立ち読み:新潮 2020年2月号

次にバトンを渡すために/津田大介

 今回のことを振り返る前に、まずはあいちトリエンナーレが生まれた経緯を説明します。もともと高度成長期に東京圏・大阪圏と並び、名古屋圏が三大都市圏としての地位を確立したのですが、一九七七年に策定された第三次全国総合開発計画によって、それまで大都市開発やインフラ整備を中心としていた方向性が地方分散、全国の均衡発展を目指す方向に変わってしまい、愛知県は大きな危機感を抱えることになりました。経済界の危機意識にも押されて同年、愛知県は名古屋市で五輪招致に乗り出したものの、韓国のソウル市に負け、一九八八年の夏季オリンピックを開催することはできませんでした。招致が叶わず落ち込んだ仲谷義明愛知県知事が、ソウル五輪の閉幕後自殺するという不幸な事件も起きています。愛知県は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康という三英傑を輩出し、トヨタやデンソーといった世界屈指のものづくりの企業を擁することでも知られます。しかし、都市の文化力で競うとき、東京や大阪と比べてどうしても見劣りしてしまう。そのことへのコンプレックスがあるというのは多くの県民の共通した認識でしょう。
 しかし二十一世紀に入って、愛知県は国際博覧会を呼び込むことに成功し、二〇〇五年に晴れて愛・地球博が開催されました。むろんこの万博にも様々な評価がありますが、国内外から多くの旅行者が訪れ、来場者数は目標を大きく上回った。最終的に129億円の黒字を計上し、満足な結果を残したと地元では言われています。万博で文化事業によって経済発展していくという道筋も見えた。県内の政治家や財界人は大規模な文化イベントをこの先も継続して行えたらという意向でしたが、もちろん万博は定期的に開催できるものではありません。そこで、当時の神田真秋知事がいろいろな人に相談した結果、ビエンナーレ(二年に一度開催する美術展)やトリエンナーレ(三年に一度開催する美術展)ならば持続性があるのではないかという意見にまとまった。リーマンショックの影響で一時は予算が減らされ、愛・地球博からしばらく時間が空いてしまったものの、万博の後継的な位置付けの事業として、二〇一〇年に第一回あいちトリエンナーレが開催されることになったのです。
 初代の芸術監督を務めた建畠晢さんは美術評論家として知られますが、元々は『芸術新潮』の編集者で、詩人としての顔も持ち、美術界が外の業界と繋がることの大切さをよくご存知の方です。ほかの芸術祭と比較して、あいトリの際立った特徴として言えるのは、扱う分野が美術だけではないこと。会期中には演劇やダンス、オペラなども上演されます。これはメイン会場となる愛知芸術文化センターを有効活用したいという行政側の思惑にもよります。バブル時代に計画され、一九九二年に七〇〇億円の予算をかけて建てられた日本でもトップクラスの文化施設で、上の方の階に美術館やギャラリー、下の方の階にオペラやフルオーケストラが公演可能なホールがある。ただ、それまで同じ観客が上と下を行ったり来たりする複合的な利用をされる機会がなかったんですね。トリエンナーレが舞台芸術を扱うことで、この破格の箱物をうまく運用することも課題でした。
 そして第一回のあいトリは五十万人以上の来場者数を記録し、めでたく大成功を収めました。建畠さんにはぜひ三年後も芸術監督をやってほしいという打診があったそうですが、彼はそれを固辞した。むしろ海外の芸術祭のように毎回ディレクターを変え、それぞれの個性を発揮するべきだとして、次の芸術監督を選ぶ側へと回りました。美術業界の内閉性に危機感を覚えていた建畠さんは、あえて専門外の人材をディレクターに据えることによって新鮮な風を吹かせ、国際水準の芸術祭を作ろうとした。そうした思想のもとに、第二回では建築評論家の五十嵐太郎さん、第三回では写真家であり批評家の港千尋さんが選ばれました。
 二〇一九年に開催される第四回あいちトリエンナーレの芸術監督をお願いできないかと僕に打診があったのは、一七年六月のことです。二度の会議を経て津田を指名することに決定したといきなり連絡が来て、事前に何も知らされていなかったものですから、本当に驚きました。それまで自分がやってきた仕事と美術業界があまりに遠く、最初はどうやって辞退すればよいのかと悩んだのですが、身近な人に相談したところ、意外にも「受けてみたら?」という声が多かった。もちろん受けたら受けたで大変なことは目に見えていましたけれども、断ったあとで他のディレクターが手掛けたあいトリを見たら、きっと自分ならこうしたのに、とあれこれ考えてしまうかもしれない。つまり、いずれにしても後悔するのであれば、生涯に一度しかないであろうこの光栄な依頼を受けて後悔する方を選ぶことに決めました。
 その後、僕を選出した委員の人たちから、「津田さんのような美術の門外漢が芸術監督になったのは、トランプがアメリカの大統領になる時代だからだよ」と言われました。二〇一六年六月にブレグジット、二〇一七年一月にはトランプ大統領誕生という、かつてなら常識的に考えてあり得ないことが立て続けに起きた。世界中が混乱し分断が加速する中で、リベラル派が打ち出してきた多文化共生主義が袋小路に追い込まれてしまいました。そんな状況下で、いったいアートに何ができるのか。これまで日本では社会性を強く打ち出した美術展はほとんどなかったものの、ジャーナリストならば現実を反映したアクチュアルな提案ができるのではないかということで、議論の末、僕に白羽の矢が立ったようです。
 新聞のデータベースで調べてみたところ、二〇一六年頃から分断というキーワードが頻出するようになります。あるいはその対抗軸としての多様性という言葉も。実際、ヨコハマトリエンナーレ2017のテーマ「島と星座とガラパゴス」は、多様性の意義を強調したものでした。とはいえ、僕が芸術監督を務めるあいトリは二〇一九年に開催される予定で、分断という切り口が二年後に古くなってはいないにせよ、既に食傷気味ではないかという予想もあった。そんなこともあり、最初は「感情の時代」というテーマを考えたんです。なぜ現在、世界各国で分断が起きているのかと言えば、突き詰めると人々が感情化しているからですね。「ポスト真実トゥルース」という言葉は、まさに論理よりも感情が優先される状況を指しています。
 ただ、「感情の時代」と限定してしまうと何かが足りない。では、我々の感情を掻き立てるものは何かと考えてみると、主に新聞やテレビ、ネットが発信する情報でしょう。情報がなければ人は感情的にならないと言ってもいい。そして感情にも情報にも「情」という同じ字が含まれていることに気づき、語源辞典で調べてみると、「情」という漢字には「心の動き」「本当の姿」「情け」という三つの意味が込められていることがわかった。このうち「心の動き」は主観的なもので、「本当の姿」は客観的なものです。一つの漢字が相反する意味を含むのは面白いと思い、全体のコンセプトを「情の時代」と決めました。作家側も、複数の意味に解釈しうるテーマの方が取り組みやすいかもしれませんしね。参加アーティストの選出には、僕自身も深く関わらせてもらいました。

(続きは本誌でお楽しみください。)