立ち読み:新潮 2019年12月号

青いポポの果実/三国美千子

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 灰色のレースのカーテンはつんと埃の臭いがして、鼻先に触れるたびかさかさした。
 ママが早々に片付けた衣装ケースから引っぱりだしたトレーナーの袖につめたい指先を隠し、体育座りの脚をくるぶしまで身ごろに押し込む。
 五年生になった最初の土曜日だというのに、さっきから「スパイごっこ」と呼びならわす遊びの最中だ。四つ下で新一年生の千由ちゆきこと通称ユキは、「社会観察」なんてきどった呼び方をしていたけれど。
 その遊びが始まったのは、僕らの家のせいかもしれない。こんもりと木々が茂り白鷺がやってくる御陵近くの住宅地の中心に、たくさんの家々を盾にしてひっそりと隠れている。二つの道路、ごく細い現実への接着面だけが外に通じていた。黒い門の前に立っても、裏門の前に立っても、魔法をつかって両方に立ったとしても、僕らの家の全貌は見えやしないだろう。
 変形地のために僕らの家はがたついた境界を持つ。分かち、へだてをつくり、区切るもの。コンクリートのへい、生垣、おおかたは塀だけど。ひとすじの境界をさかいに、さまざまな種類のお隣さんがいた。そして彼らの家の裏側が、ちょうどこちら側から丸見えだった。
 居間の勉強部屋という矛盾する名前がつけられたうす緑のじゅうたんの部屋で、僕は静かにことにあたっている。学習机にむかい計算ドリルを解くふりをしながら、細く開いたガラスの掃き出し窓のレースのカーテンに睫毛をくっつけている。瞬きさえしない。
 この遊びに夢中になると、寒さ、痛み、羞恥、どんな苦痛でも平気だった。一対の眼球だけが体になったみたいに、ひたすら見続ける。
 南に裏庭がある。洗濯物干しがあってママとパパのダブルの敷き布団が物干しざおをしならせる。アガパンサスの葉が茂り、素焼きの手水鉢ちょうずばちの水面が震えていた。
 裏庭の向こうの隣の家を監視していた。
 筆箱の横のおもちゃのトランシーバーからユキの声がする。
「こちらユキ、どうぞ。ナナ。お返事どうぞ」
 ちゃちな電波を通さなくても直接、台所からくりかえし聞こえる。
「オールOK。ユキ」
「アイアイ、キャップ。異常なし。笠智衆りゅうちしゅうがまたベランダにいるだけ。あきないよね」
 台所の窓に面したアパートの担当はユキだ。二階の老人に暗号で笠智衆と名付けたのは、背中の曲がり具合がそっくりだから。
「ジョンが吠えたら気をつけて。雌犬めすいぬの登場ですよ。どうぞ」
 くすくす笑い。春休みの真ん中からユキは笑いじょうごになった。
 雌犬はママのこと。ホームドラマのお母さん役女優をうかっと僕が美人やねと褒めたら返って来た、「あの野卑な口。昔ヌードになった雌犬やないの」というママの言葉にあやかってつけた。今では僕しか使わない暗号だ。
「カップラーメンのから、ポイな」
「がってん承知のすけ。イエロープレーンでお子様ランチは、夢のまた夢やね」
 いえろぷれん。ファミレスをユキ語で表現し、うさぎみたいな足音が玄関へ遠ざかる。
 二度とおもちゃに邪魔されないようスイッチを消す。
 瞼を開き、奥の眼球に集中する。
 奥歯のねぎを取ろうと南の境界に面した洗面所で歯磨きをしている最中に、その異変は起きた。まず大きな荷台のついたトラックが後退を告げる警告音を鳴り響かせながら停車し、作業員が飛び出してきたのだ。
 裏庭に面したその家を僕らは「ポポの木の家」とか、「ポポの家」とひそかに呼んだ。ポポというのはある樹木の名で、今も塀の向こうの二階のベランダにゆうゆう届くほど緑の葉を茂らせている。
 大河ドラマの壮大なオーケストラが二階の窓から流れてくる。
「ポポの木の家」はママに言わせれば「セキスイやし、まあそこそこの家」で、ちょうど四年前に平屋から二世帯住宅に改築されていた。そして今は転校した玲那れなが、一階部分に両親と兄と四人で暮らしていた。二階の、かつて開業医だったという祖父母世代のベランダの窓は全開にされ、若尾文子の感情の昂ぶりを抑えるような低音のナレーションが塀を越え、僕らの家の裏庭をただならぬ空気で満たす。
 がちゃがちゃと、「ポポの木の家」のW字に開く一階の掃き出し窓が、半年以上ぶりに動かされる。
 気づくと僕は毛穴のぶつぶつした膝を抱えた体にもどっていた。ラーメンの油っぽい唾液が舌にたまる。背の高い知らない男が「ポポの木の家」のテラスに出て、珍しそうにこちらを見ていた。グレーの前髪のすきまからメガネのレンズが光った。なんて無作法な。裏同士、互いに面した庭を見てはならないというルールをまだ知らないのだ。戦闘的な気分で、カーテン越しに男のみてくれを観察した。
 2・0の視力を駆使しようと意気込んでいると、次の異変が今度は子供部屋の閉じた雨戸に起きた。
「まさとさん。ここでいいかな」
 絹糸を弾く時みたいに震えをふくんだ低い声が、決定的に僕の観察を中止させた。
 当のサッシの雨戸が開いていた。長い黒髪、巻きつける式の赤いワンピースの深い襟ぐりから白い胸元がはだけている。
 白い指がすっと僕をさす。
 揺れるレースの布地ごと、右目の玉に真珠のマチ針を打たれたようにちくんとして、右目を押さえる。
「その枝、折らないように気をつけてください」
 男が返答する代わりに、引っ越し屋の作業員が黄色の布でくるんだ大きな物体を運んでくる。
 女の小脇でクッションみたいなものがもぞもぞする。赤ん坊だ。横にはおそろしく背の高いメガネの少年がきょろきょろしている。一家。胸元を探りながら女は背をむけ、後ろ手に窓が閉まる。
 土曜日の二時を告げる、「わいわいサタデー」のがちゃついた音楽が応接間からして僕を現実に戻す。
「ユキ?」
 トランシーバーはスイッチを入れてもびくともしない。
 ユキの神出鬼没ぶりにその頃どれほど手をやかされたか。
 閂を外す甲高い音が響いた。
 雌犬のご帰館だ。
 かっかっかっか。パンプスのかかとの刺々しい音に交じって、自転車の車輪ががりがりひっかかった音を立てる。
 悪あがきでシンクの麺のくずを排水口におしこみ、換気扇を回す。
 僕は応接間のじゅうたんの上に寝そべってテレビを見ているパパをふみこえ、ひとりがけのソファに身をうずめるしかない。
 ガラスの引き戸がこじ開けられると同時に、絶叫が家をふるわせる。雌犬はこの家が住宅街から独立した異次元空間だと思っているふしがある。
 雌犬がテレビの司会の落語家の前に、スカートを広げて立ちふさがった。お漏らしみたいなしみが黒々している。
 泥とはちがう、つんとなまぐさい異臭がただよう。
「あうあうあうあうあうあうあうあうああうあうあああ」
 応接間がヒステリアの空気に満たされる。
 煙草のタールでねちっこく飴色になった照明のきらきらした雫がたまりかねたように痙攣けいれんした。太いブラウン管のテレビと機材が無造作に突っ込まれた黒い棚の中で回転しているチョコレート色のVHSテープがきしみ、花と木の実の模様の壁紙にそって高々と積まれたテープの段ボール箱が変にしなった。
 黄色い皮膚の、関節だけがぐりぐりした重たい体がありがたかった。かたまりかけのリンゴゼリーの表面に触れるように人差し指と親指で両瞼のふくらみに触れる。そこに意識の電源はついている。現実的な対応だ。パパもコンテストに名乗りを上げた女たちの股間の水着の切れ上がった布地とストッキングの境目、そこにはみだすものはないか注目する。
 雌犬の叫びを抄訳するとこうだ。病気の従妹いとこのお見舞いに出かけた。癌。死が近づいている。従妹はちょっとした宗教に入っている。気を確かに持つための最後の手段だ。誰もせめられやしない。ママはそれを嫌っている。正々堂々と病に向き合わないなんて卑怯な、と死にかけている人に説教したのだろう。確かに従妹の子供は醤油瓶を倒したろう。母親を守るためにわざと親戚のおばさんのフレアスカートを台無しにしただけ。

(続きは本誌でお楽しみください。)