域に巻き込みながら豊後水道を北上して四国の佐田岬をかすめた後、広島県の呉市付近に上陸し日本海へと抜けた進路を取ったことで、盆休みの帰省客の足に大混乱を来したのが昨日のことだった。現在、台風は日本海を北海道方面へ向けて北上中で、それに伴う大雨への警戒が東北、北海道に呼びかけられていた。それでも天気予報図では、速度を上げた台風は今日の夕刻には東北の沖合を抜ける模様だった。台風の暴風域が広範囲に及んでいる影響らしく、東北の太平洋側でも、一昨日あたりからときおり南からの強い風が吹いて、自宅の南東の斜面に面した専用庭の枝垂れ桜の枝を大きく揺らしたが、本格的な雨が落ちて来ることはなかった。
 仙台発秋田行きの九時十二分の新幹線に乗り込み、発車して人心地が付いた思いで左手の窓の外へと目を向けると、遠くの雲の切れ間に仄明るい水色さえ僅かに覗いていた。二人掛けの隣の通路側に前から座っていた背広姿の男は、ぼくがすみませんと声をかけて奥に進むときに、口をへの字に結んだまま僅かに膝をよけたほかは、疲れた顔でずっと固く目をつむっていた。車内は、夏休み中の子供たちを連れた家族連れが比較的目立った。市街を抜けると、やがて大崎平野の青青とした田んぼの風景が広がった。七月の初め頃には、日照不足と低温による稲作への影響が心配されたが、どうにか持ちこたえたようだ。その奥羽山脈寄りに奥まったところには東北で唯一、対戦車ヘリコプター、迫撃砲、榴弾砲、戦車の訓練が可能な大規模演習場があり、陸上自衛隊はもとより、沖縄の負担軽減のために沖縄県道一〇四号線越え実弾射撃訓練を分散・実施することが日米合同委員会において合意されてからは在日米軍も演習を行うようになった。回数が増えた実弾訓練が行われている期間は、三十キロ近く離れた丘の上の自宅に居ても、小さな地震かと感じるほどの震動がしばしば起こる。
 稲穂が波打つ懐かしみを帯びた風景が車窓の外を流れていくのを見遣りながら、ぼくはまた、子供の頃に蚊帳が吊られた夏の朝の寝床で聞いた地響きのような重低音を頭の中によみがえらせた。それは最寄りの駐屯地から演習場へと田んぼの中を通る県道を列をなして走行する戦車の音だった。最も近付くあたりでは、キャタピラーが発するキュルキュルという軋み音も耳に付いた。そこは母親の実家で、夏休みや冬休みの間、ぼくは決まって預けられる習慣だった。祖父はぼくが生まれる前に亡くなっていたが、すっかり腰が曲がってしまっていたものの祖母は健在だった。伯父が農家を継いで当主を務めており、田畑の他に乳牛や鶏も飼っていた。馬もいたが、乗らせてもらえるようになる前に手放されてしまったのが子供心に残念だった。新幹線なら仙台からこうして十分ばかりで通りかかるけれども、路線バスでは仙台駅前のバス停から一時間半かかる道のりで、まだ一人で行けない幼少期には、幼稚園や小学校が休みに入ると、伯父が家まで迎えに来てくれた。バスに並んで座ると、伯父からは煙草のほかに、干し草とかすかに肥のにおいもした。そのにおいが、ぼくは嫌いではなかった。
 おんつぁんのとこの子供になれや。伯父はよく、からかうようにぼくにそういった。藁葺き屋根の古く大きな伯父の家に泊まっている間、ぼくとは七つと三つと年の離れた従兄たちと、川泳ぎや魚釣り、土器や矢尻拾い、カブトムシやクワガタ採りなどをした。雪が多い内陸部なので、冬にはかまくらを作って、ろうそくを灯した中で子供たちだけでトランプをしたり、餅を食べることも出来た。田舎の悪童から、積み上げられた稲藁に押し倒されてズボンを脱がされるような洗礼も受けた。畦道を伯父が運転する耕耘機の荷台に乗せてもらうのは心が弾んだし、囲炉裏端で酒を飲んでいる伯父の膝の間にちょこんと坐らせてもらい火を眺めているのも好きだった。伯父は、大戦では南方戦線に赴き、敗戦後生死がまだ不明だったときに、村の霊能者にコックリさんをしてもらい、病気に罹っているがもうすぐ生還する、と予言されたのが当たったという。仙台の生家での暮らしを振り返るぶんには、東北で生まれ育ったということをあまり意識することはないが、幼少年期の伯父の家での経験は確実に、ぼくが自分に根を生やしている東北というものを否応なく感じるときの原点といえた。
 ほどなく古川駅を通過し、くりこま高原駅に近付くと、ぼくは宮城県と岩手県、秋田県の三県にまたがる円錐状の裾野をもつ栗駒山が見えてくる辺りを目で追った。だが、あいにく曇天に隠れて見えなかった。そうして、広い東北の中でも最も面積の広い岩手県に入った辺りから雨が落ちてきたのだった。右斜め前の座席の七十前と見える夫婦連れらしい二人にも、すぐに降り出した雨に気付いて教えている仕草がうかがえた。東京駅か大宮駅からの乗車客のようで、ぼくが乗ったときにはすでにくつろいだ恰好でいた。ホテルの室内で履くような簡易の白いスリッパに履き替え、通路側に座って新書を読んでいた男は、窓際の女に教えられて窓の外へと目をうつした。網棚には、同じ形で色違いの中型のリュック二つが並んで置かれ、座席前の網で出来た物入れには、国土地理院刊行の二万五千分の一の地図が入れられている。夏山へトレッキングにでも行くのだろうか、旅慣れている感じだな、とぼくは見遣った。ポケットがいくつかついたベストに薄茶系のズボンを穿き、グレーの髪をした男は、中肉中背で穏やかな印象を受けた。女の方は、ここからははっきり全身は見えないが、手洗いに立ったときに、肩まで下ろしたふさふさした栗色の髪に眼鏡をかけた顔立ちはふくよかで、ジーンズ姿に藍染のようなベストを羽織っていた。雨にも特に困惑している色はなく、今日はあいにくの雨となったけれど、ゆっくり温泉にでもつかって、台風一過の好天となるにちがいない明日を待とう、という余裕の心づもりかと勝手にぼくは察した。
 いっぽうぼくは、台風が少しでも早く東北を抜けて、夕刻から天気が回復するのに賭ける思いだった。送り盆の今夜から三日間、秋田県雄勝郡羽後町の西にし馬音内もないで国の重要無形民俗文化財に指定されている盆踊りが行われる。それを見に行くのだった。もしも今夜が雨降りでも、期間はあと二日あり、明晩はまず大丈夫だろうと思われるが、あいにく明後日は信州での仕事が入っており、最寄り駅の奥羽本線の湯沢駅を朝一番の列車で発っても間に合わないので一泊しか出来ず、今夜しか機会はない。前もって昨日、羽後町の役場に雨天の場合の盆踊りについて電話で問い合わせると、場所が本町通りから総合体育館に変更となることがあるものの、中止にはならないというので、ともかく向かうことにしたのだった。
 仙台を出発してから四十分で最初の停車駅の盛岡駅に着いた。半数ほどの乗客とともに、隣の男も降りた。ここで、東京駅から併結されて引き続き東北新幹線として新青森駅まで行くはやぶさと切り離され、こまちは在来線の田沢湖線・奥羽本線の線路を走行する秋田新幹線となる。それまで高架からだった車窓の眺めは、地上に近付きすぐ脇に踏切が見えた。速度はぐんと落ち、雨滴は斜めに流れるようになった。東北地方の背骨をなす険しい奥羽山脈を横断するこの路線は、大雨の影響のほかに、野生の熊や羚羊と衝突する事故で運休や遅れが発生することがあった。じっさい昨日も、下りの秋田新幹線が熊をはねて緊急停車し、三十六分遅れで秋田駅に到着した記事が出がけに読んだ朝刊に載っていた。晴れていれば南部富士こと岩手山が望め、高原のような風景を走っていた列車は雫石を通過して少し行った辺りから山中に分け入り、防雪林らしい杉や檜に混じって、茶色に白い木肌のダケカンバや長楕円形の小葉が羽状複葉となっているナナカマドなどの樹木が迫って見えてきた。沢流れもあった。昨日このあたりではねられたらしい熊のその後は確認できていないらしく、雨が降ったり止んだりしている中、ぼくは沿線に目を凝らして熊の行方を追う気持となった。間もなく新幹線は、岩手と秋田の県境の仙岩峠に穿たれた全長三九一五メートルの仙岩トンネルに入っていった。

(続きは本誌でお楽しみください。)