立ち読み:新潮 2020年2月号

いまから帰ります/天童荒太

      1

 草が飛ぶ。
 根もと近くで切断され、宙にはじき飛ばされた雑草が、東からの風に乗って舞い、彼方できらめく波光をさえぎる。
 あっちなー。田尾遥也たおはるやは、マスクの内側で舌打ちをしながら、アルファベットのUの形をした刈払機かりはらいきのハンドルを握り、からだの右から左へ、メインパイプを振って、高速で回転する刃を草に当てた。
 頭にはヘルメット、顔を目も含めて透明な面シールドで守り、耳にヘッドホンの形をした防音用イヤーマフ、口と鼻は有害物質を除去する性能があるというマスクで覆い、長袖に長ズボンの灰色の作業服、首にタオル、手には機械の振動の影響を抑える防振ぼうしん手袋、腕に防刃用カバー、すねにも強化ポリエチレン製のカバーを着け、先端に鉄芯の入った安全靴をはいている。
 装備だけで窒息死しそうだった。作業着の下はTシャツと短パンだけだが、背筋や股のあいだに気持ちの悪い汗が流れ、足の指も硬い靴に押さえつけられて不快がつのる。髪が、耳が、背中が、股間がむずがゆい。靴を脱ぎたい。
 刈払機を動かしてるときに手を離すと、キックバックといって、回転している刃が宙に振り上げられ、わが身を傷つけかねない。だが、こっちのかゆみを我慢していると、あっちもそっちもと次々にかゆくなり、いっそ回転する刃を鉄の入ってる靴の先端に当て、バリバリと振動を与えたいくらいだ。七月中旬でこうなら、気温も湿度もますます上がってゆくこれから先は、マジで死ぬと思う。
 刈払機には、飛散防止のカバーが付いているが、風に乗ったのか、刈った草の切れ端が面シールドに張り付いた。
 お、ラッキー。刈りつづけることに問題があるほどではないものの、これ幸いと、機械のスイッチを切り、エンジンを止めた。肩掛けバンドで吊っている刈払機を地面に下ろすと、また付ける面倒があり、左手で支えたまま、右手で先に股間を掻いた。いったん掻くと、もっとかゆくなり、しばらく掻きつづけてから、面シールドに張り付いた草を取り、面シールドを額まで上げた。
 いまいる高台から東へ数キロ先に、おだやかな海が広がっている。以前はあったビルも住宅も失せ、残骸もすでに片づけられて、ところどころ雑草の生えた黄褐色の大地が海までつづいている。
 この海がなんで……と、つい愚痴を漏らしそうになる。潮の香りが混じっているかどうか、風のにおいも嗅いでみたくなったが、戸外でマスクを外すことは禁じられている。代わりにイヤーマフを首まで下ろし、もしかして遠い波の音が聞こえないかと耳を澄ました。
 風が一瞬高く鳴った気がした。目のほんのわずか先を黒い物体がかすめて過ぎる。反射的に身をのけぞらせる。カラスにしては小さく、蜂や蝶にしては大き過ぎる物体を、目で追いかける。彼が草を刈ったばかりの向かって左手の地面に、薄汚れたコーヒーのボトル缶が転がった。
 っの野郎……。思い当たって、ボトル缶が飛んできたほうへ顔を振り向ける。十五メートルほど離れた先に、遥也と同じ格好をした作業員が立っている。
 同い年の二十六歳、大学の映研にいた頃からの腐れ縁だ。本名は江藤祥吾えとうしようご、大学で当初はショーゴと呼ばれていたが、ピーマンが嫌い、ニンジンが嫌いと、食べ物の好き嫌いが激しく、根拠のないプライドばかりが高くて、つまらないいたずらや嘘を繰り返すところが、小学五年生並みだと誰かが口にし、いつしかショーゴは、小学五年生を呼ぶイントネーションで、小五と呼ばれるようになった。顔立ちはわりと整っているものの、色白の童顔で、大学時代の合コンのおり、OLに中学生と間違われた経験があり、以来、鼻の下に似合わないひげを伸ばしている。
「仕事さぼって、チンコばっかさわってんじゃねーよ、この変態がよー」
 面シールドを上げた小五が、エンジンを止めたばかりの刈払機を左手で支え持ち、右手でマスクを少し宙に浮かして、大きく呼びかけてくる。
 遥也は、できればマスクを外したくなかったが、仕方なく少し宙に浮かし、
「っせ、ばーか。危ねーだろうが、なんでゴミを拾っとかねーんだよーっ」
 刈払機の高速で回転する刃は、空き缶でもペットボトルの類でも、当たった瞬間、たいていは右から左に振るパイプの動きに合わせ、作業者の左手にはじき飛ばしてしまう。思わぬ事故につながる可能性があるので、草を刈る際は、事前のごみ拾いを欠かせない。
「拾ったよー、知らねーうちに転がってきてたんだろーが、チンカス野郎っ」
 いま作業をしている辺りは、もう長く人の出入りはない。ただ以前は近くに民家があり、畑もあったと聞いている。海岸線のごみが、さえぎるもののなくなった内陸まで、風で運ばれてくる可能性もなくはない。
「よく見てりゃ済む話だろー。次にやったら、これで首はねっぞーっ」
 遥也は、止まっている刈払機を顔の前まで持ち上げた。小五は笑って、
「悪くないねー、『悪魔のいけにえ』かー。ありゃ残虐場面がMOMAに永久保存なんだぜ。やんなら芸術的にやってくれー、レザーフェイスさんよー」
 小五が言うのは、ほぼ半世紀前に作られたホラー映画のことで、レザーフェイスと呼ばれる殺人者の凶器は、刈払機ではなくチェーンソーだ。その殺戮場面は、オリジナル性が買われてか、ニューヨーク近代美術館に収蔵されている。小五はエンターテインメント映画全般に詳しく、スマホの着信メロディは『大脱走』だった。遥也は、欧米のアートムービーやサイレント映画が好きで、着メロはゴダール監督、ジョルジュ・ドルリュー作曲の『軽蔑』にしてある。
 小五はわざとボトル缶をはじき飛ばしたのに違いなく、はじき返してやろうかと、遥也は缶の落ちているほうへ歩いた。ゆるい傾斜を下った先の、草を刈ったあとの台地で動く、油圧ショベルのアームが視界に入ってくる。
 その辺りは、遥也と小五が前日に草を刈り取った場所だった。油圧ショベルのバケットと呼ばれる先端の、爪の部分が地面に食い込み、表面の土を削り取ってゆく。バケットの内側に、削ったばかりの土が溜まってゆく。
 オペレーター席では、白いつなぎの作業服に、ヘルメット、ゴーグル、マスクをした班リーダーの李剛士りたけし、通称リーやんが、レバーを操作している。遠目でも、がっちりした体格のよさが見て取れる。遥也たち二人は、三月にいまの仕事に応募して、彼の班に回された。十歳は年上なのに、気取らない性格で、呼び名はみんなが呼んでるように「リーやん」でいいと言ってくれた。
 リーやんは、油圧ショベルのアームを上げ、九十度ほど回転させて、彼と同様の格好をした作業員二人が立っているところで止める。小柄ながら、姿勢よく足を踏ん張って立っている作業員と、背中を曲げ、いまにも倒れそうで頼りない作業員とが、黒いフレキシブルコンテナ、通称フレコンと呼ばれる大きい袋の口を広げ、バケット内の土が入るのを待っている。バケットが傾けられ、削り取ったばかりの土が、フレコンの中に落ちていく。姿勢のよい作業員が、バケットに残った土を、柄の短いくわを使って袋の中に掻き出してゆく。
 すると、もう一人の頼りなげだった作業員のからだが揺れ、二歩、三歩横によろよろと、その場から離れたかと見ると、いきなり土の上に倒れた。
 遥也は、マスクを上げ、首から下げたホイッスルを口にくわえた。思い切り息を吹き込み、リーやんと小五に知らせたあと、緊急離脱装置のピンを抜いて、刈払機をベルトから外し、地面に置いた。
 リーやんが油圧ショベルを止める。姿勢のよい作業員が、倒れた作業員のもとに身をかがめる。倒れたのは、姿格好からして、小滝英作こたきえいさく、通称「先生」だろう。六十を過ぎていて、元教員、何かのミスで失職し、家族のために、この地域周辺で職を変えながら働きつづけていると、リーやんが教えてくれた。線量計で計られる数値は、労働可能とされる基準値をもう超えているはずだが、数値を自分でごまかしたり、人手が欲しい雇用側が見て見ぬふりをしたりして、ずっと働いてきたようだという。ついにその影響が出たのだろうか。
 遥也が先生のもとに駆け寄ったとき、姿勢のよい作業員が先生の背中の下に手を差し入れて、抱き上げており、
「センセイ、だいじょうぶ? しっかりして」
 と、片言の日本語で呼びかけていた。彼の胸の名札には、『たけ 文男ふみお』と書かれ、周囲も文男と呼んでいる。本名は、ヴー・ヴァン・ナムだと、遥也たちは本人から教わった。日本のレベルの高い建築設計と施工技術を学ぶために技能実習生として来日したが、建設現場の孫請け会社で休みなく働かされ、何一つ専門的な知識を学べなかったという。給料も、本国のブローカーに渡していると言われ、正当に払ってもらえないまま、暴力も受けたことから、パスポートだけを持って現場から逃げ出した。そのままでは故郷に期待されていた金も送れないため、ツテをたどって同郷の知り合いからこの会社を紹介されて、三週間前から働きはじめていた。
 だまされて除染作業に従事する外国人がかつては多くいたと、リーやんが話していた。いまもいるかもしれないが、実数としては減っているらしい。逃げ出して告発されれば、会社は指名業者から外され、つぶれてしまう。雇用条件を良くして、リスクを納得した上で就業を希望する者を、日本人であろうとなかろうと雇用するほうが、長続きすると学んだ会社が、いまは残っているのだという。
 文男は、許されている在留期間にはまだ余裕があるものの、彼を受け入れていた企業の申し立てで在留資格を失っている可能性がある。企業側が自分たちの不正行為の露見を恐れて、彼の失踪を申し立てていない場合も考えられるが、ともかく本来であれば、いまの会社は彼を雇わないはずだった。ちょうど若い作業員が三人一度に辞めて仕事の進行に支障が出ていたことから、現場の判断という緊急措置で、文男はいまの班に回されてきた。雇用条件はほかの者と変えない一方、あくまで文男自身が日本人だと名乗り、にせの履歴書を持参して、就業を希望してきたということにするなら……という現場責任者の説明を、文男は承諾し、その際に用意された日本名も素直に受け入れたという話だった。
 文男が支える腕の中で、先生は意識があるのかないのか判然としないが、首を左右に振り、右手でマスクを外すしぐさを見せる。
「文男、先生にマスクを取らせるなっ」
 油圧ショベルを下りてきたリーやんが、マスク越しに声を飛ばす。
 文男が、先生の右の手首を握って、マスクを守った。
「テオ、文男と一緒に先生を運んでくれ。おれは近くまで車を持ってくる」
 リーやんが遥也に言って、少し離れた先に止めてある大型バンのほうへ急ぎ足で進んでゆく。
 遥也は、高校までは普通に田尾とかハルとか呼ばれていたのに、大学で小五が、ギリシャの天才監督の名前を付けてやる、今日からおまえは田尾じゃないテオだ、と言い、周囲にもそう呼ぶように求めた。うざいから普通に呼べ、と言っても、小五はいつでもどこでもテオと呼び、ここでもそれで通ってしまった。
 油圧ショベルで土を削る現場と、外からの道路が切れている場所に止めてあるバンの、ほぼ中間にフレコンの仮置き場がある。いまフレコンは、ざっと二百袋ばかりが置きっ放しとなっている。その近くに立って警備をしているカスさんが、リーやんが車のほうに進むおりに事情を聞いたのだろう、大丈夫っすか、と歩み寄ってくる。太ったからだに、警備会社の制服、その上に薄い合羽まで防護用に羽織り、ヘルメットとマスクも着けているので、だらだらと汗が額から流れ、眼鏡も少し曇っている。高須賀裕也たかすかゆうやと言い、四十代半ばに見えるが、実はまだ三十歳だと聞いた。リーやんの班と組むことが多く、カスさんと呼ばれていた。
 文男が先生の上半身を、遥也とカスさんが先生の腰の両側に立って下半身を持ち、車まで運んだ。リーやんが道路がない場所まで車をバックさせてくれたおかげで、十五メートルくらい運ぶだけですんだ。
 一番後ろのシートを倒してベッド状にして、先生を寝かせる。カスさんが外へ出て、ドアを閉め、外の空気がひとまず遮断されたため、遥也は先生のヘルメットとゴーグルを取り、文男が先生のマスクを外してやった。
「先生、大丈夫か? しっかりしなよ」
「せんせい、せんせい」
 遥也と文男も、自分のヘルメットと、面シールドあるいはゴーグル、マスクを外しながら、声をかけた。運転席に座ったリーやんが、これを飲ませろ、と、遥也にペットボトルのスポーツドリンクを差し出す。
「先生、飲んで。水分、ちょっとでも摂りなよ」
 遥也が、ペットボトルを先生の口もとに運ぶ。声が聞こえたのか、先生が唇をわずかに上に向ける。遥也がペットボトルを傾けると、先生は喉を鳴らしてスポーツドリンクを少しずつ飲んだ。
 リーやんが、新しいタオルを水筒の水で濡らし、車内で軽くしぼって、
「文男、先生の顔を拭いてやれ」
 と差し出す。文男は、濡れタオルで先生の額から頬を拭いてやり、縦長にたたんで、太い血管の通っている首筋のところに当てた。
 ペットボトルから口を離した先生が、生き返ったかのようなため息をつく。
「……熱中症か?」
 リーやんが遥也に訊いた。そうであってほしい期待が声にこもっている。
「たぶん……小便が近いからって、仕事前も水を摂ろうとしてなかったから」
「んだよぉ、あんだけ水分補給には気ぃつけるようにって言ってんのに……」
 リーやんがぼやいたとき、助手席側の窓がノックされた。
 小五が面シールドを上げ、外に立っている。リーやんが、舌打ちをして、窓ガラスを下ろした。小五は、マスクを外して車内を見回し、
「どしたの、先生、なんで倒れたの? とうとう全身に汚染が回った?」
「つまんねえこと言うなバカ、熱中症だ、いいから外ではマスクをしてろ」
 リーやんが荒い調子で答える。
「えー、みんなだって、マスクを外してるじゃないっすか」
「おまえがしつこく窓を叩くから開けただけだろ。閉めるぞ」
 リーやんが、窓ガラスを上げていく。あ、いや、ちょっと待って……と、小五は窓をなお叩くが、締め切られたため、慌ててマスクを上げた。

(続きは本誌でお楽しみください。)